教皇ベネディクト十六世の降誕祭ミサ説教

12月25日(月)午前0時から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は主の降誕の夜半のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2・6-7参照)。このことばは、耳にするたびにわたしたちの心を打ちます。天使が前もってナザレで告げていた時が来ました。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な人になり、いと高きかたの子といわれる」(ルカ1・31)。それはイスラエルが何世紀もの間、長い暗闇の中で待ち望んでいた時でした。ある意味でそれは、全人類が、あいまいな形であれ、待ち望んでいた時でした。そのとき、神はわたしたちを心にかけてくださいます。隠れていた神が現れます。世界がいやされ、神は万物を新たにします。わたしたちはマリアがどれほどの心の準備をもって、すなわちどれほどの愛をもってこの時を迎えたかを想像することができます。「布にくるんで」という短いことばによって、どれほど聖なる喜びと静かな熱意をもって、この準備がなされたかをかいま見ることができます。幼子をきちんと迎えることができるように、幼子をくるむ布は用意されていました。けれども宿屋には泊まる場所がありませんでした。人類はある意味で神を待ち望んでいます。神が来てくださることを待ち望んでいます。しかし、その時が来ると、神が泊まる場所がありません。人はあまりにも自分のことばかり考え、あらゆる空間と時間を自分のことのために必要としています。そのため自分以外の隣人、貧しい人、そして神のために場所が残りません。人は豊かになるほど、自分自身のことでいっぱいになり、他の人が入る場所がなくなります。
 聖ヨハネは福音書の中で、ベツレヘムの状況に関する聖ルカの短い記事を深めることによって、ことがらの本質的な意味を述べます。「ことばは、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1・11)。これは何よりもまずベツレヘムのことを指します。ダビデの子は自分の町に来ましたが、馬小屋で生まれなければなりませんでした。宿屋には彼が泊まる場所がなかったからです。後にこれはイスラエルのことを指します。神から遣わされた者は自分の民のところに来ますが、民は彼を受け入れませんでした。実際、これは全人類のことを指します。世を造られたかた、世の初めからおられた造り主であるみことばが世に来られたのに、世はこのかたに耳を傾けもしなければ、このかたを迎え入れることもありません。
 このことばは究極的に、すべての個人と社会全体を含めた、わたしたちのことを指します。わたしたち、すなわち、わたしのことば、わたしの愛情を必要としている隣人。助けを必要とする苦しむ人。住むところを求める避難民や難民――わたしたちには、これらの人のための時間があるでしょうか。わたしたちには神のための時間と場所があるでしょうか。神はわたしたちの人生に入って来ることができるでしょうか。神はわたしたちのところに場所を見いだすでしょうか。それとも、わたしたちのすべての場所は、自分の思い、行動、自分のための人生でふさがれているでしょうか。
 有難いことに、この消極的な記事は、わたしたちが福音書に見いだす唯一のものでも、最後のものでもありません。ルカによる福音書の中で、わたしたちは、母マリアの愛と、聖ヨセフの忠実さ、目を覚ましていた羊飼いたちとその大きな喜びに出会います。マタイによる福音書の中で、わたしたちは遠くから来た知恵ある占星術の学者の訪れに出会います。それと同じように、ヨハネによる福音書はわたしたちに向かって述べます。「しかし、ことばは、自分を受け入れた人・・・・には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1・12)。みことばを受け入れた人もいました。それゆえ、外の馬小屋から始まって、新しい家、新しい国、新しい世が沈黙のうちに成長します。降誕祭の知らせはわたしたちに、閉ざされた世界の暗さを認識させます。そして、わたしたちが日々目にしている現実をはっきりと示します。けれども降誕祭の知らせはまた、神が外に締め出されたままではないことを語ります。たとえ馬小屋から入ることになったとはいえ、神は一つの場所を見つけます。神の光を見て、それを伝える人々もいました。福音のことばを通して、天使はわたしたちにも語りかけます。聖なる典礼の中で、あがない主の光がわたしたちの生活の中に射し込みます。羊飼いであれ、賢者であれ、光とその知らせはわたしたちに呼びかけます。歩み始めなさい。自分の閉ざされた望みや関心から出て行きなさい。出かけて行って、主に向かって歩み、主を拝みなさいと。わたしたちは主を拝むために、世界を真理へと、善ヘと、キリストへと開かなければなりません。除け者にされた人々に奉仕しなければなりません。キリストは、この除け者にされた人々の中でわたしたちを待っているからです。
 中世後期や近世初期の一部の降誕祭の画像では、馬小屋が朽ち果てた宮殿として描かれます。今なおかつての栄華を偲ぶことはできるものの、今や宮殿は廃墟となり、壁は崩れています。そしてまさに馬小屋になっています。これは史実に基づくものではありませんが、にもかかわらず、この象徴的な解釈は、降誕祭の神秘に隠されたある真実を表します。永遠に続くと約束されたダビデの王座は空位となり、他国の人が聖地を治めています。ダビデの子孫であるヨセフは職人にすぎません。実際、宮殿はあばら屋となりました。ダビデ自身も初めは羊飼いでした。サムエルが油を注ぐためにダビデを見つけたとき、単なる牧童がイスラエルへの約束を果たす者となることは、不可能かつ不条理に思われました。ダビデ王朝発祥の地であるベツレヘムの馬小屋で、ダビデ王朝は新しいしかたで再出発します。それは、布にくるんで飼い葉桶に寝かされた幼子から再出発しました。このダビデが世界を自分のところに引き寄せた新しい王座は、十字架です。新しい王座である十字架は、馬小屋からの新しい始まりに対応します。けれども、こうして真のダビデの宮殿、すなわち真の王朝が築かれました。この新しい宮殿は、人々が思い描いていた宮殿や王権とは異なりました。それは、キリストの愛に引き寄せられ、キリストとともに一つのからだ、すなわち新しい人類となった人々の共同体です。十字架から生まれる力、自分を与えるいつくしみの力――これが真の王権です。馬小屋は宮殿になります。そしてこの始まりから出発して、イエスは大きな新しい共同体を築きます。イエスが生まれたとき、天使たちはこの共同体の鍵となることばを歌います。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、み心にかなう人にあれ」。み心にかなう人とは、自分の意志を神にゆだね、そこから、神の人、新しい人、新しい世となる人のことです。
 ニュッサのグレゴリオ(335頃-394年)は、降誕祭の説教の中で、ヨハネによる福音書の降誕の知らせから出発して、同じ情景を詳しく述べました。「ことばは肉となって、わたしたちの間に幕屋を張られた」(ヨハネ1・14)。グレゴリオはこの幕屋についてのことばを、わたしたちのからだの幕屋にあてはめます。わたしたちのからだという幕屋は、すり切れて弱くなっています。からだは至るところが痛みと苦しみを感じています。またグレゴリオはこのことばを全宇宙にあてはめます。全宇宙は罪によって引き裂かれ、ゆがんでいます。グレゴリオが、エネルギーの浪費や、その利己的で無責任な利用によってもたらされた現代の世界の状態を見たら、何というでしょうか。カンタベリーのアンセルモ(1033/1034-1109年)は、現代のわたしたちが目にしている、汚染され、未来が危険にさらされた世界を、いわば預言のように先取りして述べます。「万物は死んだようになり、神をたたえる者たちに奉仕するよう造られた、その尊厳を失いました。世界の諸要素はしいたげられ、その輝きを失いました。人々がそれらを自分たちの偶像に仕える奴隷としたからです。しかし、世界の諸要素はこのような偶像のために造られたのではありません」(PL 158, 955s.)。それゆえ、グレゴリオの述べる情景によれば、降誕の知らせの馬小屋は、乱用された世界を表します。キリストが再建する宮殿は、ただの宮殿ではありません。キリストは、被造物すなわち全宇宙にその美と尊厳を回復させるために来られました。これこそ、降誕祭が始めたことです。そのために天使は喜んだのです。地は秩序を回復しました。それは、地が神に開かれたものとなったからです。その真の光を取り戻したからです。人間の意志と神のみ心が一致し、天と地が一つとなることによって、地が美と尊厳を回復したからです。だから降誕祭は、被造物の復興を祝う祭です。このような文脈から、教父は聖夜の天使の歌声の意味を解釈しました。いと高きところと低いところ、天と地が再び一つとなり、人間が再び神と結ばれました。天使の歌声はその喜びを表しているのです。教父によれば、天使たちの降誕の賛歌の意味はこうです。今や天使と人はともに歌うことができます。そして美しい宇宙は、美しい賛美の歌声によって表されます。また教父によれば、典礼の賛歌が特別な品位をもつのは、わたしたちが天上の歌隊とともに歌うからです。典礼の賛歌はイエス・キリストとの出会いです。この出会いによって、わたしたちは天使の歌声を聞くことができるようになるからです。こうして真の音楽が造られます。しかし、わたしたちが天使とともに歌い、天使とともに耳を傾けることをやめるなら、この真の音楽は失われます。
 ベツレヘムの馬小屋で天と地が出会います。天は地上に下ります。だから、すべての時代のすべての人に光が注がれます。喜びが湧き上がります。歌声が生まれます。この降誕祭の黙想の終わりに、聖アウグスチヌスのすばらしいことばを引用したいと思います。「天におられるわたしたちの父よ」という主の祈りの祈願を解釈しながら、聖アウグスチヌスは問いかけます。天とは何でしょうか。また、天はどこにあるのでしょうか。続いて驚くべき答えが示されます。「天におられるとは、聖人と正しい人のうちにおられるという意味です。たしかに天は宇宙のもっとも高いところにある物体です。けれどもそれはあくまでも物体であって、場所のうちにでなければ存在できません。しかし、神のおられる場所が、世界のもっとも高いところとしての天であると信じるなら、鳥はわたしたちよりも幸いなものとなります。鳥はわたしたちよりも神に近いところで暮らしているからです。しかし、『主は高いところや山上に住む人に近くいます』とは書かれておらず、反対に、こう書かれています。『主は打ち砕かれた心に近くいます』(詩編34・19)。打ち砕かれた心とは、謙遜な心を表します。罪人が『地』と呼ばれるように、逆に、正しい人を『天』と呼ぶことができるのです」(『主の山上のことば』:De sermone Domini in monte II, 5, 17)。天は空間的な意味での場所を表すのではなく、心の場所を表します。聖なる夜、神の心は馬小屋に降りました。天とは神のへりくだりです。このへりくだりに向かって歩むなら、わたしたちは天に触れます。地も新たにされます。この聖なる夜、謙遜な羊飼いたちとともに、馬小屋の幼子に向けて出かけようではありませんか。神のへりくだりに、神の心に触れようではありませんか。そうすれば、神の喜びがわたしたちに触れ、世をもっと輝かせてくれることでしょう。アーメン。

略号
PL Patrologia Latina

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