教皇ベネディクト十六世の93回目の一般謁見演説 オリゲネス

4月25日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の93回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘 […]

4月25日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の93回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の38回目として、「オリゲネス」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、ヨハネによる福音書12章24-26節が朗読されました。謁見には25,000人以上の信者が参加しました。
謁見の後、最後にイタリアの巡礼者へのイタリア語による祝福の中で、教皇は次の呼びかけを行いました。
「国連の提案により、今週は交通安全のためにささげられます。わたしは幹線道路の保守と適切な手段による人命の保護に努める公共機関、また、世界中の道路上での多くの事故を減らすための新しい技術や方法を熱心に研究する人びとに、励ましのことばを送ります。同時にわたしは、交通事故の犠牲者、負傷者とそのご家族のために祈ってくださるようお願いします。わたしは、隣人に対する責任の自覚が、ドライバー、特に若者に、慎重さと道路法規の尊重を促すことを望みます」。
国連は今週4月23日(月)から29日(日)まで、第1回交通安全週間を開催します。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  わたしたちは古代教会の偉大な人びとについて考察しています。今日わたしたちはもっとも重要な人物の一人を知ることになります。アレキサンドリアのオリゲネス(185頃-253/254年)は、実際、キリスト教思想の発展にとって決定的な意味をもつ人物の一人です。オリゲネスは、先週の水曜日に考察したアレキサンドリアのクレメンスの遺産を受け継ぎ、それを革新的なしかたで後の時代に伝えました。こうして彼は、キリスト教思想の発展に後戻りすることのできない転換をもたらしました。オリゲネスは真の「教師」でした。オリゲネスに学んだ学生は、追慕と感動をもって「教師」としてのオリゲネスを思い起こしました。オリゲネスは優れた神学者だっただけでなく、彼が伝えた教えを模範的にあかししました。オリゲネスの熱狂的な伝記作者であるカイサリアのエウセビオス(263/265頃-339/340年)はこう述べます。「オリゲネスは、行為がことばと正確に一致していなければならないことを教えた。だからこそ、彼は神の恵みの助けによって多くの人を彼に倣う者とした」(カイサリアのエウセビオス『教会史』:Historia ecclesiastica 6, 3, 7)。
  オリゲネスの全生涯は殉教への絶えざる望みに満たされていました。彼が17歳のとき、セプティミウス・セウェルス帝(在位193-211年)の在位10年の年に、キリスト教徒への迫害がアレキサンドリアで始まりました。オリゲネスの師クレメンスはアレキサンドリアを離れ、オリゲネスの父レオニデスは投獄されました。レオニデスの息子オリゲネスは強く殉教を望みましたが、この望みをかなえられませんでした。そこでオリゲネスは、父に手紙を送り、信仰の最高のあかしをやめないよう勧めています。そして若いオリゲネスは、レオニデスが斬首されたとき、その生涯の模範に倣わなければならないと感じました。40年後、カイサリアでの説教の中で、オリゲネスは次のように告白しています。「わたしは、殉教者の父をもったことを喜ぶために、よいわざを保ち、わが一族の高貴さ、すなわち、わが父の殉教と、父がキリストに示したあかしを誇りとしなければなりません」(『エゼキエル書講話』:In Ezechielem homiliae 4, 8)。後の講話の中でオリゲネスはこう叫びます(当時、フィリップス・アラブス〔マルクス・ユリウス・フィリップス〕帝(在位244-249年)の極端な寛容のおかげで、血のあかしが行われることはもはやなくなるように思われました)。「神がわたしに自分の血で身を洗い、キリストのために死を受け入れることによる第二の洗礼を受けることをお許しになるなら、わたしは確実に世を離れます。・・・・しかし、このようなことを受けるにふさわしい人は幸いです」(『士師記講話』:In librum Judicum homiliae 7, 12)。このことばは、オリゲネスが血の洗礼にあこがれていたことを示します。そして、このあらがいがたい望みはついに、少なくとも部分的にかなえられます。250年、デキウス帝(在位249-251年)の迫害のとき、オリゲネスは捕えられ、残酷な拷問を受けます。受けた苦しみで弱った彼は、数年後に没します。まだ70歳になるかならないかという年でした。
  わたしは、オリゲネスが神学とキリスト教思想に「後戻りすることのできない転換」をもたらしたと指摘しました。しかし、この「転換」はいかなることだったのでしょうか。この重大な帰結をもたらした「転換」のどこが新しかったのでしょうか。要するに、この「転換」とは、オリゲネスが神学の基盤を聖書の解釈としたことです。オリゲネスにとって神学とは、本質的に、聖書を解釈し、理解することでした。わたしたちはこういうこともできます。オリゲネスの神学は、神学と釈義の完全な共生です。実際、オリゲネスの教えの特徴は、神をもっと知るために、聖書の文字から霊へと進むようにという、絶えざる招きの内にあるように思われます。バルタザール(1905-1988年)はこう述べます。こうしたいわゆる「寓意的」な方法は、「教父の教えがもたらしたキリスト教教義の発展と」ちょうど一致します。教父たちは、多かれ少なかれ、オリゲネスの「教説」を受け入れたからです。こうして神学研究の基盤また保証である聖伝と教導職は、「聖書の実践」となるまでに至ったのです(Origene: il mondo, Cristo e la Chiesa, tr. it., Milano 1972, p. 43参照)。ですから、わたしたちはこういうことができます。オリゲネスの膨大な著作の核心は、聖書の「三つの読み方」にあります。けれども、この「読み方」を明らかにする前に、アレキサンドリアのオリゲネスの著作全体を概観したいと思います。聖ヒエロニモ(347-419/420年)は『書簡33』の中で、オリゲネスの320の著作と310の説教の標題を挙げています。残念ながらこれらの著作の大部分は失われましたが、残存するわずかな著作だけでも、オリゲネスはキリスト教の最初の3世紀のもっとも多産な著作家といえます。オリゲネスの関心の幅は、釈義から教義、哲学、護教論、修徳神学、神秘神学にまで及びます。それはキリスト教生活を根本的かつ全体的に見渡しています。
  オリゲネスの著作に霊感を与えた核心は、すでに述べたように、オリゲネスが生涯にわたって発展させた聖書の「三つの読み方」です。「三つの読み方」ということばでわたしがいいたいのは、オリゲネスが聖書研究に献身した際の三つのきわめて重要なあり方(三つは段階的なものではなく、むしろ重なり合ったものですが)のことです。オリゲネスはまず、テキストをできる限り確かめ、もっとも信頼できる版を示すことを目指して聖書を読みます。たとえば、最初の段階は次のようなものです。実際に何が書かれているかを知り、テキストが元々何をいおうと意図しているかを知ります。そのためにオリゲネスは多くの研究を行い、右から順に六欄に組んだ、対訳版の聖書を作りました。まずヘブライ文字によるヘブライ語テキストです(オリゲネスは聖書の元のヘブライ語テキストを理解するために幾人かのラビにも学びました)。それからギリシア文字に転写されたヘブライ語テキスト、それから、4つの異なるギリシア語訳。それは、オリゲネスが異なる可能な翻訳を比較できるためです。そこから、この巨大な共観聖書は「ヘクサプラ(「六つの欄」の意味)」と名づけられました。何が書かれているか、すなわちテキストそれ自体を知ること。これが第一の点です。第二段階において、オリゲネスは、その有名な『注解』で聖書を体系的に読解します。この『注解』は、アレキサンドリアとカイサリアの学校で教師オリゲネスが行った説明を忠実に再現しています。オリゲネスはほとんど各節ごとに、詳細に、また広く深いしかたで注解を進め、文献学的また教義的な注釈を加えます。彼は聖書記者がいおうとしたことを正確によく理解することに努めました。
  最後に、オリゲネスはすでに司祭叙階前から、聖書の説教に多くの労力を注ぎました。彼はさまざまな人から成る聴衆に合わせて語っています。さまざまな『講話』に見られるように、教師オリゲネスは常に、検討する箇所を順番に細かく区切って、体系的に解釈するよう努めます。オリゲネスはこれらの『講話』においても、常に聖書の意味のさまざまな次元に注目します。それは、信仰の成長の歩みを助け、また表すためです。まず、「文字通りの」意味があります。しかし、この「文字通りの」意味には、最初は明らかでない、深い意味が隠れています。第二の次元は「道徳的な」意味です。「道徳的な」意味とは、わたしたちがみことばをどう生きるべきかということです。そして最後に「霊的な」意味があります。「霊的な」意味とは、聖書と一致することです。聖書はその全体の展開を通じてキリストについて語るからです。聖霊は、わたしたちが聖書の内容であるキリスト、すなわち聖書の中の多様性における一致を理解するのを助けてくれます。このことを示すのは興味深いことです。わたしは著書『ナザレのイエス』において、現代の状況の中で、みことば、すなわち聖書のこの多様な次元を示そうと試みました。聖書はまず歴史的な意味において尊重されなければなりません。しかしこの歴史的な意味は、聖霊の光の下に、この意味を超えて、わたしたちをキリストへと導きます。そしてわたしたちに道を、すなわちどう生きるかを示します。たとえば『民数記講話』第9講話の中にこのことが示されています。この講話の中で、オリゲネスは聖書をクルミにたとえます。オリゲネスはいいます。「キリストの学びやにおいて、律法と預言者の教えは、皮のように苦い文字です。第二の段階であなたがたは殻に達します。殻とは道徳的な教えです。第三の段階であなたがたはさまざまな神秘の意味を見いだします。この神秘の意味によって、聖なる人の魂は現世と来世で養われます」(『民数記講話』:In Numeros homiliae 9, 7)。
  オリゲネスは何よりもこの道を通って、旧約聖書の「キリスト教的な読み方」を効果的なしかたで開始させることに成功しました。こうして彼は、異端者、特にグノーシス主義者とマルキオン主義者の挑戦をすぐれたしかたで撃退しました。これらの異端者は旧約聖書と新約聖書を対立させ、結局、旧約聖書を否定したからです。アレキサンドリアのオリゲネスはこの問題について同じ『民数記講話』の中でこう述べます。「もし霊において理解するなら、わたしは律法を『旧約』とは呼びません。律法が『旧約』となるのは、それを肉によるしかたで理解しようとする人(すなわち、テキストの文字にとどまる人)にとってだけです」。しかし、「律法を霊において、そして福音の意味において理解し、実行するわたしたちにとって、律法は常に新たなものです。そして、旧約と新約の二つの契約は、わたしたちにとって新約となります。それは、時間的な古さのゆえにではなく、意味の新しさのゆえです。・・・・これに対して、罪人や、愛のおきてを重んじない者にとっては、福音も古びてしまうのです」(『民数記講話』:In Numeros homiliae 9, 4)。
  結びとして、わたしは、この偉大な信仰の教師を皆様の心に迎え入れてくださるようお願いします。オリゲネスがわたしたちに思い起こさせてくれるように、聖書を祈りの内に、また一貫した生き方の内に読むことによって、教会は常に新たにされ、若返ります。神のことばはそのための最高の手段です。神のことばは、けっして古びることも尽きることもないからです。実際、神のことばは、聖霊のわざを通して、常にわたしたちを真理全体へと導きます(教皇ベネディクト十六世「『啓示憲章』発布40周年記念国際会議参加者へのあいさつ(2005年9月16日)」:Insegnamenti, vol. I, 2005, pp. 552-553参照)。主に祈り求めましょう。どうか現代のわたしたちが、聖書のもつ多くの次元と、永遠の現代的意味とを見いだす思想家、神学者、釈義学者となることができますように。祈りましょう。主の助けによって、わたしたちが聖書を祈りとともに読み、まことのいのちのパンであるみことばによってほんとうの意味で養われることができますように。

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