教皇ベネディクト十六世のレームス・サン・ジョルジュ教会での講話

教皇ベネディクト十六世は、「聖地と中東全体の平和のための祈りと悔い改めの日」とした7月23日(日)の午後5時30分から、ヴァッレ・ダオスタ州のレームス・サン・ジョルジュ教会で、中東の平和のための祈りの集いを行いました。レ […]

教皇ベネディクト十六世は、「聖地と中東全体の平和のための祈りと悔い改めの日」とした7月23日(日)の午後5時30分から、ヴァッレ・ダオスタ州のレームス・サン・ジョルジュ教会で、中東の平和のための祈りの集いを行いました。レームス・サン・ジョルジュ教会は、教皇が休暇を過ごしているレ・コーンブから数キロのところにある小教区です。集いには約100人の信者が参加しました。以下に訳出したのは、集いにおける教皇の講話の全文です。講話は事前に用意された原稿なしにイタリア語で行われました。翻訳の底本として、7月25日に教皇庁広報部から発表された速記テキストを用いました。


 

 わたしは、今わたしたちが聞いた聖書のことばを黙想するために、ごく短い話をさせていただきたいと思います。中東の悲惨な状況を前にして、わたしたちは使徒パウロが描いた美しい光景に心を揺さぶられます(エフェソ2・13-18参照)。キリストはわたしたちの平和であります。キリストは、ユダヤ人と異邦人を互いに和解させ、ご自分のからだにおいて一つのものとされました。キリストは十字架の上で、ご自分のからだによって、敵意を滅ぼされました。キリストは、ご自分の死によって敵意を滅ぼし、わたしたち皆を、ご自身の平和によって一致させてくださいました。
 けれども、この美しい光景よりもわたしたちの心を揺さぶるのは、わたしたちが経験し、目の当たりにしている現実と、この光景との隔たりです。そして、まず初めに、わたしたちは主にこういうことしかできません。「わたしの主よ、あなたの使徒が述べた、『両者が和解させられた』とは、どういうことなのでしょうか。現実には、両者が和解させられていないのを、わたしたちは目にしています。・・・・キリスト教徒とイスラーム教徒とユダヤ人の間では、依然として戦いが行われています。他の人びとは戦争をあおっています。そして、すべての人はなおも敵意と暴力に満たされています。あなたのささげたいけにえの力は、どこにあるのでしょうか。歴史の中で、あなたの使徒がわたしたちに語るこの平和が、どこにあるのでしょうか」。
 わたしたち人間には、歴史の神秘を説き明かすことができません。歴史の神秘とは、神の平和を拒んだ、人間の自由の神秘です。わたしたちには、神と人間の関係の神秘のすべてを解き明かすことはできません。神と人間の関係の神秘とは、神の行われたわざと、わたしたちの行うこたえです。わたしたちはこの神秘を受け入れなければなりません。にもかかわらず、主がわたしたちに与えたこたえには、いくつかの要素があります。
 第一の要素は、この主が行った和解、すなわち、主がささげたこのいけにえには、かならず力があるということです。普遍教会と、すべての民の交わり、聖体の交わりのつながりは、偉大な現実です。この現実は、諸文化、諸文明、民族と時代の違いを越えるからです。
 この交わりはたしかに存在します。この「平和の島々」は、キリストのからだのうちに存在します。それはたしかに存在しています。そして、平和の力は、世界の中に存在しています。歴史を見渡すならば、わたしたちは、偉大な愛の聖人たちが、世界の中でこの神の平和の「オアシス」を作り出したのを見ることができます。この聖人たちは、絶えず新たにその灯火(ともしび)をともしました。そして、絶えず新たに和解をもたらし、平和を作り出すことができました。キリストとともに苦しんだ、殉教者たちも存在します。殉教者たちは平和と愛をあかししました。この愛が、暴力に限界を設けるのです。
 別の現実が依然として存在するにもかかわらず、この平和の現実は存在します。このことを目の当たりにすることによって、わたしたちは、この聖パウロのエフェソの信徒への手紙のメッセージをさらに深く考察することができます。主は十字架の上で勝利を収めました。主が勝利を収めたのは、新しい権力によってでもなければ、ほかの人を破壊することのできる、人よりも大きな力によってでもありませんでした。わたしたちは、人よりも強い権力によって勝利を収めることを想像します。しかし、主は人間的なしかたで勝利を収めたのではありませんでした。主は、愛によって勝利を収めました。この愛は、死を滅ぼすことができるからです。
 これが、神が勝利を収めるための新しい方法です。神は、より強力な暴力でもって、暴力と戦うことをしません。神は、まさに暴力と反対のものによって、暴力と戦います。すなわち、その十字架に至るまでの、この上ない愛によって、戦うのです。これこそが、神が勝利を収めるための、へりくだりの道です。神はその愛によって、暴力に限界を設けました。そして、神はその愛によってしか、暴力に限界を設けることができませんでした。勝利を収めるためのこのような方法は、わたしたちには、あまりにも時間のかかるものに思えるかもしれません。けれどもこれが、悪に打ち勝ち、暴力に打ち勝つための真の方法なのです。そして、わたしたちは、神が勝利を収めるためのこの方法を、信頼しなければなりません。
 信頼するとは、この神の愛に積極的にあずかることです。平和をもたらすためのこの労苦に参加することです。主が次のようにいわれたことばに従うことです。「平和を実現する人びとは、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。わたしたちは、可能な限り、すべての苦しむ人にわたしたちの愛を与えなければなりません。わたしたちは、最後の審判の裁き主が、これらの苦しむ人は自分のことだといわれるのを、知っているからです。
 ですから、わたしたちがこれらの苦しむ人にするのは、わたしたちの生涯の最終的な裁き主にすることです。これは大事な点です。すなわち、わたしたちはこの瞬間に、神の勝利を世にもたらすことができるということです。そのために、わたしたちは、神の愛に積極的に参加しなければなりません。
 現代の文化と宗教の多元化した世界にあって、わたしたちは次のようにいう誘惑に駆られます。すなわち、「さまざまな宗教と、さまざまな文化が存在する中で、世界平和のためには、特にキリスト教に属することをあまり語らないほうがよい。つまり、イエスや、教会や、秘跡のことを。おおよそ共通だといえることで満足しようではないか」と。
 しかし、それは真実ではありません。まさにこのような時代だからこそ、すなわち、神の名がはなはだしく濫用されている今の時代だからこそ、わたしたちは神を必要としています。十字架の上で勝利を収めた神を、暴力によってではなく、愛によって勝利を収めた神を。まさにこのような時代だからこそ、わたしたちはキリストのみ顔を必要としています。それは、神の真のみ顔を知り、そこから、この世界に和解と光をもたらすことができるようになるためです。そのため、わたしたちは、愛し、愛を知らせ、この世で苦しむ人のためにできることをすべて行うだけでなく、同時に、この神をあかししなければなりません。すなわち、その十字架という非暴力によって、神が勝利を収めたことを、あかししなければなりません。
 こうしてわたしたちは出発点に戻ります。わたしたちにできることは、愛をあかしすることであり、信仰をあかしすることです。何よりも、神に向かって叫ぶことです。わたしたちは祈ることができます。わたしたちは、わたしたちの父が、その子らの叫びを聞いてくださることを確信しています。わたしたちは、ミサの聖体拝領を準備するとき、わたしたちを一致させてくださるキリストのからだを受けるに際して、教会とともにこう祈っています。「主よ、わたしたちをすべての悪から解放し、わたしたちの生涯の日々の中で、わたしたちに平和をお与えください」。この時にあたり、この祈りがわたしたちの祈りとなりますように。「わたしたちをすべての悪から解放し、わたしたちに平和をお与えください」。主よ、明日や明後日ではなく、今日、わたしたちに平和をお与えください。アーメン。

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