2009年「世界難民移住移動者の日」教皇メッセージ

2009年「世界難民移住移動者の日」教皇メッセージ 「移住者であり、『異邦人の使徒』である聖パウロ」  親愛なる兄弟姉妹の皆様   今年の世界難民移住移動者の日のメッセージのタイトルは、「移住者であり、『異邦人の使徒』で […]

2009年「世界難民移住移動者の日」教皇メッセージ
「移住者であり、『異邦人の使徒』である聖パウロ」

 親愛なる兄弟姉妹の皆様
  今年の世界難民移住移動者の日のメッセージのタイトルは、「移住者であり、『異邦人の使徒』である聖パウロ」です。幸運にも今年は、使徒パウロの生誕2000年の機会にその栄光を記念するパウロ年なので、このタイトルといたしました。実際、「移住者として召命を受けた」パウロは様々な文化と福音の狭間で説教し、両者の橋渡しをしました。このことは、今日の移住の動きの中にいる人々が参考にすべき大切な点でもあります。
  サウロはキリキア州のタルソスでユダヤ人移民の家庭に生まれ、ユダヤとギリシャの文化と言語を学び、ローマの文化的背景の恩恵に大いにあずかりました。彼は自分の「伝統」を否定せず、ユダヤ教と律法に敬意と感謝の念を感じていましたが(ローマ9・1―5、10・1、二コリント11・22、ガラテヤ1・13―14、フィリピ3・3―6参照)、ダマスコに向かう道でキリストと出会った後(ガラテヤ1・13―16参照)、何のためらいも迷いもなく新たな使命に身をささげました。「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。」(使徒言行録22・21)という主の命令に、勇気と熱意をもって素直に従ったのです。彼の人生は根底から変わりました(フィリピ3・7―11参照)。イエスが彼自身の存在理由となり、福音に仕えるための使徒的奉献に駆り立てた動機ともなりました。彼はキリスト者の迫害者からキリストの使徒に変わったのです。
  聖霊に導かれ、彼はいかなる労苦も惜しまずに、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ローマ1・16)である福音を、国籍や文化で区別することなくすべての人に告げ知らせました。宣教旅行においては、離散したユダヤ人の同胞にまず目を向け、つねに反対する人々に遭遇しながらも、会堂(シナゴーグ)で福音を告げ知らせ始めました(使徒言行録18・4―6参照)。彼らに拒否された場合には異邦人に語りかけました。御子のうちに「新しく創造された者」(二コリント5・17)になるように、すべての人を招くためです。彼は移住者であり、イエス・キリストによって「全地」に遣わされた使者であると同時に、真の「異邦人のための宣教者」でもありました。
  ケリュグマ(宣教のことば)を告げ知らせるために、パウロは地中海を渡り、ヨーロッパの道々を旅し、ローマに到りました。出発地点であったアンティオキアでは、ユダヤ人以外の人々に福音を告げ知らせました。そこは、キリストの弟子たちが初めて「キリスト者」と呼ばれたところでもあります(使徒言行録11・20、26参照)。その人生と説教のすべては、イエスがすべての人に知られ愛されることに向けられました。すべての人がキリストにおいて一つの民となるように召されているからです。
  国際化が進んだ現代でも、このことは教会とすべての受洗者の使命となっており、細やかな司牧的配慮をもって多様な移住者の世界にも向けられています。そこには、例えば現代の奴隷制と人身売買の犠牲者のような、留学生、移民、難民、国内避難民、その他の避難民などがいます。彼らの社会、文化的背景の相違と、移住者または移動者という境遇のために各自が直面する特別な障壁を考慮しながら、現代においても異邦人の使徒パウロのように救いのメッセージを提示しなければなりません。わたしは、すべてのキリスト教共同体が聖パウロと同じような使徒的情熱を感じるように望みます。パウロはキリストにおいて「何人かでも救うため」(一コリント9・22)に、救いをもたらすおん父の愛(ローマ8・15―16、ガラテア4・6参照)をあらゆるキリスト教共同体に告げ知らせましたが、「弱い人に対しては」自らを弱くしました。そして「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」(一コリント9・22)。わたしたちが兄弟姉妹との連帯を示し、異なる人種、文化、宗教間の平和的共存をあらゆる手をつくして世界中で促進するにあたり、パウロという模範がその励みともなりますように。
  それにしても、異邦人の使徒パウロにはどのような秘密があるのでしょうか。彼は「自分がキリスト・イエスに捕らえられて」(フィリピ3・12)から、イエスと非常に堅く結ばれ、イエスの「苦しみ」(フィリピ3・10、もしくはローマ8・17、二コリント4・8―12、コロサイ1・24参照)にあずかることを通して、イエスと人生を共にしているように感じていました。それゆえに、彼の宣教への熱意と闘士としての情熱は際立っているのです。これが彼の使徒的情熱の源です。聖パウロはいいます。「私を母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤ1・15―16、もしくはローマ15・15―16参照)。彼はキリストと「共に十字架に架けられている」ように感じていたので、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)と言うことができたのです。当時、さまざまな人種と文化が織り交ぜられていたローマやコリントなどの大都市で、パウロはどんな試練を受けても勇敢に福音宣教を続けました。
  使徒言行録とさまざまな人に宛てたパウロ書簡を読むと、教会の模範とは排他的でなく、その反対にすべての人に開かれたものであり、文化や人種を問わず、信者によって築かれたものであることが分かります。一人ひとりの受洗者が、まさに一つのキリストのからだの一部分として生きているからです。この観点からみると、日々の分かち合いの実践、共に参加すること、そして喜びをもって他者を思いやることのうちに表れている兄弟姉妹間の連帯には、独自の重要性があることが分かります。しかし、聖パウロがつねに教えているように、述べ伝えられ実践されるみことば(一テサロニケ1・6参照)に耳を傾け、受け入れる準備ができていなければ、兄弟姉妹が互いに受け入れ合うことはできません。みことばは、キリストに倣う者となるように(エフェソ5・1―2参照)、使徒に倣うものとなるように(一コリント11・1参照)すべての人を促すからです。したがって、共同体はキリストと一つになればなるほど、隣人をより気遣うようになり、批判、軽蔑、中傷を慎み、お互いを受け入れ合うことに自らを解き放つのです(ローマ14・1―3、15・7参照)。キリストと一つになることで、信者はキリストの内に「兄弟」であり、同じ父の息子(ローマ8・14―16、ガラテヤ3・26、4・6参照)であると感じます。この兄弟愛という宝によって、人は「もてなす」(ローマ12・13)ようになります。このもてなしは、アガペ(神の愛)から生ずる最初の行いなのです(一テモテ3・2、5・10、テトス1・8、フィレモン17参照)。  
  「そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる」(二コリント6・17―18)という神の約束は、このように実現します。このことに気付いているなら、どうして苦境や難局にあるすべての人、とりわけ難民と避難民に心を向けずにいられるでしょうか。現実に危険で不安定な状況の中で生活し、社会から取り残され、時には排斥される最も弱く無防備な人々のニーズに、どうして対応せずにいられるでしょうか。何よりもまず彼らに心を向けなければなりません。パウロはそのよく知られた一節に次のように記しています。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(一コリント1・27)。
  兄弟姉妹の皆様、わたしたちを必要とする人、またわたしたちが助けることのできる人はだれでも、わたしたちの隣人なのです(回勅『神は愛』15参照)。この確信のもと、2009年1月18日に祝われる世界難民移住移動者の日にあたり、すべての人が区別や差別をすることなく心から兄弟愛に生きるよう促されますように。偉大でありながら謙虚な使徒であり、移住者であり、諸国民と諸文化のための福音宣教者である聖パウロの教えと模範に促され、愛の実践はキリスト者の全生活の頂点であり、またその全生活を統合していることを、わたしたちが理解できますように。
  ご存知のように、キリストに従う人々が結ばれ、兄弟姉妹間のきずなと愛の至聖なる秘跡である感謝の祭儀の食卓にあずかるときに、愛のおきてがはぐくまれます。そして、最後の晩餐で感謝の祭儀のたまものに兄弟愛という新たなおきてを加えられたイエスとまさに同じように、キリストの「友」もまた、自ら人間の「しもべ」となられたイエスの足跡をたどり、その恵みに支えられて、心から奉仕し合い、お互いを気遣わずにはいられません。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」(ガラテヤ6・2)という聖パウロの願いにこたえているのです。これこそが、信者間とすべての人々への愛を満ちあふれさせる手だてです(一テサロニケ3・12参照)。
  兄弟姉妹の皆様、熱意をもって、この「良き知らせ」を絶えず告げ知らせ、あかししましょう。恐れたり、労苦を惜しんだりしてはなりません。すべての福音のメッセージは愛に集約されています。そして、真のキリスト者は互いに愛し合い、すべての人を受け入れることによって認められるのです。
  使徒パウロ、そしてとりわけ神のみ旨を受け入れた愛の母マリアによって、わたしたちがこのたまものを得ることができますように。移住者、さらには移住というより広大な世界の助けとなるために尽力されているすべての人々を、神がお守りくださるよう祈ります。わたしは祈りの中で皆様一人ひとりを思いおこします。そして、愛のうちにすべての人に使徒的祝福を送ります。

2008年8月22日
カステル・ガンドルフォにて
教皇ベネディクト十六世

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