教皇ベネディクト十六世のワールドユースデー・シドニー大会の前晩の祈りの講話

2008年7月19日(土)午後7時から、オーストラリア・シドニーのランドウィック競馬場で、教皇ベネディクト十六世の司式により、第23回ワールドユースデー・シドニー大会の前晩の祈りが行われました。前晩の祈りには23万5千人 […]

2008年7月19日(土)午後7時から、オーストラリア・シドニーのランドウィック競馬場で、教皇ベネディクト十六世の司式により、第23回ワールドユースデー・シドニー大会の前晩の祈りが行われました。前晩の祈りには23万5千人以上の青年が参加しました。以下に訳出するのは、教皇の講話の全文です。教皇の講話は、英語で行われ、終わりにイタリア語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、中国語であいさつが行われました。前晩の祈りは、聖体礼拝でしめくくられました。


親愛なる若者の皆様。
  今晩、わたしたちはあらためてキリストの偉大な約束を耳にしました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」。また、わたしたちは、「世界中で、わたしの証人となりなさい」というキリストの招きを耳にしました(使徒言行録1・8)。これはイエスがまさに天に上げられる前に述べた最後のことばです。使徒たちがこのことばを聞いてどう感じたか、わたしたちは想像することしかできません。しかし、わたしたちは知っています。使徒たちが抱いたイエスへの深い愛を。イエスのことばに対する信頼を。このイエスのことばに促されて、使徒たちは集まって、待ちました。彼らはあてもなく待ったのではありませんでした。上の部屋に、婦人たちやマリアとともに集まって、一緒に祈ったのです(使徒言行録1・14参照)。今晩、わたしたちは同じことをします。わたしたちは、長い旅をしてきた十字架とマリアのイコンの前に集まり、輝く南十字星の下で祈ります。今晩、わたしは皆様と、世界中の若者のために祈ります。皆様が、ご自分の守護聖人の模範に力づけられますように。聖霊の七つのたまものを皆様の心と思いに受け入れることができますように。皆様の生涯の中で聖霊の力を知り、信じることができますように。
  わたしは別の日(7月17日)に、神の被造物の一致と調和、そして、被造物の中にわたしたちが置かれた位置についてお話ししました。わたしたちは思い起こしました。神の像と似姿に従って造られたわたしたちが、偉大な洗礼のたまものによって新たに生まれたことを。わたしたちが神の養子とされ、新しい被造物となったことを。こうしてわたしたちは――今、皆様が手にしている、火をともしたろうそくが示すように――キリストの光の子として、現代世界の中で、暗闇が打ち勝つことのできない輝きをあかしします(ヨハネ1・5参照)。
  今晩、わたしたちは「どのようにして」証人となるかに目を向けます。わたしたちは聖霊がいかなるかたであり、聖霊の現存がわたしたちの人生を生かしてくださることを理解しなければなりません。これは簡単にわかることではありません。実際、聖書の中では、風、炎、息など、聖霊に関するさまざまな表現が見られます。これはわたしたちが聖霊についての理解を表そうとする努力を示します。しかし、わたしたちは知っています。沈黙し、目に見えなくても、聖霊は、わたしたちが行うイエス・キリストのあかしを方向づけ、明確にしてくれるということを。
  皆様がすでによくご存じのように、わたしたちキリスト信者のあかしは、さまざまな意味で壊れやすい世界に向けてなされます。神の被造物の一致は、さまざまな傷によって弱められています。これらの傷は、人間関係が壊れたり、人の心が人格の搾取や虐待によって押しつぶされそうになるときに、とくに深まります。実際、現代社会は、本質的に目先のことしか見ないものの考え方によってばらばらになっています。現代社会は真理の全体を見ようとしないからです。神とわたしたちに関する真理を見ようとしないからです。相対主義は、本質的に全体像を見ることができません。相対主義は、わたしたちが一致と秩序と調和のうちに生き、繁栄することができるようにしてくれる原理そのものを無視するのです。
  キリストの証人であるわたしたちは、分裂し、ばらばらになった世界にどうこたえるのでしょうか。これらのさまざまな紛争、苦しみ、緊張の「留」に、どうすれば希望といやしと一致への希望を与えることができるでしょうか。皆様はこれらの「留」を通って、ワールドユースデーの十字架とともに歩むことを選ばれました。一致と和解は、わたしたちの努力だけで得られるものではありません。神はわたしたちを互いのためにお造りになりました(創世記2・24参照)。そしてわたしたちは、神と教会と結ばれることによって初めて、求めている一致を見いだすことができます。けれども、個人としても組織としても、不完全で、がっかりさせられるさまざまなものを目にして、わたしたちはときとして人為的に「完全な」共同体を造ろうとする誘惑に陥ります。このような誘惑は新しいものではありません。教会史の中にも、完全な一致、すなわち霊的なユートピア(理想郷)を造るために、人間の弱さや失敗を省略したり、飛び越えようとした、たくさんの例があります。
  一致を築こうとするこうした試みは、実際には一致を滅ぼすものです。教会の制度的な構造の中におられるキリストから聖霊を切り離すなら、キリスト信者の共同体の一致を台なしにすることになります。キリスト信者の共同体の一致こそが、聖霊のたまものだからです。教会の制度的な構造の中におられるキリストから聖霊を切り離すなら、聖霊の生きた神殿である教会の本質を裏切ることになります(一コリント3・16参照)。実際、聖霊は教会をまったき真理に導き、交わりと奉仕のうちに教会を一つにまとめます(第二バチカン公会議『教会憲章』4参照)。残念ながら、「わが道を行く」ことへの誘惑がつねに存在します。現代のある人は、自分の地域共同体はいわゆる制度的教会と違うことを示します。自分の地域共同体は霊に対して柔軟で開かれているのに対し、制度的教会は融通がきかず、霊に欠けているというのです。
  一致は教会の本質に属します(『カトリック教会のカテキズム』813参照)。一致はわたしたちが認め、大切にしなければならないたまものです。今晩わたしたちは、一致を深めようとする決意が与えられるように祈りたいと思います。一致のために役立つ者となろうではありませんか。分裂への誘惑に抵抗しようではありませんか。なぜなら、わたしたちが現代世界に与えることができるのは、わたしたちの信仰の包括性であり、広いものの見方だからです。わたしたちの信仰は堅固なものですが、開かれています。一貫していますが、止まっていません。真実ですが、つねに理解を深めています。親愛なる若者の皆様。困難を抱えている友人、人生の意味を探求している友人が皆様に目を向けるのは、皆様がもっている信仰のためではないでしょうか。目を覚ましてください。耳を傾けてください。現代世界の不和や分裂の中に、皆様は人類の一致した声を聞くことができるでしょうか。ダルフールの難民キャンプの見捨てられた子どもたち、苦しむ十代の少年たち、郊外に住む悩める親たち、あるいは、今も皆様自身が心の奥底から、承認、帰属、一致を求める叫び声を上げています。一致したい、交わりに加わりたい、成長したい、真理に導かれたいという、人間の根本的なあこがれを満たすのはだれでしょうか。それは聖霊です。キリストのわざを実現すること。これが聖霊の役割です。聖霊のたまもので満たされるなら、皆様は断片的なものや、空虚なユートピアや、はかないものを乗り越えて、一貫した、確かな形でキリストのあかしを行う力を得るのです。
  友人の皆様。信条を唱えるとき、わたしたちはこういいます。「わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を」。「造り主である聖霊」は、すべての被造物にいのちを与える神の力であり、キリストと結ばれた新しい豊かないのちの源です。聖霊は、主と一致し、使徒の聖伝に忠実に従うことができるように教会を支えます。聖霊は聖書に霊感を与え、神の民を完全な真理にまで導きます(ヨハネ16・13参照)。これらすべての意味で聖霊は「いのちの与え主」であり、わたしたちを神のみ心にまで導きます。ですから、聖霊に方向づけていただけばいただくほど、わたしたちはより完全なしかたでキリストに似たものとなり、より深く三位一体の神のいのちと一致するようになります。
  このようにして神の本性にあずかること(二ペトロ1・4参照)は、わたしたちの生活のあらゆる瞬間に起こります。聖霊はいつもわたしたちの生活の中に住まわれるからです(バルク3・38参照)。しかしながら、ときとしてわたしたちは、神から離れてある種の完成を求める誘惑に駆られます。イエスご自身も十二人に尋ねました。「あなたがたも離れて行きたいか」。もしかすると、このような離反は自由の幻想をもたらすかもしれません。しかし、そこからわたしたちはどこへ導かれるでしょうか。わたしたちはだれのもとに行くことになるでしょうか。わたしたちは心のうちで知っているからです。「永遠のいのちのことば」をもっておられるのは主だということを(ヨハネ6・67-68)。主から離れることは、自分自身から逃れる空しい試みにすぎません(聖アウグスチヌス『告白』:Confessiones VIII, 7参照)。神は現実の人生の中でわたしたちとともにおられるのであり、幻想の中におられるのではありません。わたしたちが求めるのは、神から逃れることではなく、神にとらえられることです。そこで聖霊は、優しく、しかし確かなしかたで、わたしたちを、現実的で、変わることなく、真実なものへと連れ戻します。聖霊は、わたしたちを聖なる三位一体との交わりへと再び導いてくださるのです。
  ある意味で聖霊は、聖なる三位一体の中であまり顧みられることのないかたです。聖霊をはっきりと理解することは、わたしたちの力をほとんど超えているように思われます。しかし、わたしが小さな子どもだったとき、両親は、皆様のご両親と同じように、わたしに十字架のしるしを教えてくれました。そこでわたしはすぐに、三つのペルソナ(位格)のうちに唯一の神がおられること、そして、三位一体はわたしたちのキリスト教信仰と生活の中心だということを知りました。大きくなると、わたしは神が父と子であること――これらの名はすでに相当の意味をもっていましたので――はある程度わかるようになりましたが、三位一体の第三の位格についての理解は不完全なままでした。そこで、若い司祭として神学を教えていたとき、わたしは教会史における聖霊に関する優れた証人たちを研究しようと決意しました。この研究の歩みの中で、わたしは何よりも偉大な聖アウグスチヌス(354-430年)を読みました。
  アウグスチヌスの聖霊理解は少しずつ発展しました。それは一つの戦いでした。青年のとき、アウグスチヌスはマニ教を信じました。マニ教は、わたしがすでに述べた、霊的なことがらを肉体的なことがらから徹底的に分離して、霊的なユートピアを造ろうとする試みの一つです。そのためアウグスチヌスは最初、神が人となったというキリスト教の教えに疑いを抱きました。しかしアウグスチヌスは、教会の中に神の愛があることを経験することによって、この愛の源泉を三位一体の神のいのちのうちに探究するようになりました。そこからアウグスチヌスは、聖なる三位一体における一致のきずなである聖霊に関する、三つの特別な洞察へと導かれました。すなわち、交わりとしての一致、とどまる愛としての一致、そして、与え、与えられたたまものとしての一致です。この三つの洞察はたんなる理論的な洞察ではありません。それは聖霊がどのようにわざを行われるかを説明してくれます。個人も共同体もしばしば一致と団結の不在によって苦しんでいる世界において、これらの洞察は、わたしたちが聖霊と一致し続け、自分たちがあかししようとする領域を広め、照らすための助けとなります。
  そこで、アウグスチヌスの助けによって、聖霊のわざについて少しでも明らかにしてみたいと思います。アウグスチヌスは、「聖」と「霊」という二つのことばが神の神性を表しているといいます。いいかえると、この二つのことばは、父と子が共有するもの、すなわち父と子の「交わり」を表します。聖霊の際立った特徴は、父と子が「共有する」ものであるところにあります。そこからアウグスチヌスは、聖霊の特別な性質は「一致」であると結論づけます。この「一致」は、生きた交わりの一致です。すなわち、絶えず与え合う関係にあるペルソナどうしの一致です。父と子は互いに自らを与え合うからです。思うに、わたしたちは、このように一致、交わりとして聖霊を理解することがどれほどわたしたちを照らしてくれるかを、かいま見始めます。他の人格が同じ尊厳をもつことを否定する関係を、真の一致の基盤とすることはけっしてできません。一致は、さまざまな集団のたんなる総和でもありません。わたしたちはときとしてこのような集団の総和によって自分を「定義」しようと試みるのですが。実際、交わりを生きることによって初めて、一致は支えられ、人間にふさわしいあり方が完全に実現します。すなわち、わたしたちは、皆が神を必要としていることを認めます。ともにいて一致をもたらす聖霊にこたえます。そして、互いに奉仕し、自分を与え合います。
  アウグスチヌスの第二の洞察――すなわち、聖霊はとどまる愛であるということ――は、聖ヨハネの手紙一を研究することから生まれました。ヨハネは「神は愛です」(一ヨハネ4・16)といいます。アウグスチヌスはこう考えます。このことばは三位一体全体について述べているものの、聖霊の特別な性格を表します。愛の永続的な性格を考察しながら――「愛にとどまる人は、神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます」(同)――、アウグスチヌスは問いかけます。とどまらせてくださるのは、愛でしょうか、それとも聖霊でしょうか。アウグスチヌスが到達した結論はこれです。「聖霊がわたしたちを神のうちにとどまらせ、神をわたしたちのうちにとどまらせるのです。ところでこのようにするものは愛です。それゆえ、聖霊は愛である神です」(『三位一体論』:De Trinitate 15, 17, 31〔加藤信朗・上村直樹訳、上智大学中世思想研究所編訳・監修『中世思想原典集成4 初期ラテン教父』平凡社、1999年、1043頁。ただし表記・表現を一部改めた〕)。これはすばらしい説明です。神は聖霊によって、愛であるご自分を分け与えます。この洞察からこれ以上のどんな理解を得ることができるでしょうか。愛は、聖霊がともにいてくださることのしるしです。愛を欠いた考えやことばは――たとえそれがどんなに洗練され、知恵に満ちたものであっても――「霊からの」ものではありません。さらに愛は特別な特徴をもっています。愛は甘いものでもなければ、気まぐれなものでもありません。愛には果たすべき使命ないし役割があります。つまり、とどまるということです。愛は本来、永続的なものです。親愛なる友人の皆様。ここでもわたしたちは、聖霊がどれほど多くのものを現代世界にもたらしてくれるかをさらにかいま見ます。すなわちそれは、不安を消し去る愛です。裏切りへの恐れに打ち勝つ愛です。永遠をもたらす愛です。いつまでもとどまる一致へとわたしたちを引き寄せる真実の愛です。
  アウグスチヌスは第三の洞察――すなわち、聖霊はたまものであるということ――を、わたしたち皆が知り、愛している福音の箇所の考察から得ました。すなわち、井戸のそばでキリストがサマリアの女と行った対話です。この箇所でイエスは、ご自分が生きた水を与える者であることを現します(ヨハネ4・10参照)。後にこの生きた水は聖霊であることが明らかにされます(ヨハネ7・39、一コリント12・13参照)。霊は「神のたまもの」(ヨハネ4・10)であり、うちなる泉です(ヨハネ4・14参照)。この霊がわたしたちの奥底からの渇きをいやし、わたしたちを父へと導きます。このような考察から、アウグスチヌスは次のように結論づけます。ご自身をたまものとしてわたしたちに分け与える神は、聖霊です(『三位一体論』:De Trinitate 15, 18, 32参照)。友人の皆様。ここでもわたしたちは、三位一体のわざをかいま見ます。聖霊はご自身を永遠に与え続ける神です。尽きることのない泉のように、聖霊はご自身そのものを注ぎ出すのです。このような絶えることのないたまものを目にするなら、すべての消え去るものがもつ限界、消費主義的な考え方の愚かしさがわかるようになります。なぜ、目新しいものを捜し求めても、いつまでも満たされず、渇いたままでいるかがわかるようになります。わたしたちは永遠のたまものを、すなわち、なくなることのない泉を捜し求めているのではないでしょうか。サマリアの女とともに叫ぼうではありませんか。渇くことがないように、その水をください(ヨハネ4・15参照)。
  親愛なる若者の皆様。イエス・キリストを信じる人々のすばらしい交わりをもたらしてくださるのは聖霊であることがわかりました。与え主であるとともにたまものであるというご自分の本性に従って、聖霊は今も皆様を通して働き続けておられます。聖アウグスチヌスの洞察に力づけられながら、わたしはいいます。「一致をもたらす愛」を皆様の基準としてください。「とどまる愛」を皆様の課題としてください。「自分を与える愛」を皆様の使命としてください。
  明日、同じ聖霊のたまものが堅信志願者の上に荘厳に与えられます。私は祈ります。「この人々の上に、知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し、敬う心をお与えください。・・・・この人々を驚きとおそれの心で満たしてください」。これらの霊のたまものは――聖フランシスコ・サレジオ(1567-1622年)がいうように、これらのたまものは皆、神の唯一の愛にあずかるための道です――賞でも報いでもなく、無償で与えられたものです(一コリント12・11参照)。これらのたまものは、それを与えられた者にただ一つのこたえを求めます。すなわち、「受け入れます」です。ここにわたしたちは、キリスト信者であることのある種の深い神秘を感じます。わたしたちの信仰をなすものは、まずわたしたちが行うことではなく、わたしたちに与えられるものです。結局のところ、キリスト信者ではない多くの寛大な人々のほうが、わたしたちキリスト信者が行うよりもはるかに多くのことを成し遂げることができるでしょう。友人の皆様。皆様は三位一体の神のいのちに引き寄せられることを受け入れますか。神の愛の交わりに引き寄せられることを受け入れますか。
  わたしたちのうちに働く霊のたまものは、わたしたちのあかしを方向づけ、明確にします。一致へと向かう霊のたまものによって、わたしたちはキリストのからだ全体としっかりと結ばれます(『教会憲章』11参照)。成長して教会を築き、世に奉仕します(エフェソ4・13参照)。霊のたまものは、わたしたちが教会生活に積極的に喜んで参加するよう招きます。小教区や運動団体、学校の要理教室、大学使徒職、その他のカトリック組織などを通じてです。そうです。教会は一致のうちに成長し、聖性によって強められ、若返り、絶えず新たにならなければなりません(『教会憲章』4参照)。しかし、それはどのような基準に基づいて行われるのでしょうか。聖霊の基準に基づいてです。親愛なる若者の皆様。聖霊に向かってください。そうすれば、真の刷新の意味がわかるでしょう。
  今晩、美しい夜空の下に集まったわたしたちの心と思いは、三位一体への信仰という偉大なたまものを与えてくださった神への感謝に満たされます。わたしたちは両親や祖父母のことを思い起こします。彼らは、子どもの頃のわたしたちが信仰の巡礼の旅路の第一歩を踏み出したとき、一緒に歩いてくれたからです。それから長い年月がたって、皆様は青年として、ペトロの後継者とともに集まりました。わたしは、皆様とともにいられることの深い喜びで満たされています。聖霊の恵みを願い求めようではありませんか。聖霊は神のわざを完成なさるかたです(『カトリック教会のカテキズム』741参照)。聖霊のたまものが皆様を形づくってくださいますように。教会は全人類とともに同じ旅路を歩みます。同じように、皆様も日々の生活の浮き沈みの中で、霊のたまものを用いるように招かれています。勉学、仕事、スポーツ、音楽、芸術を通して信仰を深めてください。信仰を祈りによって支え、秘跡によって養ってください。そうして、皆様の周りの人を力づけ、助けてください。最後に、人生とは財産を築くことではありません。人生とは成功以上のものです。真に生きるとは、内面から造り変えられ、神の愛の力に心を開くことです。聖霊の力を受けることによって、皆様も、家庭、共同体、国を変革できます。霊のたまものを解き放ってください。知恵と勇気、神をおそれ敬う心を、皆様の偉大さのしるしとしてください。
  今、静けさと期待のうちに聖なる秘跡の礼拝に向かうにあたり、福者メアリー・マッキロップ(1842-1909年)がわずか26歳のときに語ったことばを皆様に繰り返して申し上げます。「神があなたの心にささやきかけることばを信じてください」。神を信じてください。愛の霊の力を信じてください。

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