教皇ベネディクト十六世の聖香油のミサ説教

4月5日(木)午前9時30分から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は聖香油のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 ロシアの作家レフ・トルストイは、短い話の中で、ある厳しい君主について語ります。この君主は、自分の司祭と賢者に向かって、自分に神を示して、神が見えるようにするように命じました。賢者はこの願いをかなえることができませんでした。すると、牧場から帰ったばかりの一人の羊飼いが、司祭と賢者の仕事を引き受けることを申し出ました。王はこの羊飼いから、自分は目が悪いので神を見ることができないのだと教えられます。しかし王は、せめて神がどのようなことをなさるかを知りたいと望みます。羊飼いは王にこたえました。「ご質問にこたえることができるには、わたしたちは衣服を交換しなければなりません」。王はためらいながらも、知りたいことへの好奇心に駆られて、いう通りにしました。王は王衣を羊飼いに渡し、自分は貧しい人の粗末な服をまといました。そこで答えが与えられました。「これが神のなさることです」。実際、神の子は、まことの神よりのまことの神であるにもかかわらず、神の輝きを捨てました。神の子は「自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ」、「十字架の死に至るまでへりくだりました」(フィリピ2・6以下参照)。教父がいう通り、神は「聖なる交換(sacrum commercium)」を行われます。神はわたしたちのものを受け取りました。それは、わたしたちが神のものを受け、神と似た者となることができるためです。
 聖パウロは、洗礼で行われることについて、はっきりと衣服のたとえを用います。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤ3・27)。これこそ洗礼で行われることです。わたしたちはキリストを着ます。キリストは自分の衣服をわたしたちに与えます。しかしこの衣服は外的な意味での衣服ではありません。つまり、わたしたちはキリストと存在において交わるようになります。キリストの存在とわたしたちの存在が混ざり合い、互いに浸透し合うのです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)。聖パウロは自分の洗礼の出来事を、ガラテヤの信徒への手紙の中でこう述べます。キリストはわたしたちの衣をまといます。人間の悲しみと喜び、飢え、渇き、疲れ、望み、失望、死への恐れ、わたしたちが死に至るまで抱くすべての悩みをまといます。そしてキリストはご自分の「衣服」をわたしたちに与えました。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の中で洗礼の単純な「事実」として述べたこと――新しい存在が与えられたこと――を、エフェソの信徒への手紙の中では、変わることのない務めとして示します。「以前のような生き方をして・・・・いる古い人を脱ぎ捨て、・・・・新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いにからだの一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。・・・・」(エフェソ4・22-26)。
 この洗礼についての神学的な教えは、新たなしかたで、また新たな要求をもって、司祭叙階において再び見いだされます。洗礼においては、「衣服の交換」、すなわち身分の交換と、キリストとの新たな存在の交わりが行われます。同じように、叙階においても、一種の交換が行われます。秘跡を授与するとき、司祭は今や「キリストの代理者として(in persona Christi)」行い、語るからです。聖なる神秘において、司祭は自分を示すのでもなければ、自分を語るのでもありません。司祭は自分以外のかたに代わって、すなわちキリストの代わりに語るのです。こうして秘跡において、司祭は、司祭であることの一般的な意味を、劇的なしかたで目に見えるものとします。わたしたちはそれを、司祭叙階のときに「はい、用意ができています(Adsum)」ということばで表明します。「わたしは、あなたに自由に使っていただくためにここにおります」。キリストは「すべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではない・・・・ことなのです」(二コリント5・15)。わたしたちは、このキリストに自由に使っていただくために自分をささげます。わたしたちが自分をキリストに自由に使っていただくとは、キリストの「すべての人のため」へと引き寄せていただくことです。キリストとともにいることによって、わたしたちは真の意味で「すべての人のため」のものとなることができるのです。
 「キリストの代理者として(in persona Christi)」。司祭叙階のとき、教会はこの「新しい服をまとう」ということを、祭服を着せることによって、外的にも目に見えるかたちでわかるようにします。教会は、この外的な行為によって、内的な出来事と、この出来事から生じるわたしたちの務めとを、明らかにすることを望むのです。すなわち、わたしたちはキリストを着ます。そして、キリストがわたしたちにご自分を与えてくださったように、わたしたちもキリストに自分をささげます。この「キリストを着る」という出来事は、すべてのミサにおいて、祭服を着ることによって絶えず示されます。祭服を着ることは、わたしたちにとって、たんなる外的なことがらであってはなりません。祭服を着るとは、わたしたちの職務を常に新たに受け入れることです。洗礼における「生きているのは、もはやわたしではない」ということを常に新たに受け入れることです。司祭叙階は、このことをわたしたちに新たなしかたでもたらすとともに、それをわたしたちに求めます。わたしたちは、祭服を着て祭壇に立つことによって、わたしたちが「わたしたちとは別のかたの代理者として」そこにいるのだということを、会衆にはっきりと示さなければなりません。時が経ち、祭服が発展するにつれて、祭服は司祭職の意味をきわめて象徴的なしかたで表すようになりました。親愛なる兄弟である司祭の皆様。それゆえわたしはこの聖木曜日にあたり、祭服の意味を解釈することを通じて、司祭職の本質を説明したいと思います。祭服の目的はまさに、「キリストを着る」こと、すなわち「キリストの代理者として(in persona Christi)」話し、行うことの意味を示すことだからです。
 かつて祭服を着るときには祈りが唱えられました。この祈りは司祭職のもつ独自の要素を理解する上でわたしたちの助けとなります。「アミクトゥス」から始めたいと思います。かつて――修道会では今でもそのように行われていますが――アミクトゥスはまず頭に頭巾のようにかぶせました。こうしてアミクトゥスは、ミサをふさわしく行うために必要な感覚と思いの規律を表すしるしとなりました。わたしは日々の心配や期待に従ってあちこちと思いをさまよわせてはなりません。わたしの感覚は、教会堂の中でたまたま目や耳をとらえたものに引きつけられてはなりません。わたしの心は神のことばを素直に受け入れるように開かれながら、教会の祈りに集中していなければなりません。それは、わたしの思いが、唱え、祈ることばの導きに従うことができるためです。また、わたしの心の目は、わたしたちのただ中におられる主に向かわなければなりません。これが「祭儀の法(ars celebrandi)」、すなわち「ふさわしい祭儀のしかた」が意味することです。もしわたしが主とともにいるなら、わたしは、聞くときも、話すときも、何かをするときも、人びとを主との交わりへと導くことができます。
 「アルバ」と「ストラ」の意味を説明する祈りのことばは、ともに同じ方向をめざしています。これらの祈りのことばは、ぼろをまとい、汚れた姿で家に帰った放蕩息子に父親が与えた祝いの服を思い起こさせます。キリストの代理者として振舞うために典礼に向かうとき、わたしたちは皆、自分が主とほど遠い者であることに気づきます。わたしたちの生活はどれほど汚れていることでしょうか。主だけが、わたしたちに祝いの服を与えることができるかたです。主だけが、わたしたちを主の食卓を主宰して、主に仕えるのにふさわしい者としてくださいます。それゆえ、これらの祈りは、黙示録のことばも思い起こさせます。黙示録によれば、14万4千人の選ばれた人びとの衣が神にふさわしいものとされたのは、彼らのいさおしによるのではありません。黙示録は述べます。この人びとはその衣を小羊の血で洗いました。こうして彼らの衣は光のように真っ白になりました(黙示録7・14参照)。子どもの頃、わたしは疑問に思いました。「でも、何かを血で洗っても、けっして白くはならないではないか」。この疑問の答えはこうです。「小羊の血」は、十字架につけられたキリストの愛です。この愛が、わたしたちの汚れた服を白くします。この愛が、わたしたちの暗い心を真実なものとし、照らします。この愛が、どれほどわたしたちの暗闇が深くても、わたしたちを「主の光」へと造り変えます。アルバを着るとき、わたしたちは思い起こさなければなりません。すなわち、主はわたしのためにも苦しまれたのだということを。そして、主の愛がわたしのあらゆる罪よりも大きいがゆえに、初めてわたしは主の代わりを務め、主の光をあかしすることができるのだと。
 しかし、主が洗礼によって与えてくださり、また司祭叙階によって新たなしかたで与えてくださった光の衣によって、わたしたちは婚礼の礼服のことも思い起こすことができます。主は神の宴会のたとえ話の中で、この婚礼の礼服についてわたしたちに語ります。このことに関連して、わたしは大聖グレゴリオの『福音書講話』の中に注目すべき考察を見いだしました。グレゴリオはこのたとえ話のルカによる版とマタイによる版を区別します。グレゴリオはこう考えます。ルカのたとえ話は終わりの日の婚宴について語るのに対し、グレゴリオの考えによれば、マタイが伝える版は、おそらく典礼と教会生活におけるこの婚宴の先取りのことを述べています。実際、マタイでは――そして、マタイにおいてのみ――王が、客でいっぱいになった宴会場に客を見ようと入って来ます。すると、これらの多くの人びとの中に、王は婚礼の礼服を着ていない客もいるのを見つけます。そこでこの客は外の暗闇に放り出されます。ここでグレゴリオは問います。「この人に足りなかったのはどのような服だったのでしょうか。教会に集まっている人は皆、洗礼と信仰の新しい衣を与えられています。そうでなければ、彼らは教会の中にいるはずがありません。では、その上に何が足りなかったのでしょうか。どのような婚礼の礼服をその上に着なければならないのでしょうか」。教皇グレゴリオは答えます。「それは、愛の衣です」。残念ながら、王が新しい衣、すなわち復活の白い衣を与えた客の中に、王は、神への愛と隣人への愛という、二つの愛の緋色の衣を着ていない人を見いだしたのです。教皇グレゴリオは問います。「わたしたちは、婚礼の礼服、つまり愛を着ることなしに、どのような資格をもって天の祝いに近づこうと望むのでしょうか。愛だけが、わたしたちを美しくすることができるからです」。愛を欠いた人は、心の中が闇です。福音書が語る、外の暗闇は、心の中の目が見えないことの反映にすぎません(大グレゴリオ『福音書講話』:Homiliae XL in Evangelia 38, 8-13参照)。
 ミサの準備をするにあたり、わたしたちは、この愛の衣を着ているかどうかを自らに問わなければなりません。主に祈りましょう。主がわたしたちの心からあらゆる敵意を遠ざけてくださいますように。主がわたしたちからあらゆる自己満足を取り去ってくださいますように。そして、わたしたちが真の意味で愛の衣をまとうことができますように。こうしてわたしたちが暗闇に属することなく、光の人となりますように。
 最後に「カズラ」についても一言だけ申し上げたいと思います。「カズラ」を着るときに唱える伝統的な祈りは、「カズラ」を、主がわたしたち司祭に負わせた、主のくびきを表すと考えます。この祈りはイエスのことばを思い起こさせます。イエスはわたしたちをこう招きました。わたしのくびきを負い、「柔和で謙遜な」わたしに学びなさいと(マタイ11・29)。主のくびきを負うとは、何よりもまず、主に学ぶことです。すなわち、常に主の学びやに行く準備ができていることです。わたしたちは主から柔和と謙遜を学ばなければなりません。人となることによってご自身を示された、神の謙遜を。ナジアンズの聖グレゴリオは、あるとき、なぜ神は人となることを望まれたのかと問いました。彼の答えのもっとも重要な部分であり、わたしにとってもっとも感動的な部分はこれです。「(神は)人間に対する愛を顕(あらわ)し、自らの苦難によってわれわれの従順を試し、すべてを測る。そしてその結果、自らの苦難とともに人間の弱さを勘定に入れて、われわれにどれほどのことが命じられ許されるのか、ご自身(の受肉という事実)にもとづいて理解することができるのである」(『神学講話』:Orationes theologicae IV, 6〔荻野弘之訳、『中世思想原典集成2 盛期ギリシア教父』平凡社、1992年、364頁〕)。わたしたちは時としてイエスにこういいたくなることがあります。主よ、あなたのくびきはけっして軽くありません。それどころか、それはこの世にあってとてつもなく重いのです。しかし、主はすべてを耐え忍ばれました。主は、従順、弱さ、苦しみ、あらゆる暗闇を体験されました。このかたを仰ぎ見るとき、わたしたちのこのような不平は消えます。主のくびきは、主とともに愛するというくびきです。主を愛すれば愛するほど、また、主とともに愛する人間になればなるほど、わたしたちは、重いように見えるくびきを軽く感じるようになります。
 主に祈ろうではありませんか。わたしたちが主ととともに愛する人となれるよう、主が助けてくださいますように。こうして、主のくびきを負うことがどれほどすばらしいことかをますます味わうことができますように。アーメン。

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