教皇ベネディクト十六世の聖母の被昇天の祭日ミサ説教

8月15日(水)午前8時から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォの「サン・トマソ・ダ・ヴィラノヴァ」小教区で、教皇ベネディクト十六世は聖母の被昇天の祭日のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です。説教は事前に用意された原稿なしにイタリア語で行われました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  聖アウグスチヌス(354-430年)は偉大な著作『神の国』の中であるときこういっています。人類の歴史全体、すなわち世界史は二つの愛の間の戦いです。二つの愛とは、自分を失い、完全に自分をささげるに至るまでの神の愛と、神をさげすみ、他の人を憎むに至るまでの自己愛です。この、愛と利己主義という二つの愛の戦いとしての歴史解釈は、今朗読されたばかりの黙示録の個所(黙示録11・19a、12・1-6、10ab参照)の中にも現れます。黙示録の中で、この二つの愛は二つの巨大な姿で現れます。一つは、きわめて強力な赤い竜です。この竜は、恵みと愛を欠いた、絶対的な利己主義と恐怖と暴力の力を、身震いさせるようなしかたでまざまざと示します。
  聖ヨハネが黙示録を書いた当時、この竜は聖ヨハネにとって、ネロ(在位54-68年)からドミティアヌス(在位81-96年)に至るまでの反キリスト教的なローマ皇帝の権力として現実のものとなりました。この権力は限界のないもののように見えました。ローマ帝国の軍事力、政治力、宣伝力はきわめて大きく、その前にあって信仰と教会は、生き延びる可能性も、勝利するあてもない、無防備な女のように思われました。あらゆることができるかのように思われるこの全能の権力に、誰が立ち向かうことができたでしょうか。にもかかわらず、わたしたちが知っているように、最後に勝利を得たのは、利己主義や憎しみではなく、この無防備な女でした。神の愛が勝利を収め、ローマ帝国はキリスト教信仰へと開かれました。
  聖書のことばは常に、歴史の中の時代を超越します。それゆえこの竜は、当時の教会を迫害した反キリスト教的な権力だけでなく、あらゆる時代の反キリスト教的で唯物論的な専制政治を表します。わたしたちはこの権力が、すなわちこの赤い竜の力が、前世紀の巨大な専制政治として再び現実のものとなったのを目の当たりにしました。ナチズムの専制政治と、スターリン(1879-1953年)の専制政治は、すべての権力を手にして、あらゆるところ、地の果てにまで浸透しました。長い間、この竜の前で信仰が生き延びることは不可能のように思われました。この竜はあまりに強力で、子となった神と、女すなわち教会を食べようとしました。しかし実際には、このときも、最終的に愛は憎しみよりも強かったのです。
  現代でも、竜は別の新たなかたちで存在します。竜は物質主義的な思想のかたちで存在します。物質主義的な思想はわたしたちに語ります。「神について考えるのは愚かなことだ。神のおきてを守るのは愚かなことだ。それは過去の時代の遺物だ。人生は人生そのもののためにのみ生きるべきだ。短い人生において自分のものにできるあらゆるものを自分のものにするがよい。意味があるのは消費主義と利己主義と娯楽だけだ。これが人生だ。わたしたちはこのように生きるべきだ」。またしても、この支配的な考え方にあらがうのは愚かで不可能なことのように思われます。この考え方はきわめて大きなメディアと宣伝の力に支えられているからです。現代にあっても、人間を創造し、かつ、子となった神、世の真の支配者であるべき神のことを考えるのは不可能なことのように思われます。
  今も、この竜には打ち勝ちがたいように思われます。しかし、神が竜よりも強いこと、勝利を収めるのは愛であって利己主義でないことは、今も真実です。このようにして竜のさまざまな歴史的な形態を考えた上で、こんどはもう一つの姿を見てみたいと思います。すなわち、身に太陽をまとい、月を足の下にし、12の星に囲まれた女です。この女の姿もさまざまな意味をもっています。もちろん、この女はまず、太陽すなわち神を完全なかたちでまとった聖母マリアを意味します。完全に神に結ばれて生きたマリアは、神の光に包まれ、また貫かれました。マリアは12の星に囲まれています。12の星とは、イスラエルの12部族、すべての神の民、聖徒の交わり全体のことです。そしてマリアは月を足の下にしています。月は死と死すべき運命を表します。マリアは死を自分の後に退けました。マリアは完全にいのちを身にまといます。マリアは肉体と霊魂をもって神の栄光のうちに上げられました。こうして栄光のうちに移され、死を乗り越えたマリアはわたしたちにいいます。「勇気をもちなさい。最後に勝利を収めるのは愛です。わたしの生涯とはこれです。わたしは神のはしためです。わたしの生涯は、神と隣人にわたしをささげることでした。そしてこの奉仕の生涯は今やまことのいのちに達しました。あなたがたも、信頼と勇気をもってわたしのように生きなさい。そして、あらゆる竜の脅威に立ち向かいなさい」。
  これがマリアのうちに現実のものとなった、女の第一の意味です。「身に太陽をまとった女」は愛の勝利の偉大なしるしです。愛の勝利とは、いつくしみの勝利であり、神の勝利です。それは偉大な慰めのしるしです。しかし女は苦しみ、逃げ、苦しみのために叫びながら子を産みます。この女は教会でもあります。すなわち、すべての時代の旅する教会です。教会はすべての時代に新たにキリストを産まなければなりません。大きな痛みと苦しみのうちに、世にキリストをもたらさなければなりません。いつの時代にも教会は迫害され、いわば竜に追われて荒れ野に住みます。しかし、いつの時代にも、神の民である教会は、神の光に照らされて生きます。そして福音が述べるように(ルカ1・39-56参照)、神に養われます。聖体のパンによって養われます。こうして教会は、さまざまな時代、世界のさまざまな場所、さまざまな状況で、どのような試練に遭っても、苦しみを通して勝利を収めます。そして教会は、あらゆる憎しみと利己主義の思想に神の愛が立ち向かうことを表す存在であり、保証です。
  たしかにわたしたちは今日も、竜が、子となった神を食べようとしているのを目の当たりにします。このように神が無力に見えるからといって、恐れてはなりません。戦いはすでに勝利を収めています。今日もこの無力な神が強いのです。この無力な神こそがまことの力なのです。ですから被昇天の祭日は、神を信頼し、また、マリアのことばに従ってマリアに倣うようにわたしたちを招きます。マリアはいいます。「わたしは主のはしためです。わたしは主のみ旨にわたしをゆだねます」。わたしたちの教訓はこれです。わたしたちは自分の道を歩まなければなりません。わたしたちは人生を与えるべきであって、自分のものにしてはなりません。このようにして初めてわたしたちは愛の道を歩みます。愛とは自分を失うことです。しかし、自分を失うことが、実際には、真の意味で自分を見いだし、まことのいのちを見いだすための唯一の道なのです。
  天に上げられたマリアを仰ぎ見ようではありませんか。勇気をもって信じ、喜び祝おうではありませんか。神は勝利を収めます。信仰は無力なように見えますが、信仰こそが世のまことの力です。愛は憎しみよりも強いのです。エリサベトとともにいおうではありませんか。あなたは女の中で祝福されたかたです。わたしたちは全教会とともにあなたに祈ります。神の母聖マリア、罪深いわたしたちのために、今も、死を迎えるときも祈ってください。アーメン。

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