教皇ベネディクト十六世の2007年1月28日の「お告げの祈り」のことば 聖トマス・アクィナスの記念日にあたって

教皇ベネディクト十六世は、1月28日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。 「お […]

教皇ベネディクト十六世は、1月28日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
「お告げの祈り」の後、教皇は、暴力が激化するレバノンとガザにおける治安の回復を求める次の呼びかけをイタリア語で行いました。
「この数日間、レバノンで再び流血が行われています。自らの政治的な理由の主張のためにこのような手段をとることは受け入れられません。わたしは愛するレバノンの人びとのために深い悲しみを感じます。わたしは多くのレバノン国民があらゆる希望を捨てる誘惑に駆られ、次々に起こる出来事によって混乱を感じていることを知っております。わたしは、(マロン典礼のアンティオキア総大司教)ナスララー・ピエール・スフェイル枢機卿による、兄弟間の殺し合いへの強い非難声明を自分のものとします。わたしはスフェイル枢機卿と他の宗教指導者とともに神の助けを願い求めます。どうかすべてのレバノンの人びとが、区別なしに、自分たちの祖国を真の意味で共通の家とするために協力することが可能となり、またそのことを望むようになりますように。そのために、自らの国のために本当の意味で取り組むことを妨げる利己主義的な態度を乗り越えることができますように(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『レバノンのための新たな希望(1997年5月10日)』94参照)。わたしはレバノンのキリスト信者に対して、さまざまな共同体の間の真正な対話を推進してくださるようにあらためて勧めます。そして、すべてのレバノンのキリスト信者の上にレバノンの元后のご保護を祈ります」。
レバノンでは1月25日(木)からシニオラ政権支持派と反対派が大学キャンパスなどで衝突し、7人が死亡、400人近くの人が負傷しています。
続いて教皇は、ガザの状況についてもイタリア語で次のように述べました。
「さらにわたしは、ガザにおける暴力がただちに終わることを願います。わたしはガザのすべての人びとに対して、わたしが霊的に連帯し、祈ることを約束すると申し上げたいと思います。どうか、共通善のために協力して働き、違いと緊張を仲裁するための平和的な道を歩む望みが、すべての人を支配しますように」。
パレスチナ自治区ガザでは、1月25日(木)に政権与党のイスラーム原理主義組織ハマスと、アッバス自治府議長を支持するファタハの衝突が起こり、26人が死亡しています。
終わりに教皇は、ローマ教区のカトリック・アクションの少年少女2名とともに、「平和月間」の終わりにあたって、平和の象徴である鳩2羽を教皇公邸書斎の窓から放ちました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 典礼暦では今日、偉大な教会博士である聖トマス・アクィナスを記念します。トマス・アクィナスはその哲学者また神学者としてのカリスマによって、理性と信仰の調和のあるべき模範を示しています。人間精神の二つの次元である理性と信仰は、相互の出会いと対話によって完全なしかたで実現されるからです。
 聖トマスの思想によれば、人間の理性はいわば「息」をしています。つまり、理性は広く開かれた地平へと向かいます。この地平の中で、理性は自らをもっともよく経験できるのです。これに対して、人間は、物質的また経験可能な対象のみを考えるように自らを狭めるとき、人生や、自己自身、そして神に関する大きな問いに対して自らを閉ざし、貧しい者となります。
 信仰と理性の関係は、現代の西洋の支配的な文化にとって重大な問題です。そのため、愛すべきヨハネ・パウロ二世は、まさに『信仰と理性』という題の回勅を書きました。わたしも最近、レーゲンスブルク大学での講演の中で、この議論をあらためて取り上げました。
 実際、近代科学の発展は、数え切れないほどの積極的な効果をもたらしました。こうした効果は常に認めなければならないものです。しかし、同時に、経験されるものだけが本当だと考える傾向は、人間の理性を制約し、すべての人が認める恐るべき統合失調症を生み出しました。この統合失調症のために、合理主義と物質主義、最高の科学技術と抑制のない本能が共存しています。
 それゆえ、神の「ロゴス」の光と、その完全な現れ――すなわち、人となった神の子であるイエス・キリスト――に開かれた人間の理性を新たなしかたで再発見することが緊急に必要です。真正なキリスト教信仰は、自由や人間の理性をないがしろにしません。そうであれば、どうして信仰と理性が互いを恐れる必要があるでしょうか。互いに出会い、対話を行うことによって、両者はさらに優れたしかたで自らを経験できるからです。
 信仰は理性を前提し、また完成します。また理性は、信仰に照らされることによって、神や霊的な現実に関する認識へと上昇するための力を見いだします。人間の理性は、信仰の内容へと開かれることによって何も失うことはありません。それどころか、信仰は、自由に認識をもって同意されることを求めます。
 聖トマス・アクィナスは、時代に先んじた知恵をもって、当時のアラブ思想およびユダヤ思想と実り多いしかたで対決することに成功しました。こうして彼は、他の文化・宗教との対話に関する永遠に現代的な意味をもつ教師とみなされます。聖トマスは、キリスト教による理性と信仰の驚くべき総合を示すことができました。この総合は西洋文明にとって貴重な遺産です。この遺産を用いて、現代においても、東洋や南方の偉大な文化・宗教伝統と効果的なしかたで対話をすることができます。
 祈りましょう。特に学問や文化の領域で活動するキリスト信者が、自らの信仰の合理的な性格を表明し、愛に促された対話によってこの信仰をあかしすることができますように。聖トマス・アクィナスと、何よりも上智の座であるマリアの執り成しによって、この賜物を主に願い求めたいと思います。

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