教皇ベネディクト十六世の112回目の一般謁見演説 ヴェルチェリの聖エウセビオ

10月17日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の112回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の […]

10月17日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の112回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の55回目(2007年3月7日から開始した教父に関する講話の23回目)として、「ヴェルチェリの聖エウセビオ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、フィリピの信徒ヘの手紙2章14-15節が朗読されました。謁見には30,000人の信者が参加しました。
演説の後、イタリア語で行われたイタリアの巡礼者へのあいさつの中で、教皇は10月17日の「世界貧困撲滅のための日」にあたり、次の呼びかけを行いました。
「今日わたしたちは『世界貧困撲滅のための日』を迎えます。『世界貧困撲滅のための日』は国連によって『貧困撲滅のための国際デー』として行われています。どれほど多くの人が今なお極度に貧しい状況に置かれていることでしょうか。豊かな人と貧しい人の格差は、経済先進国においてもいっそう明白かつ懸念すべきものとなっています。この憂慮すべき状況は人類の良心に訴えます。きわめて多くの人々を苦しめるこのような状況は、人間の尊厳を損ない、そこから、国際社会の真の意味での調和のとれた発展を危険にさらすからです。それゆえわたしは貧困の原因と、貧困がもたらす悲惨な結果を根絶するためにますます努力してくださるよう促します」。
『世界貧困撲滅のための日』はヨゼフ・レシンスキ神父(1917-1988年)によって1987年10月17日に始められました。国連も1992年から『貧困撲滅のための国際デー』を行っています。国連によれば世界では1日1ドル未満で生活することを強いられている絶対的貧困人口が約9億8千万人います。
なお、謁見の最後に、教皇は、来る11月24日(土)の王であるキリストの祭日の前晩に23名の新枢機卿の親任を行うことを発表しました。教皇の新枢機卿任命発表のことばの訳は、別途以下に掲載します。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 今日の午前中、わたしは皆様にヴェルチェリの聖エウセビオ(Eusebius Vercellensis 4世紀初頭-371年)について考えていただきたいと思います。ヴェルチェリの聖エウセビオは確実に知られている北イタリアの最初の司教です。4世紀初めにサルデーニャに生まれたエウセビオは、まだ若いときに家族とともにローマに移り住みました。その後エウセビオは朗読者となります。こうして彼はローマの聖職者の一人となりました。当時教会はアレイオス派の異端によって大きな試練にさらされていました。エウセビオは345年にヴェルチェリ司教に選ばれます。これは彼が多くの人から尊敬されていたことを示します。新司教エウセビオはただちにヴェルチェリにおける福音宣教活動を開始しました。ヴェルチェリは特に地方においていまだに大部分の人が異教徒だったからです。聖アタナシオ(Athanasios 295頃-373年)――アタナシオは東方教会における修道制の創立者であるアントニオスについての伝記『聖アントニオス伝』(Vita Antonii)を書きました――から霊感を受けて、エウセビオはヴェルチェリに、修道共同体に似た司祭の共同体を創立しました。この修道院は北イタリアの聖職者を使徒的聖性によってはっきりと性格づけ、有名な司教たちにも影響を与えました。たとえば、エウセビオの後継者であるリメニウス(Limenius 在位371-396年)とホノラトゥス(Honoratus 397年以降没)、ノヴァーラのガウデンティウス(Gaudentius 418年没)、トルトナのエクスペランティウス(Exuperantius 381年頃活動)、アオスタのエウスタシウス(Eustasius 471年頃活動)、イヴレアのエウロギウス(Eulogius 451年頃活動)、トリノのマクシムス(Maximus 408/423年没)です。これらは皆、教会によって聖人として崇敬されている人々です。
 ニケア公会議の信仰による堅固な教育を受けたエウセビオは、イエス・キリストの完全な神性を全身全霊で擁護しました。ニケア信条はイエス・キリストは父と「同一本質」であると定義したからです。そのためエウセビオは、皇帝の親アレイオス派的政策に反対して、4世紀の偉大な教父、何よりもニケアの正統信仰を主張した聖アタナシオと同盟を結びました。皇帝にとって単純なアレイオス派の信仰のほうが帝国のイデオロギーとして役立ちました。皇帝にとって問題だったのは、真理ではなく、政治的な都合でした。皇帝は帝国を統一するためのきずなとして宗教を利用したのです。しかしエウセビオを初めとする偉大な教父たちは真理を擁護することによって政治の支配に抵抗しました。そのためエウセビオは、東方教会と西方教会の他の司教たちと同じように追放されました。たとえば、アタナシオ、ポワティエのヒラリオ(ヒラリオについては先週お話ししました)、またコルドバのオシウス(Ossius Cordubensis 257頃-357/358年頃)のようにです。エウセビオは355年から360年まで過ごした追放先のパレスチナのスキュトポリスで、生涯のすばらしい時を過ごしました。エウセビオはこのスキュトポリスにも弟子の小さなグループの修道院を創立しました。また、ピエモンテの信者と連絡をとりました。これはエウセビオ自身が書いたことが認められている3通の『書簡』(Epistulae)の第2書簡によく示されています。360年以降、エウセビオは続いてカッパドキアと(エジプトの)テーベに追放され、そこでひどい身体的な虐待を受けました。361年、皇帝コンスタンティウス二世(Flavius Julius Constantius II在位337-361年)が死に、「背教者」として知られるユリアヌス(Flavius Claudius Julianus在位361-363年)が帝位を継承しました。ユリアヌスは帝国の宗教としてのキリスト教に興味をもたず、かえって異教を復興することだけを望みました。ユリアヌスは司教エウセビオの追放を解き、エウセビオが司教座に戻ることを許しました。362年、エウセビオはアタナシオの招きでアレキサンドリア教会会議に参加しました。この教会会議は、信徒の身分に戻ることを条件にアレイオス派司教を赦すことを決定しました。エウセビオはそれから死ぬまでの10年間、司教職を果たすことができました。そして彼はヴェルチェリの町と模範的な関係を築きました。それは北イタリアの他の司教たちの司牧的奉仕に霊感を与えました。たとえば、わたしたちがこれからの講話で扱うことになる、ミラノのアンブロジオ(Ambrosius Mediolanensis 339頃-397年)やトリノのマクシムスなどです。
 ヴェルチェリ司教エウセビオとヴェルチェリの町の関係は2通の書簡が何よりも示します。第1のものはすでに挙げた書簡です。この書簡をエウセビオは追放先のスキュトポリスから「喜ばしい兄弟と愛する司祭、そしてヴェルチェリ、ノヴァーラ、イヴレア、トルトナの、信仰を堅く保っている聖なる人々に」(『第2書簡』:Epistula secunda, CCL 9, p. 104)送りました。よい牧者が自分の群れに語りかけるときの感動を示す、この冒頭のことばは、手紙の終わりのことばに対応しています。そこではヴェルチェリのすべての子らに対する父からの温かいあいさつが愛情と愛にあふれることばでつづられます。何よりも「聖なる人々」(sanctae plebes)と司教を結ぶはっきりとしたきずなに注目しなければなりません。この「聖なる人々」はヴェルチェリ(Vercellae)――ヴェルチェリはピエモンテの最初の、また長い間唯一の教区でした――だけでなく、ノヴァーラ、イヴレア、トルトナの「聖なる人々」も含みました。すなわちそれは、ある種の実質と自立を有するようになった教区全体のキリスト教共同体です。もう一つの興味深い要素が手紙の結びの別れのあいさつに見られます。エウセビオは自分の子らに、「教会の外にいて、わたしたちを愛することを望む人々にも」(etiam hos, qui foris sunt et nos dignantur diligere)あいさつしてくれるようにと願います。これは、司教のヴェルチェリとの関係が、キリスト信者に限られず、教会の外の人にまで及んでいたことを明らかに示します。教会外の人も、ある程度司教の霊的な権威を認め、この模範的な人を愛していたからです。
 司教エウセビオとヴェルチェリの独特な関係を示す第2の証言は、ミラノの聖アンブロジオが、エウセビオの死から20年以上経った394年頃、ヴェルチェリのキリスト信者に送った手紙に見られます(『書簡集以外の手紙』:Epistulae extra collectionem 14, Maur. 63)。ヴェルチェリの教会は困難な時に遭遇していました。教会は分裂し、司牧者もいませんでした。アンブロジオは遠慮なくいいます。自分は彼らの内に「聖なる父祖の子孫である」ヴェルチェリを認めることができないと。この聖なる父祖は「エウセビオを見るやいなや、前もってこの人を知らなかったにもかかわらず、また自分たちの町の人間を差し置いて、エウセビオを選びました」。同じ手紙の中でミラノの司教アンブロジオは、エウセビオに対する尊敬の念をはっきりと示します。彼はきっぱりといいます。エウセビオは「全教会から選ばれるにふさわしい偉大な人」だと。エウセビオに対するアンブロジオの賛嘆は、何よりも、エウセビオが自分の教区を自らの生き方のあかしによって統治したことに基づいています。「エウセビオは簡素な生活と断食によって自らの教会を統治しました」。実際アンブロジオは、自らが認める通り、神への観想という修道的理想に引きつけられました。エウセビオはこの理想を預言者エリヤの跡に従って追求しました。アンブロジオはいいます。ヴェルチェリの司教エウセビオは、まず初めに自分の司祭を集めて「共住生活」(vita communis)を行わせました。そして、「町のただ中に住んでいるにもかかわらず、修道規則を守ることを」彼らに教えました。司教と司祭は同じ町の人々が抱えるさまざまな問題を共有しなければなりませんでした。けれども彼らは同時に別の国、すなわち天の国(ヘブライ13・14参照)の住人であろうと努めることによって、信頼の置ける仕方で生活しました。こうして彼らは真の市民としてのあり方、すなわちヴェルチェリの町の人との共通の連帯を本当の意味で築きました。
 こうしてエウセビオは、ヴェルチェリの「聖なる人々」(sancta plebs)の問題に取り組みながら、町のただ中で修道士のように暮らしました。そしてこの町の心を神へと開きました。ですから、このような態度がエウセビオの模範的な司牧的活動から何かを取り去ることはけっしてありませんでした。中でもエウセビオはヴェルチェリにいくつかの小教区教会を設立しようとしたように思われます。それは、秩序ある安定した教会の奉仕を行うためでした。またエウセビオは地方の異教を信じる人々の回心のためにマリアの巡礼聖堂を建てました。さらにエウセビオの「修道的な態度」は、司教エウセビオとヴェルチェリの関係に独特な性格を与えました。イエスが最後の晩餐で彼らのために祈った使徒と同じように、教会の司牧者と信者は「世に残り」(ヨハネ17・11)ますが、「世に属して」はいません。だから、エウセビオが思い起こさせてくれるように、司牧者は信者にこう勧めなければなりません。この世の国を永遠の住みかと思わず、来るべき国、すなわち最終的な、天のエルサレムを求めなさいと。こうした「終わりの日への期待」によって、司牧者と信者は、時の流行や支配的な政治権力の不正な要求に従うことなく、公正な価値の秩序を守ることができます。エウセビオの全生涯はこう語っていると思われます。真の価値の秩序は昨日や今日の皇帝に由来するのではなく、イエス・キリストに由来します。イエス・キリストは神性において父と等しい完全な人間であるとともに、わたしたちと同じような人間だからです。この価値の秩序を指し示しながら、エウセビオはうむことなく「あらゆる配慮をもって信仰を守り、調和を保ち、絶えず祈る」よう信者に「熱心に勧め」ました(前掲『第2書簡』)。
 親愛なる友人の皆様。わたしもこの永遠に価値あるものを皆様に心から勧めます。そして、聖なる司教エウセビオが『第2書簡』の結びに述べたのと同じことばで皆様にあいさつし、祝福を与えます。「わたしの兄弟姉妹、息子と娘、男女・老若のすべての信者の皆様にごあいさつ申し上げます。・・・・皆様がわたしのあいさつを、教会の外にいて、わたしたちを愛することを望む人々にも伝えてくださいますように」(同)。

略号
CCL=Corpus Christianorum Series Latina

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