教皇ベネディクト十六世の主の晩さんのミサ説教

4月5日(木)午後5時30分から、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は聖木曜日の主の晩さんのミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文はイタリア語)。
説教中に言及される「クムラン文書」は、1947年にパレスチナの死海北西のクムランの洞窟で発見された文書群です。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 たった今朗読された出エジプト記は、モーセの律法で守るように定められた、イスラエルの過越の祝いを述べています。元々行われていたのは、遊牧民の春の祭りだったと思われます。しかしイスラエルにとって、この祭りは、記念と感謝の祭り、また希望の祭りへと変わりました。定められた典礼規則に従って行われる、過越の食事の中心にあるのは、小羊です。小羊はエジプトでの奴隷状態からの解放の象徴だからです。このため過越の「ハガダー(式次第)」は小羊の食事の不可欠な部分でした。「ハガダー」は、神ご自身がイスラエルを「高く上げられた手で」救い出したことを、物語の形で思い起こすからです。この謎めき、隠れた神は、あらゆる力を用いることのできるファラオよりも力強いかたです。神ご自身が、み手をもってその民の歴史を導かれます。そして、この歴史は絶えず神との交わりに基づいています。このことをイスラエルは忘れてなりません。イスラエルは神を忘れてはならないのです。
 記念のことばの前後に、詩編からとられた賛美と感謝のことばが唱えられます。神への感謝と賛美は「ベラカー(祝福の祈り)」で頂点に達します。「ベラカー」はギリシア語で「エウロギア」あるいは「エウカリスティア」と呼ばれます。神への祝福は、祝福を行う者への祝福となります。神にささげられたささげものは、人間への祝福として返ってくるのです。これまで述べたすべてのことが、過去と現在また未来を橋でつなぎます。イスラエルの解放はまだ完成していません。小さな民であるイスラエルは、大きな権力間の緊張のはざまで今なお苦しんでいます。かつての神のわざに対して感謝のうちに行われる想起は、同時に祈願と希望になります。どうか始められたことを完成してください。わたしたちに決定的な解放をお与えくださいと。
 イエスは、このように多くの意味をもった晩さんを、弟子たちとともに受難の前夜に行いました。わたしたちは、このような状況を考慮しながら、新しい過越の意味を理解しなければなりません。イエスはこの新しい過越を、聖体によってわたしたちに与えてくださったからです。福音書記者の記述の中で、ヨハネによる福音書と、マタイ、マルコ、ルカの伝えることの間には明らかに矛盾が見られます。ヨハネによれば、イエスはちょうど神殿で過越の小羊がほふられたときに亡くなりました。イエスの死と小羊の犠牲は同時に行われたのです。すると、イエスは過越祭の前夜に死んだことになります。したがって、イエスご自身が過越の食事を行うことはできなかったことになります。少なくとも見かけ上はそのように思われます。これに対して、3人の共観福音書記者によれば、イエスの最後の晩さんは、伝統的な形での過越の食事でした。イエスはそこに、ご自身のからだと血をささげるという、新しい要素を導入しました。この矛盾は、数年前まで解決不可能なことのように思われました。大多数の釈義学者はこう考えました。ヨハネはイエスの死の歴史的な意味でほんとうの日付を伝えることを望まず、真理をより深く明らかにするために、象徴的な日付を選んだのだと。すなわち、イエスはわたしたち皆に血を注ぐ、新しいまことの小羊だということです。
 クムラン文書の発見によって、わたしたちはもっと説得力のある解決の可能性へと導かれました。この解決は、すべての人に受け入れられてはいませんが、高い蓋然性をもつものです。今やわたしたちは、ヨハネが述べたことは歴史的な意味で正確だということができます。イエスは実際に、過越祭の前晩の小羊がささげられるときに血を流しました。しかしながら、イエスは、おそらくクムラン教団の暦に従って、すなわち、少なくとも1日早く、弟子たちとともに過越の食事を行いました。イエスはクムラン教団と同じように、小羊なしに過越の食事を行いました。クムラン教団はヘロデの神殿を認めず、新しい神殿を待ち望んでいたからです。それゆえイエスは小羊なしに過越の食事を行いました。否、小羊なしにではありません。小羊の代わりに、イエスはご自身をささげたからです。ご自身のからだと血をささげたからです。こうしてイエスはご自分が告げられた通りのしかたで死を先取られました。「だれもわたしからいのちを奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」(ヨハネ10・18)。ご自分のからだと血を弟子たちに与えたとき、イエスは実際にこのことばを実現しました。イエスは自分でいのちをささげました。こうして初めて、いにしえの過越はまことの意味を得たのです。
 聖ヨハネ・クリゾストモは、聖体についての教理講話の中でこう述べています。「モーセよ、あなたは何をいっておられるのですか。小羊の血が人間を清めるでしょうか。小羊の血が人を死から救うでしょうか。どうして動物の血が人を清め、人類を救い、死に打ち勝つ力をもつことができるでしょうか」。クリゾストモは続けて述べます。「実際には小羊はしるしとなることができるにすぎません。すなわち、動物のいけにえでは実行不可能なことを実現できるかたへの期待と希望を表すにすぎません」。イエスは小羊と神殿なしに過越の食事を行いました。けれどもイエスは小羊と神殿を欠いていませんでした。イエスご自身が、人びとの待ち望んでいた小羊、すなわちまことの小羊だったからです。このかたについて、洗礼者ヨハネは、イエスの公生活の初めにこう予言しました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1・29)。また、イエスご自身がまことの神殿、すなわち生ける神殿です。この神殿の中に神が住まわれるからです。この神殿の中でわたしたちは神と出会い、神をあがめることができるからです。イエスは神の子であると同時に、わたしたちと同じまことの人です。このイエスの愛であるイエスの血、この血こそが救いをもたらすことができるのです。イエスはご自分の愛によってご自身を無償でわたしたちに与えてくださいました。この愛こそがわたしたちを救うことができるのです。傷も罪もない小羊のいけにえを懐かしむことには、ある意味で何の力もありません。この想起にこたえたのは、わたしたちのために、小羊そのもの、そして神殿そのものとなったかたなのです。
 ですから、イエスの新しい過越の中心にあるのは十字架です。イエスがもたらした新しいたまものは、この十字架から生まれます。こうしてこのたまものは聖体の内に常にとどまります。わたしたちはこの聖体によって、使徒たちとともに、いつまでも新しい過越を祝い続けることができるからです。キリストの十字架からたまものが生まれます。「だれもわたしからいのちを奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」。今、キリストはこのいのちをわたしたちに与えてくださいます。神の救いのわざの記念である過越の「ハガダー」は、十字架とキリストの復活の記念となりました。この記念はただ過去を思い起こすだけではありません。それはわたしたちを、わたしたちとともにおられるキリストの愛へと引き寄せます。こうしてイスラエルの祝福と感謝の祈りである「ベラカー」は、わたしたちの感謝の祭儀となります。この感謝の祭儀の中で、主はわたしたちのささげものであるパンとぶどう酒を祝福します。それは、これらのささげものによって主がご自身をささげるためです。主に祈ろうではありませんか。どうか主の助けによって、わたしたちがこの驚くべき神秘をいっそう深く悟ることができますように。そして、いっそう深くこの神秘を愛し、この神秘の内に主ご自身を愛することができますように。主に祈ろうではありませんか。聖なる交わりによって主がわたしたちをご自身へとよりいっそう引き寄せてくださいますように。主に祈ろうではありませんか。主の助けによってわたしたちが自分の人生を自分のためだけに用いずに、主にささげ、そこから、主ととともに働くことができますように。こうしてすべての人がいのちを、すなわち、まことのいのちを見いだすことができますように。まことのいのちは、道であり、真理であり、いのちであるかたからのみ与えられるからです。アーメン。

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