教皇ベネディクト十六世の受難の主日のミサ説教

4月1日(日)午前9時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世は受難の主日(枝の主日)と第22回「世界青年の日」のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文はイタリア語)。ミサに先立って、枝の行列が行われました。ミサには50,000人の青年が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 枝の主日の行列の中で、わたしたちは弟子たちの群れに加わりました。弟子たちは祭りの喜びの内に、エルサレムに入城する主とともに歩みました。わたしたちは弟子たちと同じように、わたしたちが目にした主のすべての偉大なわざを大声でたたえます。そうです。わたしたちはキリストの偉大なわざを目にしましたし、今も目にしています。キリストはどれほど多くの人びとに、人生の快楽を捨てさせ、苦しむ人びとのために自分を完全にささげさせたことでしょうか。キリストはどれほど多くの人びとを勇気づけたことでしょうか。こうして彼らは暴力と偽りに反対し、世界に真理のための場所を作りました。キリストは密やかなしかたで、どれほど多くの人びとを導いたことでしょうか。こうして彼らは、人のためにいつくしみのわざを行い、憎しみのあるところに和解をもたらし、敵意の支配するところで平和を作り出しました。
 この行列は、何よりもイエス・キリストにささげられた喜びのあかしです。このかたの内に神のみ顔がわたしたちの目に見えるようになり、このかたのおかげで神のみ心がわたしたちすべてに開かれたからです。ルカによる福音の中で、エルサレムの近くで行われた行列についての記述は、ある意味で戴冠式に倣って述べられます。列王記上によれば、この戴冠式で、ソロモンはダビデの王座を継ぐ者とされました(列王記上1・33-35参照)。ですから、枝の行列は、王であるキリストの行列でもあります。わたしたちはイエス・キリストが王であることを宣言します。わたしたちは、イエスがダビデの子、真のソロモン、すなわち、平和と正義の王であると認めます。イエスを王と認めるとは、イエスをわたしたちに道を示してくださるかたとして受け入れることです。わたしたちはこのかたにより頼み、このかたに従うからです。イエスを王と認めるとは、日々、イエスのことばを自分の人生の正しい基準として受け入れることです。イエスを王と認めるとは、イエスの内にわたしたちが従う権威を見いだすことです。わたしたちはこのかたに従います。それは、このかたの権威が真理に基づく権威だからです。
 枝の行列は、当時弟子たちにとってそうだったように、何よりも喜びを表しました。それは、わたしたちがイエスを知ることができるからです。イエスがわたしたちをご自分の友としてくださるからです。イエスがわたしたちに人生の鍵を与えてくださったからです。しかし、この最初の喜びは、わたしたちのイエスに対する「然り」の表現でもあります。イエスがわたしたちを導くところならどこにでも、イエスとともに行く準備ができていることの表現でもあります。ですから、今日の典礼の初めに述べられた勧めが正しく解釈するように、この行列は「キリストに従う」と呼ばれることを象徴的に表すものでもあります。わたしたちはこう述べました。「キリストに従う恵みを祈り求めましょう」。「キリストに従う」ということばは、すべてのキリスト信者の生涯全体を述べています。「キリストに従う」とはどのようなことでしょうか。「キリストに従う」とは、具体的にどのようなことを意味するのでしょうか。
 最初の弟子たちにとって、初めその意味はきわめて単純で直接的なものでした。それは、弟子たちが、自分の持ち物、仕事、全人生を捨てて、イエスとともに歩む決断をしたということでした。それは、弟子の仕事という、新しい仕事に就くことでした。弟子の仕事の基本的な内容は、師であるかたとともに歩み、師であるかたの導きに完全に身を委ねることでした。それゆえ、従うとは、外面的なことがらであると同時に、きわめて内面的なことがらでもありました。従うことの外面的な側面は、イエスの後を歩んで、パレスチナ中を旅することでした。従うことの内面的な側面は、生活を新たに方向づけることでした。すなわち、個人の意志において、それまでの生活で大事にしてきたことがらや仕事を顧みることなく、むしろ自分とまったく異なるかたのみ旨に完全に自分をささげるということです。このかたに仕えることが今や人生の目的となります。わたしたちは福音書のいくつかの場面の中で、このような自分の持ち物の放棄や、自分自身からの離脱をはっきりと目にすることができます。
 しかし、同時に、わたしたちにとっての従うことの意味、わたしたちにとっての従うことの真の本質も明らかです。従うとは、生活の内的な変化の問題です。従うことは、自分の中に閉じこもり、自己実現を自分の人生の根本的な目的と考えないことを求めます。従うことは、自分とまったく異なるかたに自由に自分をささげることを求めます。それは、真理のため、愛のため、神のためです。神はイエス・キリストの内に、わたしに先立ち、わたしに道を示されるからです。問われているのは、利益や報酬、業績や成功を自分の人生の究極的な目標と考えず、むしろ真理と愛を真の意味での基準とみなす、根本的な決断をすることです。問われているのは、自分自身のためだけに生きるか、より大いなるもののために自分をささげるかという選択です。それゆえ、真理と愛を抽象的な概念と考えてはなりません。イエス・キリストの内にこの二つは人格となりました。イエスに従うことによって、わたしは真理と愛に奉仕するよう導き入れられます。こうしてわたしは自分を失い、自分を再び見いだします。
 枝の行列の典礼に戻りたいと思います。典礼では詩編24が歌われました。詩編24はイスラエルで、神殿の山に上るときの行列の歌としても用いられました。詩編の解釈によれば、外面的な意味で神殿に上ることは、内面的な意味で神殿に上ることのたとえとなります。こうして詩編は、キリストとともに上ることの意味をあらためてわたしたちに説明してくれます。詩編は問いかけます。「どのような人が、主の山に上るのか」。そして詩編は二つの不可欠な条件を示します。山に上り、ほんとうに頂上に達すること、すなわち真の高みに至ることを望む人は、神について自らに問いかける人でなければなりません。神を探し求め、神のみ顔を求めるために、自らの内面を調べる人でなければなりません。親愛なる友人である若者の皆様。今日、きわめて大切なのはこのことです。人生の中で、ただあちらこちらへと流されないようにしてください。すべての人が考え、話し、行っていることに満足しないでください。神に心をとめ、神を求めてください。神についての問いを心の中で消し去らないでください。より大いなるものを望んでください。神を知ること、神のみ顔を知ることを望んでください。
 主の山に上るためのもう一つのとても具体的な条件はこれです。「潔白な手と清い心をもつ人」が聖所に立つことができます。潔白な手とは、暴力行為のために用いられることのない手のことです。汚職や賄賂で汚されることのない手のことです。清い心――心はどのようなときに清いでしょうか。清い心とは、嘘や偽善で自分を偽り、汚れることのない心です。二心がなければ、心は湧き水のような透明さを保ちます。清い心とは、快楽におぼれることがないことです。清い心とは、その愛が真実で、ただ一時的な情熱だけではない心です。潔白な手と清い心。イエスとともに歩むなら、わたしたちは主の山に上り、清められます。こうしてわたしたちは人間が目指す高み――すなわち、神ご自身との友愛へと、真の意味で導かれます。 
 山に上ることについて述べる詩編24は、神殿の門の前での入城の典礼で終わります。「城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」。昔の枝の主日の典礼では、司祭は教会の前に着くと、行列に用いた十字架の杖で、閉じた扉を強くたたきました。すると扉が開きました。これはイエス・キリストご自身の神秘を表す美しい姿といえます。イエス・キリストは、十字架の木によって、すなわちご自身のささげた力強い愛によって、世の側から神の門をたたきます。世の側からたたくのは、世は神に近づく道を見いだすことができないからです。イエスは十字架によって、神の門を大きく開きます。神と人の間の門を。今や神の門は開かれています。しかし、主はその十字架で門のもう一つの側からもたたきます。主は世の門をたたきます。わたしたちの心の扉をたたきます。わたしたちの心はしばしば、その多くが神に対して閉ざされているからです。そして主は多くの場合、このようなしかたでわたしたちに語りかけます。創造のわざの内に神がご自分の存在を示したしるしは、神に人の心を開くことができませんでした。聖書のことばと、教会の宣教によっても、人は無関心なままでした。それなら、あなたの主であり、あなたの神であるわたしをご覧なさいと。
 この時にあたって、わたしたちの心を貫いていただかなければならないのは、この招きです。主の助けによって、わたしたちが心の扉を、世の門を開くことができますように。こうして生ける神であるかたが、御子の内に、現代に到来し、わたしたちの人生に触れてくださることができますように。アーメン。

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