教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答

教皇庁教理省 教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答 以下に訳出するのは、2007年7月10日(火)に教皇庁教理省が発表した文書「教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答(2007年6月29日)」の全文です […]

教皇庁教理省
教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答

以下に訳出するのは、2007年7月10日(火)に教皇庁教理省が発表した文書「教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答(2007年6月29日)」の全文です。文書の原文はラテン語ですが、同時にイタリア語、フランス語、英語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ポーランド語訳も発表されました。教理省は同時に本文書についての解説もイタリア語、フランス語、英語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ポーランド語で発表しました。
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序文

 第二バチカン公会議は、教義憲章『教会憲章(Lumen gentium)』、『エキュメニズムに関する教令(Unitatis
redintegratio
)』および『カトリック東方諸教会に関する教令(Orientalium Ecclesiarum)』により、カトリックの教会論の刷新に決定的なしかたで貢献しました。教皇たちも実践のための洞察と方向づけを与えることによりこの刷新に貢献しました。すなわち、パウロ六世の回勅『エクレジアム・スアム(Ecclesiam
suam
)』(1964年)、ヨハネ・パウロ二世の回勅『キリスト者の一致(Ut unum sint)』(1995年)です。
 
教会論のさまざまな側面をさらに明らかにするために続いて行われた神学者たちの努力は、この分野において多くの著作を生み出しました。実際、教会論というテーマはきわめて実り豊かなものであることが明らかとなりましたが、一方で、正確な定義や警告を通じた説明が必要となる場合もありました。たとえば、宣言『ミステリウム・エクレジエ(Mysterium
Ecclesiae
)』(1973年)、カトリック教会の全司教への書簡『交わりとしての教会理解のいくつかの点について(Communionis
notio
)』(1992年)、そして宣言『主イエス(Dominus Iesus)』(2000年)です。これらは皆、教皇庁教理省から発布されたものです。
 
この問題の広がりと、多くのテーマの新しさは、神学的考察が加えられることを求め続けています。そして、この分野の多くの新しい業績のうちには、かならずしも常に誤った解釈から自由でないものも見られ、それが混乱と疑いを招いています。こうした諸解釈のいくつかは教皇庁教理省が検討するために報告されました。カトリックの教会論の普遍性に鑑み、本省は教導職が用いた教会論についてのいくつかの表現の真の意味を明らかにすることを通じて、こうした問いに答えたいと望みます。こうした表現は神学的議論の中で誤解される余地があるからです。

問いに対する回答

第1の問い――第二バチカン公会議はそれまでのカトリックの教会に関する教えを変えましたか。

答え――第二バチカン公会議はカトリックの教会に関する教えを変えもしなければ、変えようとも意図しませんでした。むしろ、第二バチカン公会議はそれを発展、深化させ、より完全なしかたで説明したのです。
 
これこそまさに、ヨハネ二十三世が公会議の初めに述べたことです(1)。パウロ六世はそれを確認し(2)、『教会憲章』の発布にあたってこう解説しています。「次のようにいう以上の解説はないと思われます。すなわち、この文書の発布は実際に、伝統的な教えの何も変えないのだと。キリストが望まれたことを、わたしたちもまた望みます。かつて存在したことは、今も存在します。教会が幾世紀にわたって教えてきたことを、わたしたちも教えます。要するに、かつて生活の中で実践されてきたことが、今や教えによってはっきりと解明されます。これまで考察され、議論され、ときには論争の対象となっていたことが、今や明快な教理の定式で述べられるのです」(3)。司教たちは繰り返しこの意図を表明し、実施しました(4)。

第2の問い――「キリストの教会はカトリック教会のうちに存在する」とはどういう意味ですか。

答え――キリストは唯一の教会を、「見える集団と霊的共同体」として「地上に設立」されました(5)。この教会は初めから歴史を通じて常に存在し、存在し続けます。また、この教会のうちにおいてのみ、キリストが設立したすべての要素が永続してきましたし、永続し続けます(6)。「これこそキリストの唯一の教会である。われわれはこの教会を信条の中で、唯一、聖、カトリック、使徒的と宣言する。・・・・この教会は、この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者と彼と交わりのある諸司教によって治められているカトリック教会のうちに存在する」(7)。
 
『教会憲章』8において「存在(subsistentia)」ということばは、キリストがカトリック教会の中に設立したすべての要素の、こうした変わることのない歴史的継続性と永続性を意味します(8)。キリストの教会は、カトリック教会のうちに地上において具体的なしかたで存在するからです。
 
カトリックの教えに従い、キリストの教会は、カトリック教会といまだ完全な交わりをもたない諸教会また諸教会共同体においても現前し、働くといっても間違いではありません。こうした諸教会また諸教会共同体の中にも、聖とする種々の要素、また真理の種々の要素があるからです(9)。にもかかわらず、「存在する(subsistit)」ということばはカトリック教会にのみいうことができます。というのは、このことばは、わたしたちが信条の中で告白する一致のしるしを表しているからです(「わたしは・・・・唯一の教会を信じます」)。そしてこの「唯一の」教会はカトリック教会のうちに存在します(10)。

第3の問い――なぜ単に「ある(est)」ではなく、「存在する(subsistit
in
)」ということばが採用されたのですか。

答え――キリストの教会がカトリック教会と完全に一致することを表すこのことばを用いることによって、教会に関する教えが変わるわけではありません。むしろ、このことばを用いるのは、カトリック教会の組織以外にも「成聖と真理の要素」があり、「それらは本来キリストの教会に属するものであるから、カトリック的一致へと促すものである」(11)ということをいっそうはっきりとしかたで表すためです。
 
「これらの分かれた諸教会と諸教団には欠如があるとわれわれは信じるけれども、けっして救いの秘義における意義と重要性を欠くものではない。なぜならキリストの霊はそれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒絶されないからであり、これらの救いの手段の力はカトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満自身に由来するのである」(12)。

第4の問い――なぜ第二バチカン公会議は「教会」ということばをカトリック教会との完全な交わりから分かれた東方教会にも用いるのですか。

答え――公会議はことばの伝統的な用法を採用することを望みました。「これらの教会はたとえ分かれてはいても、真の秘跡、特に使徒継承の力により司祭職と聖体をもっていて、それらによって今なお緊密にわれわれと結ばれているのであるから」(13)、「部分教会すなわち地方教会」(14)の名で呼ばれるに値し、カトリックの部分教会の姉妹教会と呼ばれます(15)。
 
「これらの個々の教会における主の聖体の祭儀によって、神の教会が建てられ、成長する」(16)。しかしながら、カトリック教会――その目に見える頭は、ローマ司教であるペトロの後継者です――との交わりは、部分教会の外的な補充物ではなく、その内的な構成要素の一つです。それゆえ、これらの尊敬に値する諸キリスト教共同体は部分教会としての条件の一部を欠いています(17)。
 
他方、キリスト者間の分裂のゆえに、ペトロの後継者と彼と交わりをもつ司教によって統治される教会に固有の完全なカトリック性が、歴史の中で完全に実現されないのです(18)。

第5の問い――公会議文書や公会議後の教導職の文書は、なぜ16世紀の宗教改革から生まれたキリスト教共同体に「教会」という呼び名を用いないのですか。

答え――カトリックの教えによれば、これらの共同体は叙階の秘跡による使徒的継承をもたず、それゆえ教会を教会たらしめる本質的な要素を欠いています。特に司祭職の秘跡を欠くことにより、聖体の秘義の本来の完全な本体を保持していない(19)これらの教会共同体を、カトリックの教えによれば、固有の意味で「教会」と呼ぶことはできません(20)。

 教皇ベネディクト十六世は、下記の教皇庁教理省長官との謁見において、教皇庁教理省総会で採択されたこの回答を裁可し、その公表を命じた。

2007年6月29日、ローマ、教皇庁教理省事務局にて、
教皇庁教理省長官
ウィリアム・レヴェイダ枢機卿
秘書、シラ名義大司教
アンジェロ・アマート(サレジオ修道会)

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