「教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答」解説

以下に訳出するのは、2007年7月10日(火)に教皇庁教理省が発表した文書『教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答(2007年6月29日)』の「解説」の全文です。この「解説」はイタリア語、フランス語、英語、ドイツ […]

以下に訳出するのは、2007年7月10日(火)に教皇庁教理省が発表した文書『教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答(2007年6月29日)』の「解説」の全文です。この「解説」はイタリア語、フランス語、英語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ポーランド語で発表されましたが、翻訳の底本として英語版を用い、イタリア語、フランス語、ドイツ語版を適宜参照しました。
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  教皇庁教理省は、この文書で、第二バチカン公会議の教義とエキュメニズムに関する教えに由来する、教会の全体像に関するいくつかの質問に答えています。パウロ六世が述べるように、「教会が教会について」考察したこの公会議は、「教会の新しい時代」を画します。すなわち、そのとき「キリストの花嫁の真の顔がより完全なしかたで考察され、明らかにされる」(1)のです。この文書は教皇パウロ六世とヨハネ・パウロ二世の主要文書と、教皇庁教理省の声明を何度も引用します。これらの諸文書は皆、教会そのものに関するいっそう深い理解から霊感を受けたものです。文書の多くは公会議後の神学の顕著な成果を明確にするために書かれました。それらの成果はかならずしも常に逸脱や不正確さを免れていなかったからです。
  今回の文書も同じような理由で書かれたものです。教理省の意図は、教会論に関する教導職の発言を明らかにすることです。それは、一部の現代の神学研究が間違いやあいまいさを含むからです。そこで教理省は「問いに対する回答」という形式を用いることを選びました。この形式は、その性格上、特定の教理を証明するための議論を行おうとするものではなく、教導職のこれまでの教えを引用するにとどめながら、特定の問題に対して確実な解答を示します。
  第1の問いは、第二バチカン公会議がそれまでの教会論を変えたかどうかを問います。
  この問いは、先に引用した、第二バチカン公会議が与えた教会の「新しい顔」ということばでパウロ六世が述べたことの意味に関するものです。
  ヨハネ二十三世とパウロ六世の教えに基づく、その答えはきわめて明快です。第二バチカン公会議はそれまでの教会に関する教えを変えることを意図しませんでしたし、それゆえ変えませんでした。第二バチカン公会議はこの教えを深め、より有機的なしかたで述べたにすぎません。実際、これがパウロ六世が『教会憲章』発布演説で述べたことでした。この演説の中でパウロ六世が述べるように、『教会憲章』は伝統的な教会に関する教えを変えたのではありません。むしろ、「かつて生活の中で実践されてきたことが、今や教えによってはっきりと解明されます。これまで不確かだったことが明らかにされます。これまで考察され、議論され、ときには論争の対象となっていたことが、今や明快な教理の定式で述べられるのです」(2)。
  第二バチカン公会議が教えた教理と、教導職がその後述べた声明の間にも連続性があります。教導職の声明は同じ教理を取り上げて深めました。この教理それ自身が発展の基盤となるからです。その意味で、たとえば教皇庁教理省宣言『主イエス』は、公会議と公会議後の教えをあらためて述べたにすぎず、それに何かを付け加えたわけでも、そこから何かを取り去ったわけでもありません。
  しかしながら、公会議後、このような明快な声明が行われているにもかかわらず、第二バチカン公会議の教理は、誤った解釈の対象となってきましたし、今も誤った解釈の対象となり続けています。この解釈は、教会の本性に関する伝統的なカトリックの教理とは異なるものです。こうした解釈は、第二バチカン公会議の教理のうちに「コペルニクス的転換」を見いだしたり、他の側面と対立させながら、ある特定の側面を強調します。第二バチカン公会議の実際の深い意図は、教会論を神論の中に、また神論に従属するかたちではっきり位置づけることでした。それゆえ公会議は、真の意味で神学的な教会論を提示したのです。しかしながら、公会議の教えを受容した人はしばしばこの点をあいまいにしました。彼らは、特定の教会論的な言明を支持することによってこの教えを相対化し、しばしば公会議の教えの部分的かつ釣り合いを欠いた理解を促すような特定のことばないし表現を強調しました。
  『教会憲章』の教会論に関して、教会の意識の中に鍵となるいくつかのことばが導入されました。すなわち、神の民、司教の団体性、すなわち教皇の首位性とともに行われる司教の奉仕職の再評価、普遍教会における部分教会についての新たな理解、教会概念をエキュメニズムに対して開かれたものにすること、また他宗教に開かれた態度です。最後に、カトリック教会の特別な性格についての問題があります。それは次の定式で表されます。信条が述べるように、唯一、聖、公、使徒的な教会は「カトリック教会のうちに存在する(subsistit in Ecclesia catholica)」。
  第2以降の問いで、今回の文書は、これらの中心的な概念のいくつかを、特にカトリック教会の特別な性格とそのエキュメニズムの分野への影響とともに検討します。
  第2の問いは、「キリストの教会がカトリック教会のうちに存在する」とは何を意味するかを問います。
  G・フィリップス師が「のうちに存在する(subsistit in)」ということばから「インクの川」(3)が流れ出したと述べたとき、師はおそらく、この議論がこれほど長期にわたり激しく行われ、教理省に今回の文書を発表させることになるとは想像だにしなかったと思われます。
  公会議と公会議後の教導職の文書の引用に基づく今回の文書は、教会の一致と唯一性を守ることへの本省の関心を反映しています。キリストの創立した教会が多くの「存在」として存在しうると認めるなら、この教会の一致と唯一性が損なわれることになるからです。実際、もしそうであれば、宣言『ミステリウム・エクレジエ』が述べるように、「キリストの教会を、多様であると同時にいまだ一致していない諸教会ないし諸教会共同体の総和として」想像するか、「キリストの教会は今日もはや具体的なかたちで存在せず、それゆえ、すべての教会ないし教会共同体の探究の対象でありうるにすぎないと考え」(4)ざるをえなくなります。もしそうであれば、キリストの教会は歴史の中にもはや「一」なるものとして存在しないか、いわば「未完の(in fieri)」理念として存在するにすぎないことになります。この理念は、未来の統一か、対話を通じて達成が期待される、姉妹教会の再一致によってもたらされます。
  レオナルド・ボフの著作に関する教理省の告示はさらにはっきりと述べます。ボフは、唯一のキリストの教会は「他のキリスト教諸教会のうちに存在しうる」といいます。これに対して、教理省の告示は明確にこう述べます。「公会議が『存在する(subsistit)』ということばを選んだのは、何よりも、真の教会は唯一の『存在』であることを明らかにするためでした。これに対して、教会の目に見える組織の外には『教会の諸要素』のみが存在します。この『教会の諸要素』は、同じ教会の要素であるがゆえに、カトリック教会を志向し、これに導きます」(5)。
  第3の問いは、なぜ「ある(est)」という動詞でなく「存在する(subsistit in)」という表現が用いられたかを問います。
  キリストの教会とカトリック教会の関係を述べるに際して、この用語の変更を行ったことによって、まさに、とりわけエキュメニズムの領域で、きわめてさまざまな解釈が生じたのでした。実際には、公会議教父が意図したのは、ただ、キリストの教会に固有の教会的要素がカトリック教会以外のキリスト教共同体のうちにも現前することを認めることにすぎませんでした。それは、キリストの教会とカトリック教会がもはや同一でないといおうとしたのでもなければ、カトリック教会の外は教会的要素がまったく存在しない、「教会の真空状態」だといおうとしたのでもありません。この表現は次のことも意味しています。すなわち、「のうちに存在する(subsistit in)」という表現を正しい文脈で理解するならば、つまり、「この世に設立され組織された社会としては、ペトロの後継者と彼と交わりのある諸司教によって治められている」キリストの教会との関連で理解するならば、「ある(est)」から「のうちに存在する(subsistit in)」への変化は、それまでのカトリックの教えとの非連続を表すような特定の神学的意味をもたないということです。
  実際、キリストが望んだ教会はまさにカトリック教会のうちに存在する(subsistit in)がゆえに、この存在の連続性はキリストの教会とカトリック教会の本質的な同一性を表します。公会議が教えようと望んだのは次のことです。すなわち、わたしたちはカトリック教会において具体的な歴史的存在としてイエス・キリストの教会と出会うということです。それゆえ、「存在する(subsistit)」ものが多数あるようになるという考えは、けっして「存在する(subsistit)」という用語を選択した際にいおうと意図したものではありません。「存在する(subsistit)」ということばを選ぶことによって、公会議は、キリストの教会の独自性をいおうとしたのであって、「多数性」をいおうとしたのではありません。教会は歴史的現実の中に唯一の主体として存在するのです。
  それゆえ、根拠のない多くの解釈とは反対に、「ある(est)」から「存在する(subsistit)」への変更は、カトリック教会が自らを唯一のまことのキリストの教会であるとみなすことをやめたことを意味しません。むしろそれは、カトリック教会が、カトリック教会と完全な交わりをもたないさまざまなキリスト教共同体のうちに真の教会的性格と次元を認めたいというエキュメニカルな望みへと大きく開かれていることを表すにすぎません。これらのキリスト教共同体のうちには「数多くの成聖と真理の要素」があるからです。したがって、教会は唯一であり、唯一の歴史的主体のうちに「存在する」としても、この目に見える主体の外にも、真の意味での教会的現実が存在します。
  第4の問いは、なぜ第二バチカン公会議は「教会」ということばをカトリック教会と完全な交わりをもたない東方教会を呼ぶのに用いたかを問います。
  キリストの教会はカトリック教会のうちに「存在する」とはっきり述べながら、目に見える組織の外に「数多くの成聖と真理の要素」(6)が見いだされると認めるということ――このことは、(さまざまに分裂しているにせよ)カトリック教会以外の諸教会や諸教会共同体の教会的性格を示しています。これらの教会や教団は「けっして救いの秘義における意義と重要性を欠くものではない」。なぜなら「キリストの霊はそれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒絶されないから」(7)です。
  今回の文書は、とりわけ、カトリック教会と完全な交わりをもたない東方教会の存在を考察します。そして、さまざまな公会議文書を参照しながら、これらの東方教会に「部分教会すなわち地方教会」の名を与え、彼らをカトリックの部分教会の姉妹教会と呼びます。なぜなら、東方教会は、使徒継承と、有効なしかたで聖体の祭儀を行うことを通じて、カトリック教会と一致し続けているからです。この「聖体の祭儀によって、神の教会が建てられ、成長する」(8)のです。宣言『主イエス』はこれらの東方教会をはっきりと「真の部分教会」(9)と呼びます。
  今回の文書は、東方教会が「部分教会」であり、救いのための価値をもつことをはっきりと認めつつも、これらの教会が部分教会であることを特別な意味で損なう欠如(defectus)を無視することもできませんでした。東方教会は、部分教会が聖体の祭儀を通じて、また司教の指導のもとに、キリストの名で一つに結ばれている現実を強調します。このような聖体に基づく教会観のゆえに、東方教会は自らが部分教会として完全であると考えます(10)。したがって、すべての部分教会も、部分教会を統治するすべての司教も、根本的に平等であるなら、部分教会と司教は皆、ある種の内的な自立を主張することになります。このことが首位性の教えと相容れないことは明らかです。カトリックの信仰によれば、首位性は部分教会の存在そのものの「内的な構成要素」(11)だからです。それゆえ、当然のことながら、ペトロの後継者であるローマ司教の首位性を、部分教会の司教の権能と無関係なものとか競合するものと考えることができないことを常に強調しなければなりません。ローマ司教の首位権は、神法と、啓示に含まれた教会の神的かつ不可侵な定めの範囲内で、信仰と交わりの一致に奉仕するために行使すべきものです(12)。
  第5の問いは、なぜ宗教改革から生まれた諸教会共同体を「教会」と認めることができないかを問います。
  この問いに対して次のように答えていわなければなりません。「使徒継承や有効な感謝の祭儀をもち続けていない教会共同体における傷はより深いものです」(13)。そのため「こうした教団は「固有の意味での教会ではありません」(14)。むしろこれらの教団は、公会議と公会議後の教えに示されているように、「教会共同体」(15)です。
  この教えは、これらの共同体にも、カトリック信者にさえも、少なからぬ困惑を与えてきました。しかしながら、「教会」の名がこうした共同体に与えられうると理解するのは困難です。これらの共同体はカトリック的な意味での教会に関する神学的な概念を受け入れておらず、カトリック教会に本質的なものと考えられる諸要素を欠いているからです。
  そうはいいながらも、忘れてはならないことがあります。それは、これらのいわゆる教会共同体が、彼らの中に見られるさまざまな成聖と真理の要素によって、教会的性格を有し、したがって救いをもたらす意義を有することは間違いないということです。
  公会議と公会議後の教導職の教えをまとめたこの新しい教理省の文書は、教会に関するカトリックの教えをはっきりと再確認します。残念ながらカトリックの世界に広まった、受け入れることのできないある種の思想に反駁しながら、この文書はこれからのエキュメニカル対話に貴重な指針を示します。エキュメニカル対話はカトリック教会の優先課題の一つであり続けます。ベネディクト十六世が、2005年4月20日の教会に向けた最初のメッセージの中で、また、他のさまざまな機会に、とりわけトルコへの使徒的訪問(2006年11月28日-2006年12月1日)の際に確認したとおりです。しかしながら、エキュメニカル対話が真の意味で建設的なものとなるためには、対話に参加する者が相互に開かれていることだけでなく、カトリック信仰のあり方に忠実であることも必要です。こうして初めてエキュメニカル対話はすべてのキリスト者を「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10・16)までの一致へと導くことができるのです。そして、カトリック教会が歴史の中でその普遍性を完全に実現することを妨げている傷をいやすことができるのです。
  カトリックのエキュメニズムは、一見すると逆説的なものに見えるかもしれません。第二バチカン公会議が「のうちに存在する(subsistit in)」ということばを用いたのは、二つの教理的言明を調和させようとするためでした。一方で、キリスト者の分裂にもかかわらず、キリストの教会はカトリック教会のうちにのみ完全なしかたで存在し続けます。他方で、カトリック教会の目に見える組織の外にも、すなわち、カトリック教会と完全な交わりをもたない部分教会や、教会共同体の中にも、数多くの成聖と真理の要素が存在します。そのため第二バチカン公会議の『エキュメニズムに関する教令』は「(一致と普遍性における)完全性(plenitudo [unitatis/catholicitatis])」という用語を導入しました。それは何よりも、このある意味で逆説的な状況への理解を深める助けとなるためでした。カトリック教会は救いの手段を完全に所有しています。「しかしながらキリスト教徒の分裂は、洗礼によって教会に属していながらも教会の完全な交わりから離れている子らの中に、教会が自分に固有の完全な普遍性を実現することを妨げる」(16)。それゆえ、カトリック教会の完全性はすでに存在しています。しかしこの完全性は、カトリック教会とまだ完全な交わりをもたない兄弟の中で、またカトリック教会自身に属する罪人たちの中で、「天上のエルサレムでの永遠の完成の喜びにまで達する」(17)まで成長していかなければなりません。この完全性における成長は、キリストとの一致へ向かう生き生きとした過程を基盤としています。「キリストとの一致は、キリストがご自分を与えるすべての人との一致でもあります。わたしはキリストを独り占めすることはできません。わたしは、キリストのものとなったすべての人、あるいはこれからキリストのものとなるすべての人と一致することによって、初めてキリストに属する者となることができるのです。聖体拝領はわたしを自分自身からキリストへと引き寄せます。そこから、わたしはすべてのキリスト信者と一致するように導かれます」(18)。

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