教皇ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での講演

南ドイツ司牧訪問の4日目の9月12日(火)午後5時から、レーゲンスブルク大学講堂で、教皇ベネディクト十六世は大学関係者に対する講演を行いました。以下はその全文の翻訳です(原文はドイツ語)。なお、訳文は、その後、2006年10月9日にバチカンのウェブサイトに掲載された、注を付けた改訂版に基づいて改めました。
教皇ベネディクト十六世は1969年から1977年までレーゲンスブルク大学で教義学と教義史の主任教授と同大学副学長を務めました。


信仰、理性、大学――回顧と考察

ご来席の皆様。

 この大学に戻って、もう一度講義をすることができ、感慨深く思っております。わたしは、フライジング大学での楽しい時期の後、ボン大学で教え始めた頃のことを思い起こします。それは1959年のことでした。当時、大学は昔からの正教授で構成されていました。各講座には助手も秘書もいませんでしたが、その代わりに、もっと学生と、とりわけ教授どうしが直接に触れ合うことができました。わたしたちは講義の前後に講師室に集まりました。そこでは、歴史学者、哲学者、文献学者の間で、またもちろんのこと、二つの神学部の間で、生き生きとした接触が行われました。

 一学期に一度、いわゆる「大学の日」(Dies academicus)がありました。その日には、あらゆる学部の教授たちが大学全体の学生の前に姿を現し、真の意味で「大学であること」(universitas)を経験することができました。それは、たった今、学長が仰ったものです。言い換えると、それは、わたしたちがさまざまな専門分野に分かれているにもかかわらず――そのため、わたしたちは互いに話し合うことが、時としてむずかしくなるのですが――、一つの全体を作り上げているという経験です。こうしてわたしたちは、さまざまな側面をもちながらも一つである、理性の全体の中で活動し、理性の正しい使用に対する責任を共有します。わたしたちはこのことを経験できました。

 この大学はまた、二つの神学部を備えていることを誇りとしていました。この二つの神学部もまた、信仰の合理性を探究しながら、「学問の普遍性」(universitas scientiarum)の「全体」の不可欠な部分に属する作業を行っていたことは、明らかです。もちろん、すべての人が信仰をもっていたわけではありません。しかし、神学者はこの信仰を理性全体と結びつけようと努めます。このような、理性の宇宙の内的なつながりが乱されることはありませんでした。もっとも、あるときこういう話を聞いたことがあります。一人の同じ大学の教員がこういいました。自分たちの大学にはすこし妙なところがある。この大学には、存在しないものについて――すなわち神について研究する二つの学部があることだと。このような徹底した懐疑主義を前にしたときにも、理性をもって神について問うこと、それも、キリスト教信仰の伝統との関わりにおいてそれを行うことは、依然として必要かつ合理的なことであり続けます。このことが、大学全体の中で自明のこととして認められていました。

 これらすべてのことを、最近わたしは、テオドーレ・クーリー教授(ミュンスター)が編集したテキストを読んだときに思い起こしました。このテキストは、おそらく1391年に、アンカラ近くの冬の宿営で、ビザンティンの学者皇帝マヌエル二世パライオロゴスと、ある教養のあるペルシア人との間で、キリスト教とイスラーム教、また両者の真理をめぐって行われた対話の一部です(1)。

 おそらく皇帝自身が、1394年から1402年にわたるコンスタンティノポリス包囲の間に、この対話を記したと思われます。皇帝の議論のほうがペルシア人の対話者の議論よりも詳しく述べられているのは、そのためだとわかります(2)。対話は、聖書とコーランに含まれた信仰の構造をめぐって、さまざまな内容を論じています。特に扱われるのは、神像と人間像です。また、当然、彼らがいうところの「三つの法」あるいは「三つの生活の規則」――すなわち、旧約聖書と新約聖書とコーランの関係が繰り返し論じられます。

 わたしは今、この講演の中で、この問題を扱うつもりはありません。ただ一つの点――それは対話全体の枠組みの中では周辺的なことですが――にだけ触れたいと思います。これは、「信仰と理性」というテーマとの関連で、わたしに興味深く思われ、また、このテーマに関するわたしの考察の出発点として役に立つものだからです。

 クーリー教授の版の第七対話(ディアレクシス)で、皇帝は「ジハード(聖戦)」というテーマに言及します。皇帝はコーラン第2章(スーラ)256節に次のように書かれているのを間違いなく知っていました。「宗教にむり強いがあってはならない」(『コーランⅠ』藤本勝次・伴康哉・池田修訳、中央公論新社、2002年、49頁)。一部の専門家がいうところによると、おそらくこれはムハンマドがまだ力をもたず、迫害されていた、初期の時代のスーラの一つです。しかし皇帝はもちろん、その後展開して、コーランの中に記された、聖戦に関する教えのことも知っていました。

 「啓典の民」と「不信心者」に対する扱いの違いといった、詳細な事柄に立ち入ることなく、皇帝は対話の相手に向かって、驚くべきぶしつけさをもって、わたしたちが受け入れがたいぶしつけさをもって、宗教と暴力一般の関係に関する中心的な問いを発します。皇帝はいいます。「ムハンマドが新しいこととしてもたらしたものをわたしに示してください。あなたはそこに悪と非人間性しか見いだすことができません。たとえば、ムハンマドが、自分の説いた信仰を剣によって広めよと命じたことです」(3)。

 皇帝は、これほど強い調子のことばを述べてから、信仰を暴力によって広めることがなぜ不合理なことであるかを、続けて説明します。暴力は神の本性と魂の本性に反します。皇帝はいいます。「神は血を喜びませんし、理性に従う(シュン・ロゴイ)ことなしに行動することは神の本性に反します。信仰は魂から生まれるものであって、肉体から生まれるものではありません。誰かを信仰に導きたいなら、必要とされるのは、上手に語り、正しく考える能力であって、暴力や脅しではありません。・・・・理性を備えた魂を説得するために、腕力も、いかなる武器も、死をもって人を脅すその他の手段も必要ではありません・・・・」(4)。

 暴力的な改宗に反対するこの議論の中で、決定的なしかたで述べられているのは、このことです。すなわち、理性に従わない行動は、神の本性に反するということです(5)。校訂者のテオドーレ・クーリーは、これについて次のように注解しています。ギリシア哲学によって育てられたビザンティン人である皇帝にとって、この言明は自明なものでした。それに対して、イスラームの教えにとって、神は絶対的に超越的な存在です。神の意志は、わたしたちのカテゴリーにも、理性にも、しばられることはありません(6)。クーリーはそこで、有名なフランスのイスラーム研究者のR・アルナルデスの研究を引用します。アルナルデスは、イブン・ハズムが次のように述べたことを指摘しています。「神は自分自身のことばにさえしばられることがない。何者も、神に対して、真理をわたしたちに啓示するよう義務づけることはない。神が望むなら、人間は偶像崇拝でさえも行わなければならない」(7)。

 ここでわたしたちは、神理解に関する限り、したがって、宗教の具体的な実践に関する限り、あるジレンマに直面します。このジレンマは、今日、わたしたちにとって直接問題となっているものです。理性に従わずに行動することは神の本性に反するというのは、ギリシア人の考えにすぎないものでしょうか。それともそれは、常にそれ自体としていえることなのでしょうか。

 わたしの考えでは、ここにわたしたちは、最高の意味でのギリシア的なものと、聖書に基づく神への信仰の間の、深い一致を認めることができます。創世記の最初の節、すなわち聖書全体の最初の節に基づいて、ヨハネはその福音書の序言を次のことばで始めます。「初めにことば(ロゴス)があった」。

 これはまさに皇帝が用いたことばにほかなりません。神は「理性に基づいて(シュン・ロゴイ)」働きます。「ロゴス」は、「理性」と「ことば」の両方の意味を表します。理性は、まさに理性として、創造的であるとともに、自らを伝えることができます。そこでヨハネは、聖書の神概念に関して、決定的なことばで語りました。そして、このことばによって、聖書の信仰のしばしば辛く曲がりくねった歩みは、目的地に達し、一つにまとまります。福音書記者はこのようにいいます。初めにロゴスがあった。ロゴスは神であった。聖書のメッセージとギリシア思想とのこのような出会いは、偶然起きたことではありません。

 聖パウロは、アジアに行くことを禁じられましたが、幻の中で一人のマケドニア人が現れて、パウロに次のように願うのを聞きました。「渡って来て、わたしたちを助けてください」(使徒言行録16・6-10参照)。この幻は、聖書の信仰とギリシア人の探究の出会いの内的な必然性を、濃縮した形で述べたものと解釈することができます。

 ところで、この出会いは古くから行われてきていました。燃える柴から、神の神秘的な名が示されました。その名は、この神を他の多くの名前をもった神々から区別して、ただ「わたしはある」、すなわち存在する者とだけ告げました。この神秘的な名は、神話の否定です。この神話の否定は、神話に打ち勝ち、神話を乗り越えようとした、ソクラテスの試みときわめて類似しています(8)。旧約の中で、燃える柴から始まった過程は、出エジプトのときに新たな成熟に達しました。そのとき、土地と礼拝することを奪われたイスラエルの神は、天と地の神であると宣言されました。神は、「わたしはある」という、燃える柴の中でいわれたことばを反映する、簡潔な言い方で表現されたのです。

 この新たな神認識は、一種の覚醒を伴うものでした。この覚醒は、人間の手が造ったものにすぎない神々に対する軽蔑によって徹底したしかたで表現されています(詩編115参照)。ヘレニズム時代において、ギリシア人の生活様式と偶像崇拝を強制しようとしたヘレニズムの支配者との間で激しい対立が生じたものの、聖書の信仰は深い次元で、最高の意味でのギリシア思想と出会いました。この出会いは、特に後の知恵文学において生じました。

 今日、わたしたちは、アレキサンドリアで行われた旧約聖書のギリシア語訳(七十人訳)は、ヘブライ語テキストのたんなる(その意味できわめて不満足な)翻訳以上のものであることを知っています。すなわち、それは独立したテキストであり、啓示の歴史における固有の重要な歩みです。この歩みの中で、このギリシア思想との出会いが、キリスト教の成立と伝播に決定的な意味をもつしかたで実現されました(9)。そのとき、信仰と理性の出会いが深い次元で行われました。それは、正しい意味での啓蒙と、宗教との出会いでした。キリスト教信仰の内的な本質に基づいて、同時に、信仰と融合したギリシア思想の本質に基づいて、マヌエル二世はこういうことができたのです。「ロゴスに従うことなしに」行動することは、神の本性に反すると。

 もっとも、正直にいえば、わたしたちは中世後期において、このギリシア精神とキリスト教精神の総合を断ち切ろうとする神学思潮の展開を見いだします。いわゆるアウグスチヌス・トマス的な主知主義に対抗して、スコトゥスから主意主義の立場が始まります。主意主義は、その後の展開において、究極的に、わたしたちは神についてその「秩序づけられた意志」(voluntas ordinata)しか認識できないというに至ります。神の自由はこの「秩序づけられた意志」の彼方に存在します。神はこの自由によって、自分の行ったすべてのことの反対のことを行うこともできたし、またこれからも行うことができるのです。

 ここに、イブン・ハズムの立場と類似した、真理や善にしばられることさえもない、恣意的な神の姿に通じうるような立場が生じます。神の超越性と他者性が強調された結果、わたしたちの理性や、真や善に対するわたしたちの感覚は、もはや真の神の像ではなくなります。神の実際の決定の裏にある、その計り知れない能力は、永遠に知りえないままに隠されたものとなります。

 これに対して、教会の信仰は、神とわたしたちの間、創造者である永遠の霊とわたしたちの創造された理性の間に、真の意味での類比が存在すると、常に主張してきました。この類比において、たとえ――1215年の第四ラテラノ公会議が述べたように――非類似性が類似性より無限に大きいとしても、類比や類比ということばが廃止されることはありません。

 神は、わたしたちが神を完全に不可知の主意主義へと追いやれば追いやるほど、神的になるわけではありません。むしろ、真の神としての神は、ロゴスとして自らを啓示した神、また、ロゴスとして、わたしたちを愛しながらわざを行ってこられた神です。たしかに、パウロが述べているように、愛は知識を「はるかに超え」、人の考えだけで知ることができないものです(エフェソ3・19参照)。にもかかわらず、愛は、ロゴスである神の愛であり続けます。それゆえ、再びパウロが述べているように、キリスト信者の礼拝は、「なすべき(理にかなった)礼拝」(ロギケー・ラトレイア)、すなわち永遠のみことばとわたしたちの理性と一致した礼拝となるのです(ローマ12・1参照)(10)。

 今述べた、聖書の信仰とギリシア人の哲学的問いかけとの間で行われた、内的な出会いは、宗教史にとってだけでなく、世界史にとっても、決定的に重要な出来事です。この出来事は、現代のわたしたちにも関わっています。この出会いを前提とするなら、キリスト教が、中近東に起源をもち、中近東で重要な展開を行ったにもかかわらず、ヨーロッパでその歴史的に決定的な形態をとったのは、驚くべきことではありません。逆にこういうこともできます。この出会いが、その後それにローマの遺産が付け加えられることにより、ヨーロッパを形成したのであり、また、今も、正しくヨーロッパと呼びうるものの基礎であり続けているのだと。

 批判的に浄められたギリシアの遺産が、本質的なしかたでキリスト教信仰に属するという、この主張は、キリスト教の非ヘレニズム化への要求によって反対されています。この要求は、近代初頭以来、神学の議論をますます支配するようになりました。詳しく見ると、非ヘレニズム化には三つの波があるのを認めることができます。この三つの波は、互いに関係していますが、その動機と目的においてはっきり区別できるものです(11)。

 非ヘレニズム化はまず、16世紀の宗教改革の要求において現れました。宗教改革者たちは、スコラ神学が、完全に哲学によって規定された信仰の体系化であり、いわば信仰に由来しない思考によって信仰を異質なものとして規定したものだと考えました。その結果、信仰は生きた歴史的なことばではなく、一つの哲学体系となりました。

 これに対して、「聖書のみによって」(Sola Scriptura)は、聖書のことばの中に本来存在していた、信仰の純粋な原型を探究しました。形而上学は、別のところに由来する前提とされました。信仰は、本来の姿を取り戻すために、形而上学から解放されなければなりませんでした。カントは、信仰に場所を与えるために、思惟を脇に置かなければならないと述べました。これによって、彼は、宗教改革者たちが予想できなかったような徹底したしかたで、宗教改革者のこの計画を実行したのです。こうしてカントは、信仰を実践理性のみに基づかせ、信仰から現実全体に通じる道を閉ざしました。

 19・20世紀の自由主義神学は、非ヘレニズム化の主張の第二の波をもたらしました。その代表者はアドルフ・フォン・ハルナックです。わたしが学生だった頃、また、わたしが教え始めた最初の頃は、この主張がカトリック神学にも強く影響していました。この主張の出発点とされたのは、パスカルによる、哲学者の神と、アブラハム、イサク、ヤコブの神との区別です。

 1959年のボン大学での教授就任講義の中で、わたしはこの問題に答えようと試みました(12)。ここでこの講義のすべてを繰り返すつもりはありません。ただ、少なくとも、この非ヘレニズム化の新たな第二の波と第一の波の違いを、簡単に明らかにしたいと思います。ハルナックの中心思想は、ただ人間イエスとその素朴なメッセージに戻ることでした。それが、あらゆる神学化とヘレニズム化の前提となるものだからです。この素朴なメッセージは、人類の宗教的発展の真の頂点を示します。イエスは、道徳のために礼拝を廃止しました。イエスは、最終的に、博愛的な道徳的教えの父として示されます。

 こうしてハルナックが根本的にめざしたのは、キリスト教を再び近代精神と一致させることであり、そこから、キリスト教を、キリストの神性や、神の三一性への信仰といった、その表面上の哲学的・神学的要素から解放することでした。その点で、ハルナックの考えでは、新約聖書の歴史的・批判的釈義は、神学をあらためて大学の宇宙の中に組み入れるものでした。ハルナックにとって、神学は本質的に歴史的なものであり、それゆえに厳密な意味で学問的なのです。イエスについて批判的にいいうることは、いわば実践理性の表現であり、だからこそ、それはまた、全体として大学内で正当化されうるのです。

 この背景にあるのは、近代的な理性の自己限定です。このことはカントの批判書の中で古典的なしかたで表現されましたが、その後、自然科学の思考によってさらに徹底的な形をとりました。簡単にいうなら、こうした近代的な理性概念は、科学技術の進歩によって強化された、プラトン主義(デカルト主義)と経験論の総合に基づいています。

 一方で、ここで前提となっているのは、物質の数学的な構造、そのいわば内的な合理性です。この合理性により、物質の働きを理解し、物質を利用することが可能となります。このような根本的な前提が、近代の自然理解のいわばプラトン主義的な構成要素です。他方で、自然はわたしたちの目的に対して機能することができます。ここでは、実験における検証可能性ないし反証可能性のみが、決定的な確実性を示します。これら二つの両極の重点は、場合によって互いに入れ替わります。J・モノーのようなきわめて実証主義的な思想家は、自分は筋金入りのプラトン主義者だと称しています。

 このことは、わたしたちの問いかけにとって決定的に重要な、二つの根本的な方向づけを示します。まず、数学と経験の連関から生じる形の確実性のみが、科学的だということが許されます。科学たりうるためには、この基準に従わなければなりません。そこで、歴史学、心理学、社会学、哲学といった人文科学も、こうした科学性の規範と一致するように努めました。

 わたしたちの考察にとって重要な、もう一つの点は、こうした方法論が、それ自体として、神への問いを排除することです。そして、神への問いは、非科学的ないし前科学的な問いとされます。したがって、ここでわたしたちは科学と理性の範囲の縮小に直面します。わたしたちはこのことを問題にしなければなりません。

 わたしたちは、この問題を後でもう一度取り上げるつもりです。とりあえず確認しておかなければならないのは、このような視点から神学を「科学的」なものとしようとする試みは、キリスト教のわずかな断片しか残さないということです。わたしたちは、さらにこういわなければなりません。これだけが科学であるなら、人間そのものも縮小されると。なぜなら、わたしたちの起源と目的に関する問いや、宗教や倫理の問いなどの、本来の人間に関する問いは、上述した「科学」によって規定された、共通の理性の範囲内に場を占めることがなくなり、主観的なものとされるからです。

 そこから、人は、自分の経験に基づいて、自分が宗教的に耐えられると思われるものだけを選ぶことになり、主観的な「良心」が、個々の倫理的判断の最終的な判定者となります。しかし、こうして倫理と宗教は共同体を形成する力を失い、個人の恣意に委ねられます。このような状態は人類にとって危険なものです。わたしたちはそれを、わたしたちを悩ませている宗教と倫理のさまざまな病理に見ることができます。こうした病理は、宗教や倫理に関する問いを理性が扱いえないまでに、理性が縮小されたときに、生じてこざるをえないのです。進化の法則や心理学と社会学から倫理を打ち立てようとする試みは、何の役にも立ちません。

 これらのことのもたらす帰結を述べる前に――それがわたしの目的なのですが――、わたしは非ヘレニズム化の第三の波について簡単に触れたいと思います。この第三の波は、現代、わたしたちのまわりに見られるものです。文化の多元性の経験に基づいて、今日、よくこういうことがいわれます。すなわち、古代教会が行ったヘレニズムとの総合は、キリスト教の最初のインカルチュレーションであって、これを現代、他文化に強制してはならないのだと。

 他文化は、こうしたインカルチュレーション以前の新約聖書の単純なメッセージに戻るべきであるとされます。それは、自分たちの空間の中で、このメッセージのインカルチュレーションを行うためです。この考えは、ただ間違いであるだけでなく、粗雑かつ不正確です。なぜなら、新約聖書はギリシア語で書かれ、それ自体の内にギリシア精神との接触を含んでいます。この接触は、新約聖書以前の旧約聖書の発展の中で成熟してきたものです。

 たしかに、古代教会の発展の中には、すべての文化に導入すべきでない要素もあります。けれども、信仰に関することを人間の理性による探究と結びつけようとした根本的な決定は、信仰自体に属するものであり、信仰にかなった発展だといえます。

 そこでわたしは結論を述べたいと思います。以上に荒削りなしかたで近代における理性の自己批判について述べたのは、わたしたちが啓蒙主義以前の時代にもう一度戻るべきであるとか、近代の思想を否定すべきだとか、いいたいためではありません。近代の精神的な発展の意義は、十分に認められるべきものです。わたしたちは皆、近代精神がわたしたちに開いた大きな可能性と、わたしたちが経験した人類の進歩に感謝しています。さらに、自然科学の精神は――学長がすでに述べられた通り――、真理への忠実さであり、そうである限り、それは、キリスト教の本質的なあり方に属する、根本的な態度の表現です。

 わたしは撤回や、否定的な批判を行いたいのではありません。いいたいことはむしろ、わたしたちの理性概念と理性の使用を拡大するということです。わたしたちは、人類にもたらされた新たな可能性を享受する一方で、この可能性から生じたさまざまな危険も目にしています。そしてわたしたちは、どうすればこのような危険に対処できるか、自らに問いかけなければなりません。

 そのために、理性と信仰を新たなしかたで総合しなければなりません。人が自らに命じた、経験的に反証可能な領域への理性の限定を克服し、理性を広い空間に向けて再び開放しなければなりません。この意味で、神学は、たんなる歴史的・人文科学的学科としてではなく、本来の意味での神学として、すなわち、信仰の合理性への問いとして、大学に属し、諸科学の大きな対話に加わるのです。

 このようにして初めて、わたしたちは、わたしたちが緊急に必要としている、諸文化と諸宗教との真の意味での対話を行うことが可能になるのです。西洋世界では、実証的な理性と、実証的な理性に基づく哲学のみが普遍性をもつという考えが、ずっと支配してきました。しかし、世界の深い宗教的諸文化は、このように理性の普遍性から神的なものを排除することを、彼らのもっとも深い確信に対する攻撃とみなしています。

 神的なものに対して耳を閉ざし、宗教をサブカルチャーの領域に押しやるような理性は、諸文化との対話に入ることができません。同時に、わたしが示そうと試みたように、本質的にプラトン主義的な要素をもつ近代自然科学の理性は、自らの内に、自分自身とその方法論的可能性を超えたものをめざす問いを含みもっています。近代自然科学の理性は、物質の合理的構造を、また、わたしたちの精神と自然を支配する合理的な構造の対応を、単純に所与として受け入れなければなりません。その方法論はこうした所与に基づいているからです。

 しかしながら、なぜそうしなければならないのかという問いは、依然として残ります。そして、自然科学はこの問いを、他の思考領域と思考様式に――すなわち哲学と神学に委ねなければなりません。哲学にとって、また、違うしかたではありますが、神学にとって、人類の宗教的諸伝統の、とりわけキリスト教信仰の、偉大な経験と洞察に耳を傾けることが、認識の源泉となります。こうした源泉を拒絶するなら、わたしたちは、許しがたいしかたで、自分たちが耳を傾け、応答する態度を制約することになります。

 ここでわたしは、ソクラテスがパイドンに対して述べたことばを思い起こします。それまでの対話の中で、多くの誤った哲学的見解に触れた後、ソクラテスはこういいます。「そのようなさまざまな言論に出会ったからといって、・・・・ついには苦しみのあまりに・・・・以後の生は、すべて言論を憎みののしりながら終始することになり、存在するものの真実と、その知識にはあずかりえぬものとなってしまうのだ」(13)。

 西洋世界は長い間、自らの理性の基礎にある問いを嫌うことによって、危険にさらされてきました。また、このことによって大きな損失をこうむるおそれがあります。理性を広げる勇気をもつこと。理性の偉大さを拒絶しないこと。これが、聖書の信仰に基づく神学が、現代の議論に加わるための計画なのです。

 マヌエル二世は、自らのキリスト教的な神像に従って、ペルシア人の対話者に対して、「理性に従わない、すなわちロゴスに従わない行動は、神の本性に反する」といいました。わたしたちも、諸文化との対話において、この偉大なロゴスへと、この理性の広がりへと、対話の相手を招きます。理性を常に新たに発見すること。それが、大学の偉大な課題なのです。

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