教皇ベネディクト十六世の復活徹夜祭ミサ説教

4月7日(土)午後10時から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は復活徹夜祭のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文はイタリア語)。
このミサの中で、教皇は、6名の成人女性(中国人2名、日本人2名、キューバ人とカメルーン人各1名)に洗礼と堅信を授け、また、2名の幼児(洗礼を受けた中国人女性のイタリアで生まれた子ども)に洗礼を授けました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 古来、復活の主日の典礼は次のことばで始まります。「わたしは復活し、あなたとともにいる(Resurrexi et adhuc tecum sum)。あなたはわたしの上に手を伸べられた」。典礼はこのことばを、御子が復活の後に、すなわち、御子が死の夜からいのちの世界に戻った後に、御父に述べた最初のことばと考えます。御父のみ手はこの死の夜においても御子を支えました。だから御子は立ち上がり、復活することができました。
 このことばは詩編139からとられています。そしてそれは元は別の意味で述べられたものでした。この詩編は、全能にしてあらゆるところにおられる神への驚きを述べた歌です。わたしたちがみ手から落ちることをけっして許さない神への信頼を述べた賛歌です。神のみ手は、いつくしみに満ちています。詩編作者は、自分が宇宙の果てにまで旅することを想像します。そのとき彼に何が起こるでしょうか。「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府(よみ)に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙(あけぼの)の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにいまし、み手をもってわたしを導き、右のみ手をもってわたしをとらえてくださる。わたしはいう。『闇の中でも主はわたしを見ておられる・・・・』。闇もあなたに比べれば闇とはいえない。・・・・闇も、光も、変わるところがない」(詩編139・8-12)。
 復活祭の日に、教会はわたしたちにこう告げます。イエス・キリストは、わたしたちのために宇宙の果てまでこの旅を行われました。エフェソの信徒への手紙によれば、イエス・キリストは地の深みにまで降りました。そして、降りて来られたかたは、すべてのものを満たすために、天よりもさらに高く昇られたかたでもあります(エフェソ4・9-10参照)。こうして詩編の幻は現実となりました。何も見えない死の闇の中に、イエスは光として来られました。夜は昼のように輝き、闇は光となったのです。だから教会は、この感謝と信頼のことばを、復活した主が御父に述べたものと考えてもかまわないのです。「そうです。わたしは地のもっとも深いところにまで、死の淵にまで旅しました。そしてそこに光をもたらしました。今、わたしは復活し、あなたのみ手によって永遠にとらえられています」。ところで、復活した主が御父に述べたこのことばは、主がわたしたちに述べたことばともなりました。主はわたしたち一人ひとりにいいます。「わたしは復活し、今やいつもあなたとともにいる」。わたしの手はあなたを支える。あなたがどこに落ちようとも、あなたはわたしの手の中に落ちることになる。わたしは死の門の前にもいる。あなたとともに歩む人が一人もいなくなっても、あなたが何も携えられなくなっても、わたしはあなたを待ち受けている。そしてわたしはあなたのために闇を光に変える。
 復活した主とわたしたちの間の対話を表す、この詩編のことばは、洗礼で行われることの意味も説明してくれます。実際、洗礼はたんに身を洗うことでも、身を浄めることでもありません。洗礼はたんに共同体に受け入れられることでもありません。洗礼は新しく生まれることです。人生の新たな始まりです。たった今朗読された、ローマの信徒への手紙(ローマ6・3-11)は、神秘に満ちたことばでこう述べます。洗礼を受けたわたしたちは、キリストの死にあやかることによって、キリストに「接ぎ木」されました。洗礼を受けたわたしたちは、自分をキリストにささげます。するとキリストはわたしたちをご自身の内に受け入れます。こうしてわたしたちはもはや自分のために生きるのではなく、キリストによって、キリストとともに、キリストの内に生きる者となります。洗礼を受けたわたしたちは、自分を捨て、自分のいのちをキリストのみ手に委ねます。こうしてわたしたちは聖パウロとともにこういうことができるのです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)。もしわたしたちがこのように自分をささげるなら、もしわたしたちがいわば自分の死を受け入れるなら、死といのちの境界はなくなります。死のこちら側でも、向こう側でも、わたしたちはキリストとともにいます。それゆえ、すでにこのときから、死はもはやほんとうの意味での境界でなくなるのです。パウロはこのことをフィリピの信徒への手紙の中ではっきり述べます。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬこと(キリストとともにいること)は利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしにはわかりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って(すなわち、死刑に処されて)、キリストとともにいたいと熱望しており、このほうがはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまるほうが、あなたがたのためにもっと必要です」(フィリピ1・21以下)。死の境界のどちらの側においても、パウロはキリストとともにいます。そこにはもはやほんとうの意味での違いはありません。そうです。まことに「前からも後ろからもわたしを囲み、み手をわたしの上に置いていてくださる」(詩編139・5)のです。ローマの信徒への手紙の中で、パウロはこう述べます。「だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。・・・・生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14・7-8)。
 親愛なる洗礼志願者の皆様。洗礼の新しさとはこれです。すなわち、わたしたちのいのちは今やキリストに属するものとなり、もはやわたしたち自身に属するものでなくなるのです。だからわたしたちは、死のときも、けっして独りきりではありません。わたしたちは、永遠に生きておられるかたといつもともにいます。洗礼を受けたわたしたちは、キリストとともに、死の淵にまで至る宇宙の旅をすでにしています。さらに、キリストに伴われ、キリストの愛に受け入れられたわたしたちは、恐れから解放されます。キリストはいのちそのものであるかたです。わたしたちがどこへ行こうとも、このキリストがわたしたちを包み、このキリストがわたしたちを運んでくださるのです。
 聖土曜日の夜にもう一度戻りたいと思います。わたしたちは「信仰宣言」の中で、キリストの歩みについて、キリストが「陰府に下った」と唱えます。何がそのとき起こったのでしょうか。わたしたちは死の世界のことがわかりません。だからわたしたちは、想像を通して、このキリストが死に打ち勝った次第を思い描くほかありません。この想像は常に不十分なものであり続けます。しかし、不十分ではあっても、想像はわたしたちが神秘の一部を理解するための助けとなります。典礼は、イエスが死の夜に降ったことについて、詩編24のことばを使って述べます。「城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ」(詩編24・7)。死の門は閉じられ、だれもそこから帰ることはできません。この鋼鉄の扉を開ける鍵はありません。しかし、キリストはその鍵をもっておられます。キリストの十字架は、死の門を、破られることのなかった門を、大きく開きます。死の門はもはや乗り越えられないものではなくなりました。キリストの十字架が、キリストの徹底的な愛が、この門を開く鍵だからです。神でありながら、死ぬために人となったかたの愛――この愛が、死の門を開くことができるからです。この愛が死よりも強いからです。東方教会の復活祭のイコンは、キリストが死の世界に入る様子を描いています。キリストは光の衣をまとっています。神は光だからです。「夜は昼のように輝き、闇も、光も、変わるところがない」(詩編139・12参照)。死の世界に入ったイエスには、聖なる傷跡がついています。イエスの傷、すなわちイエスの苦しみには力があります。それは死に打ち勝つ愛だからです。イエスは、死の夜の中で待っていた、アダムを初めとするすべての人びとと出会います。この人びとを見ると、ヨナの祈りを耳にしているように感じます。「陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった」(ヨナ2・3)。神の子は、受肉によって、人間、すなわちアダムと同じものとなりました。しかし神の子は、死の夜に降ることによって最高の愛を成し遂げられたこのとき、初めて受肉の旅路を完成しました。神の子は、自分が死ぬことによって、アダムや自分を待ち望んでいたすべての人びとの手をとり、彼らを光に導いたからです。
 けれどもわたしたちはこう問いかけることができます。このようなイメージは何を意味するのでしょうか。キリストによって行われたことのほんとうの新しさは何だったのでしょうか。人間の霊魂は不滅のものとして創造されました。キリストはどのような新しいことをもたらしたのでしょうか。霊魂はたしかに不滅です。人間は、死んだ後も、独自のしかたで神の心にとめられ、愛され続けるからです。しかし人間は、自分の力で神のところまで昇ることができません。わたしたちは神の高みにまで自分を運ぶ翼をもっていません。けれども、神とともにいることのほかに、人間を永遠に満たしてくれるものはありません。永遠に神と一致することができないなら、それこそが罰となります。人間は、高みに昇ることができないにもかかわらず、この高みにあこがれています。「わたしは深い淵からあなたに叫びます・・・・」。わたしたちを神との一致にまで導くことのできるかた、自分の力では達することのできないところにまで導くことのできるかたは、復活したキリストだけです。まことに復活したキリストは、見失った羊をその肩に担ぎ、家に連れて帰ります。復活したキリストのからだにつかまることによって、わたしたちは生きます。復活したキリストのからだをいただくことによって、わたしたちは神のみ心に達します。このようにして初めて、わたしたちは死に打ち勝ち、自由なものとされ、自分のいのちを希望とすることができるのです。
 これこそが復活徹夜祭の喜びです。すなわち、わたしたちは自由です。イエスの復活によって、愛は死よりも強いことが、愛は悪よりも強いことが示されました。キリストは愛によって降りました。そしてキリストは、愛の力によって昇りました。この愛の力によって、わたしたちはキリストへと導かれます。キリストの愛と一つに結ばれ、愛の翼に乗り、愛の人として、キリストとともに世の闇に降ろうではありませんか。わたしたちは、こうすればわたしたちもキリストとともに高く上げられることを知っているからです。それゆえ、この夜にあたって祈りたいと思います。主よ、今日もわたしたちに示してください。愛は憎しみよりも強いことを。愛は死よりも強いことを。どうか現代の夜にも、現代の淵の底にも降ってください。あなたを待ち望む人をみ手でとらえてください。彼らを光へと導いてください。わたしが暗夜にいるときにも、わたしとともにいて、わたしを闇の外に導いてください。わたしを助けてください。わたしたちを助けてください。あなたを待ち望み、深い淵からあなたに叫ぶすべての人びとのいる暗闇に、わたしたちがあなたとともに降りていくことができるように。わたしたちを助けてください。わたしたちが彼らに光をもたらすことができるように。わたしたちを助けてください。わたしたちが愛を受け入れることができるように。この愛によって、わたしたちはあなたとともに降り、そこから、あなたとともに上げられるからです。アレルヤ。アーメン。

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