教皇ベネディクト十六世の降誕祭ミサ説教

12月25日(月)午前0時から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は主の降誕の夜半のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文はイタリア語)。
当日の聖書朗読箇所は、第一朗読がイザヤ書9章1-3、5-6節、第二朗読がテトスへの手紙2章11-14節、福音がルカによる福音書2章1-14節でした。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 たった今わたしたちは、福音の中で、聖なる夜、天使たちが羊飼いに告げた知らせを聞きました。それは教会が今、わたしたちに大声で告げる知らせです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそメシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」(ルカ2・11-12)。羊飼いたちにしるしとして与えられたのは、不思議なものでも、特別なものでも、偉大なものでもありませんでした。彼らが目にしたのは、ただ、布にくるまれている幼子でした。この幼子は、すべての幼子と同様に、母親の世話を必要としています。幼子は馬小屋で生まれました。それゆえこの幼子は揺りかごではなく、飼い葉桶に寝かされていました。神のしるしは、貧しさのうちに、助けを必要とする幼子です。羊飼いたちは心の中でのみ、この幼子によって預言者イザヤの約束が実現したことを見ました。わたしたちはこの約束を第一朗読で聞きました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある」(イザヤ9・5)。わたしたちに与えられたのも、これと同じしるしです。わたしたちもまた、福音の知らせを通じて、神の天使によって、招かれています。行って、飼い葉桶の中に寝ている幼子を心で見るようにと。
 神のしるしは単純さです。神のしるしは幼子です。神のしるしは、神がわたしたちのためにご自分を小さくされたことです。これが、神が支配するやり方です。神は、権力と外的な威光をもって来られるのではありません。神は幼子として来られます。無防備で、助けを必要とする幼子として来られます。神は、力によってわたしたちを圧倒することを望みません。神は、ご自分の偉大さに対するわたしたちの恐れを取り去ります。神はわたしたちに愛することを求めます。だから神は幼子となりました。神は愛以外の何もわたしたちに望みません。わたしたちはこの愛によって、神の思い、神の考え、神の望みに入ることを自然に学びます。すなわち、神とともに生き、神とともにへりくだって自分を捨てることを学ぶのです。自分を捨てることは愛の本質に属するからです。神はご自分を小さくされました。それは、わたしたちが神を知り、神を迎え入れ、神を愛することができるようになるためです。教父たちは旧約聖書のギリシア語訳の中に、預言者イザヤのことばを見つけました。パウロもこのことばを、神の新しいやり方が旧約聖書の中にあらかじめ述べられていることを示すために引用しています。そこにはこう書かれています。「神はそのみことばを短くし、小さくされた」(イザヤ10・23、ローマ9・28)。教父はこのことばを二つの意味で解釈しました。御子自身がみことば(ロゴス)です。この永遠のみことばが小さくなりました。飼い葉桶に入ることができるように小さくなったのです。みことばは幼子になりました。それは、わたしたちがみことばを捉えることができるようになるためです。このようにしてみことばは、わたしたちに小さな者を愛することを教えます。このようにしてみことばは、わたしたちに弱い者を愛することを教えます。このようにしてみことばは、わたしたちに子どもたちを大事にすることを教えます。生まれた後の者も、生まれる前の者も含めて、世界中で苦しみ、虐待されているすべての子ども。暴力の世界で兵士とされた子ども。物乞いをしなければならない子ども。困窮と飢餓に苦しむ子ども。愛を体験することのない子ども。ベツレヘムの幼子は、これらの子どもたちへと、わたしたちの目を向けます。これらすべての子どもたちの中で、ベツレヘムの幼子はわたしたちに向かって泣いています。神は、小さくなって、わたしたちに訴えかけます。この夜、祈りたいと思います。神の愛の輝きがこれらすべての子どもたちを包みますように。神に願い求めたいと思います。子どもたちの尊厳が尊重されるために、わたしたちも何かができるように助けてくださいと。すべての人を愛の光が照らしますように。人間は、生きるために必要とする物よりも、この光を必要としているからです。
 さて、「神はそのみことばを短くされた」ということばの中に教父が見いだした二番目の意味はこうです。聖書の中で神がわたしたちに語ったみことばは、時が経つにつれて長くなりました。みことばは長く、複雑なものとなりました。それは単純で無学な人にいえるだけではありません。聖書をよく知っている人や、学者たちにとっても、いっそうそれがいえるのです。ご存知の通り、学者は、細かいところや特定の問題を扱います。こうして学者は、全体を見ることがほとんどできなくなります。イエスはみことばを「短くされました」。イエスは、みことばのきわめて単純で統一的な意味を、わたしたちにあらためて示します。イエスはいいます。律法と預言者の教え全体は、次の掟にまとめられると。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。・・・・隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22・37-40)。これがすべてです。信仰全体は、神への愛と人間への愛を含めた、この一つの愛の行いに集約されます。しかし、すぐにさらなる問いが持ち上がります。わたしたちの精神の力では神を見いだすことはむずかしい。それなのに、どうすれば、思いを尽くして神を愛することができるだろうか。わたしたちの心ははるか遠くにしか神を見ることができない。世の中には神の顔をわたしたちから覆い隠してしまうような、多くの矛盾が見られる。それなのに、どうやって心を尽くし、精神を尽くして神を愛するのだろうか。ここで、神がそのみことばを「短くする」二つのしかたが一つにまとまります。神はもはや遠くにおられるのではありません。神はもはや知ることのできないかたではありません。神はもはやわたしたちの心が見いだすことのできないかたではありません。神はわたしたちのために幼子となりました。こうして神はわたしたちの疑いをすべて消し去ります。神はわたしたちの隣人となりました。こうして神は人間の像を回復します。わたしたちはしばしば人間の像を、愛することがむずかしいものと考えていたからです。神はわたしたちのためにたまものとなりました。神はご自身を与えてくださいました。神はわたしたちのために時間を受け入れました。時間を超えた、永遠であられるかたが、時間を受け入れたのです。神はわたしたちの時間を、ご自分のところにまで高く上げました。クリスマスは、贈り物を行う祭となりました。それは、わたしたちのためにご自身を与えた神に倣うためです。わたしたちの心と精神と思いを、このことによって動かしていただこうではありませんか。わたしたちは多くの贈り物を買い、またもらいます。けれども、真の贈り物を忘れないようにしようではありませんか。それは、互いに自分自身の何かを与え合うことです。互いに自分の時間を与え合うことです。自分の時間を神のためにあけておくことです。そうすれば、不安は消えます。そうすれば、喜びが生まれます。そうすれば、祝うことができます。降誕節の間、お祝いの食事をするときに、主のことばを思い起こしたいと思います。「昼食や夕食の会を催すときには、あなたを招いてお返しをする人を呼んではならない。むしろ、誰も招かない人、あなたを招いてお返しのできない人を呼びなさい」(ルカ14・12-14参照)。それはこういうことでもあります。クリスマスに贈り物をするときには、あなたにお返しをしてくれる人にだけ贈り物をしてはなりません。誰からも贈り物をもらわない人、あなたに代わりに何かを贈ることのできない人に贈り物をしなさい。それは神ご自身がされたことです。神はわたしたちを婚礼の宴に招きます。しかし、わたしたちはそのお返しをすることができません。わたしたちにできるのは、喜んで招きを受け入れることだけです。神に倣おうではありませんか。神を愛そうではありませんか。そして、神を愛することから始めて、人も愛そうではありませんか。そうすれば、わたしたちは人を愛することから始めて、新たなしかたで神を再発見できるでしょう。
 終わりに、みことばが「短く」また「小さく」なったということばの三番目の意味はこうです。羊飼いたちは、動物のための飼い葉桶の中に幼子を見つけるだろうと告げられます。動物は本来の馬小屋の住人だからです。教父たちは、イザヤ書(イザヤ1・3)を読むことによって、こう考えるに至りました。ベツレヘムの飼い葉桶の横には牛やろばがいたと。同時に教父は、イザヤのこのテキストがユダヤ人と異邦人を――したがって人類全体を――象徴的な意味で表していると解釈しました。ユダヤ人も異邦人も、それぞれのしかたで、救い主を、すなわち幼子となった神を必要としているからです。人が生きるためにはパンが必要です。パンは大地と労働の実りです。しかし、人はパンだけで生きるものではありません。人は魂を養うための糧を必要とします。すなわち、自分の人生を満たす意味を必要とします。そこで、教父にとって、動物のための飼い葉桶は、祭壇を表す象徴となりました。この祭壇の上に、キリストご自身であるパンが置かれるからです。このパンは、わたしたちの心のためのまことの食べ物です。わたしたちは再び神が小さくなられたのを目にします。ホスチアのつつましい姿によって、小さなパンのかけらによって、神はご自身をわたしたちに与えます。
 これらすべてのことが、羊飼いたちに与えられ、わたしたちにも与えられたしるしによって語られます。そのしるしとは、わたしたちのために与えられた幼子です。神がわたしたちのために小さくなられた幼子です。この夜、羊飼いたちの単純な心をもって、馬小屋を仰ぎ見ることのできる恵みが与えられるよう、主に祈り願いたいと思います。それは、羊飼いたちが家に帰っていったときに抱いたのと同じ喜びを与えられるためです(ルカ2・20参照)。聖ヨセフは、マリアが聖霊によって身ごもった幼子を、謙遜さと信仰をもって見守りました。同じ謙遜さと信仰が与えられるように、祈り願いたいと思います。マリアは愛をもって幼子を見つめました。それと同じ愛をもって、幼子を仰ぎ見る恵みが与えられるように、祈り願いたいと思います。そして、こうして羊飼いたちが見た光がわたしたちの上にも輝きますように、また、その夜、天使たちが歌ったことが世界中で実現しますように、祈りたいと思います。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。アーメン。

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