教皇ベネディクト十六世の国際神学委員会総会閉会ミサ説教

10月6日(金)午前7時30分から、バチカン教皇公邸のレデンプトーリス・マーテル聖堂で、教皇ベネディクト十六世は国際神学委員会の委員とともに同委員会総会閉会ミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文 […]

10月6日(金)午前7時30分から、バチカン教皇公邸のレデンプトーリス・マーテル聖堂で、教皇ベネディクト十六世は国際神学委員会の委員とともに同委員会総会閉会ミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文はイタリア語)。
当日の聖書朗読箇所は、第一朗読がヨブ記38章1、12-21節、40章3-5節、福音がルカによる福音書10章13-16節でした。

国際神学委員会は、1969年に教皇パウロ六世によって教皇庁直属の委員会として設立されました。約30名の委員が5年任期で世界から選ばれ、毎年バチカンで総会が開催されます。2005年4月まで、国際神学委員会委員長は、当時の教理省長官で、現教皇ベネディクト十六世のヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿が長く務めました。現在の委員長は2005年5月に新教理省長官に任命された、ウィリアム・ジョゼフ・レヴェイダ枢機卿です。
委員会は、聖座、特に教理省を補佐して、重要な教義的問題の検討を行います。委員会の出す文書は教導職に属するものではありません。最近出された国際神学委員会の文書は『交わりと管理――神の像として造られた人間の人格』(2004年)です(邦訳『人間の尊厳と科学技術』カトリック中央協議会、2006年)。
2006年の国際神学委員会総会は10月2日(月)から6日(金)まで、ドムス・サンクタエ・マルタエで開催されました。教皇庁広報部の9月30日の発表によれば、総会は、2004年から2008年までの期間の初めに決定したいくつかのテーマのうち、特に「神の普遍的な救いの計画、キリストによる唯一の仲介、そして救いのための秘跡としての教会との関連での、洗礼を受けないで死んだ幼児の運命」に関する文書を検討しました。総会では、このほかに、「『信仰の学』としての神学の性格と方法の独自性」に関する文書の草案も検討されました。「ヨハネ・パウロ二世回勅『真理の輝き』の教えから見た自然道徳法の基礎づけ」に関しても意見交換がなされました。

翻訳はイタリア語原文を底本としていますが、合わせて『オッセルバトーレ・ロマーノ』英語版2006年10月18日付4頁に掲載された英訳も参照しました。小見出しと改行は英訳に基づきます。


 

親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 わたしが準備したのはほんとうの意味での説教ではなく、ただ黙想を行うためのいくつかの要点にすぎません。
 今日記念される聖ブルーノの使命の意味は、今日の祈願の中ではっきりと説明されているということができます。この祈願は、イタリア語の典礼文ではすこし違っていますが、ブルーノの使命が沈黙と観想であったことを思い起こさせてくれます。
 ところで、沈黙と観想には目的があります。それらは、日常生活の喧騒の中で、神との絶えざる一致を保つために役立ちます。これが、沈黙と観想の目的です。神との一致はわたしたちの心の中に常にとどまり、わたしたちの生活全体を造り変えてくれるのです。
 聖ブルーノの特徴であった沈黙と観想は、わたしたちが、日常生活の喧騒の中で、この神との深い継続的な一致を見いだすのに役立ちます。沈黙と観想・・・・。神学者のすばらしい召命は、語ることです。神学者の使命は、現代や他の時代の饒舌の中で、ことばの氾濫の中で、本質的なことばが聞こえるようにすることです。ことばを通して、みことばが聞こえるようにすることです。みことばとは、神から来るものであり、また神です。
 
浄めの道
 けれどもわたしたちは、さまざまなことばの語られるこの世の一部です。ですから、さまざまなことばの中でみことばが聞こえるようにするためには、わたしたちの思いを浄めることが必要です。この浄めは、何よりもまず、わたしたちのことばの浄めを必要とします。
 みことばがそこから発せられた、神の沈黙に入ることなくして、どうして世の耳を、また何よりもまずわたしたちの耳を開くことができるでしょうか。ですから、わたしたちのことばを浄めるために、また世のことばを浄めるために、わたしたちは沈黙を必要とします。この沈黙は観想となります。それはわたしたちを神の沈黙へと導き、そして、みことばが、すなわちわたしたちをあがなうみことばが生まれたところへとわたしたちを伴います。
 聖トマス・アクィナスは、長い伝統を踏まえてこういっています。すなわち、神学において、神はわたしたちが語る対象ではないと。これは、わたしたちの規範とすべき考えです。
 実際、神は対象ではなく、むしろ神学の主体です。神学を通して語るかた、語る主体は、神ご自身でなければなりません。そしてわたしたちのことばと思想は常に、神が語ること、すなわち神のみことばが聞こえるようになり、世においてその場を見いだすことができるために、役立つものとならなければなりません。
 ですから、わたしたちはあらためて、このように自分のことばを捨てる道へと招かれています。それは浄めの道です。それは、わたしたちのことばが、神が語るための手段にすぎないものとなるためです。そこから、ほんとうの意味で、神は神学の対象ではなく、主体となることができるのです。
 このことに関連して、聖ペトロの手紙一1章22節のとてもすばらしいことばがわたしの心に浮かびます。ラテン語ではこういわれています。「あなたがたは真理への従順のうちにその魂を浄めています」(Castificantes animas nostras in oboedientia veritatis)。真理への従順はわたしたちの魂を「浄め」ます。こうしてそれは、わたしたちを正しいことば、正しい行いへと導きます。
 いいかえると、称賛を受けるために語ること、人びとが聞きたいように語ること、すなわち一般の支配的な意見に従って語ることは、いわば、ことばと魂を売り渡すことだと考えられます。
 使徒ペトロがいう「清さ」は、このような基準に従うことでも、称賛を求めることでもありません。むしろそれは、真理への従順を追求することなのです。

神学者に求められる態度
 そしてわたしは、これが神学者に求められる根本的な徳だと考えます。この真理への従順という規律は、たとえそれが厳しいものであっても、わたしたちを真理とともに働く者、真理の代弁者とします。なぜなら、現代のことばの氾濫の中で語るのはわたしたちではなく、わたしたちの中で語る真理だからです。実際に、わたしたちは真理への従順によって浄められ、清いものとされます。こうしてわたしたちはほんとうの意味で真理を担うことができるのです。
 このことはわたしに、アンチオケの聖イグナチオと、そのすばらしいことばを思い起こさせます。「主のことばを理解した人は、彼の沈黙をも理解します。主はその沈黙によって知られなければならないからです」。イエスのことばの分析は、あるところまで行けるかもしれませんが、それはわたしたちの考えの範囲にとどまります。
 この主の沈黙に至ったときに、初めてわたしたちは、主が御父とともにおられ、そこからことばが発せられたところから、ほんとうの意味で、主のことばの深い意味を理解し始めることができるのです。
 聖書が述べているように、イエスのことばは、山の上で、彼が御父とともにおられることによって生まれました。
 この御父と交わる沈黙から、ひたすら御父とともにいる沈黙の中から、ことばは生まれます。また、この沈黙に至り、この沈黙から出発することによって初めてわたしたちは、みことばの真の深い意味に達し、みことばの正しい意味を解釈する者となることができるのです。主はことばに出して、自分とともに山に登るようにわたしたちを招きます。それは、主の沈黙の中で、わたしたちがあらためてことばの真の意味を学ぶためです。
 以上のことをお話ししながら、わたしたちは今日の二つの朗読に到達しました。ヨブは神が自分に行った明らかな不正を前にして、神に叫び声を上げるばかりか、神と争いました。今、ヨブは神の偉大さを目の当たりにします。こうしてヨブは、神の真の偉大さの前で、わたしたちのすべてのことばは惨めなものにすぎず、神の存在の偉大さにとうてい及ばないことを悟ります。そこでヨブは次のようにいいます。「ひと言語りましたが、もう主張いたしません」(ヨブ40・5)。
 わたしたちは神の偉大さの前で沈黙します。わたしたちのことばはあまりにもとるに足りないものとなるからです。このことはわたしに、聖トマスの生涯の最後の数週間のことを考えさせます。この最後の数週間の間、トマスはもはや著述を行うことも語ることもありませんでした。友人が尋ねました。「師よ、どうしてもう話さないのですか。どうしてもう著述を行わないのですか」。するとトマスはいいました。「わたしが見たものの前では、今やわたしのことばは皆、わたしには、わらくずのように思われる」。
 聖トマスに関する優れた専門家であるジャン・ピエール・トレル神父は、このことばを誤解しないようにと述べています。わらくずは、無ではありません。わらは麦をつけます。麦はわらにとって大きな価値のあるものです。わらが麦をつけるように、ことばのわらくずでさえも、意味を失いません。なぜなら、ことばのわらは麦を実らせるからです。
 けれども、わたしはこう申し上げたいと思います。このことばは、わたしたちにとって、わたしたちの作業が大したものではないことを示すものでもあります。と同時にそれは、わたしたちの作業を評価するものでもあります。それはまた、わたしたちの作業のしかたが、すなわちわたしたちのわらが、真の意味で神のことばの麦を実らせるようにという教えでもあります。
 福音は終わりにこう述べています。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける」(ルカ10・16)。このことばは、なんとすばらしい勧めであり、なんとすばらしい良心の糾明となるものでしょうか。わたしに耳を傾ける者は、ほんとうに主に耳を傾けることになっているでしょうか。祈り、かつ働こうではありませんか。わたしたちに耳を傾ける者が、キリストに耳を傾けるということが、ますますほんとうになりますように。アーメン。

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