教皇ベネディクト十六世の世界代表司教会議第12回通常総会開会ミサ説教

2008年10月5日(日)午前9時30分から、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世司式の下、世界代表司教会議第12回通常総会開会ミサが行われました。ミサは52名の枢機卿、14名の東方教会代表者 […]

2008年10月5日(日)午前9時30分から、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世司式の下、世界代表司教会議第12回通常総会開会ミサが行われました。ミサは52名の枢機卿、14名の東方教会代表者、45名の大司教、130名の司教、85名の司祭(うちシノドス参加教父12名、シノドス事務総局スタッフ5名、オブザーバー30名、専門家5名、広報担当者4名、アシスタント24名、通訳5名)が共同司式しました。以下に訳出するのは、教皇がミサで行った説教の全文です(原文はイタリア語)。
10月5日は年間第27主日で、聖書朗読箇所は、イザヤ書5・1-7、フィリピの信徒への手紙4・6-9、マタイによる福音書21・33-43でした。


  預言者イザヤの書からとられた第一朗読は、マタイによる福音書の箇所と同じように、わたしたち会衆に聖書の意味深い象徴的なたとえを示します。それは、すでに以前の主日に朗読された、ぶどう畑のたとえです。福音書の物語の最初の節は、イザヤ書に見いだされる「ぶどう畑の歌」を参照しています。「ぶどう畑の歌」の背景となっているのは秋の収穫です。このユダヤ教の詩の傑作といえる小さな歌は、イエスの話を聞いていた人々によく知られていたに違いありません。わたしたちは、他の預言者からの引用からもわかるように(ホセア10・1、エレミヤ2・21、エゼキエル17・3-10、19・10-14、詩編80・9-17参照)、この歌から、ぶどう畑とはイスラエルのことだということがわかります。神はご自分のぶどう畑、すなわちご自分の選んだ民を、妻に忠実な夫と同じように心にかけます(エゼキエル16・1-14、エフェソ5・25-33参照)。
  それゆえ、ぶどう畑のたとえは、結婚のたとえと同じように、神の救いの計画を述べています。わたしたちはこれを神と神の民の契約に関する感動的なたとえと考えることができます。福音書の中で、イエスはイザヤの歌を取り上げます。しかしイエスはそれを、自分のことばを聞いている人々と、救いの歴史の新しい時にあてはめます。重点が置かれるのはもはやぶどう畑ではなく、農夫たちです。ぶどう畑の主人の「しもべたち」は、主人に代わって農夫たちから小作料の支払いを求めます。しかし、農夫たちはしもべたちを虐待し、ある人を殺してしまいます。わたしたちは選ばれた民に起きた出来事のことを考えずにいられるでしょうか。そして、神が遣わした預言者たちの運命を思わずにいられるでしょうか。ついにぶどう畑の主人は最後の試みを行います。主人は、農夫たちが息子の話なら少なくとも聞いてくれるだろうと考えて、自分の息子を送ります。しかし、結果はその逆でした。小作人たちは、それが息子、すなわち跡取りであるがゆえに、息子を殺します。そうすれば、ぶどう畑を簡単に自分たちのものにできると考えたからです。こうしてわたしたちは、社会正義が踏みにじられたことへの非難によって、イザヤの歌から質的な飛躍が生じたのを目にします。ここでは、主人が与えた秩序の無視が、主人に対する無視に変わることがわかります。それは単なる神のおきてに対する不従順ではありません。それは真に固有の意味での神に対する拒絶なのです。ここに十字架の神秘が示されます。
  福音書の箇所が明らかにすることは、わたしたちの考え方、行動のしかたに問いかけます。それは、キリストの「時」、すなわち過去の十字架の神秘について語るだけでなく、あらゆる時、あらゆる時代に十字架が存在することを語ります。とくにそれは、福音の告知を受けた人々に問いかけます。歴史を顧みるなら、矛盾したキリスト信者がしばしば冷たく反抗するのを目にせざるをえません。そのため、神は決して救いの約束を破ることがないとはいえ、しばしば罰を与えなければなりませんでした。そこから、わたしたちは自然に福音が最初に告げ知らされたときのことを思い起こします。そのとき、最初の活発なキリスト教共同体が生まれました。後にこの宣教は消えてなくなり、今では歴史の本の中で思い出されるだけになりました。同じことは現代にも見られるのではないでしょうか。今日、かつて信仰と召命に恵まれた国々は、現代のある種の文化の有害かつ破壊的な影響を受けて、自らのあるべき姿を見失っています。ある人々は、「神は死んだ」ことにして、自らが「神」だと宣言します。彼らは自らが自分の運命の唯一の創造者であり、世界の絶対的な主人だと考えます。神から解放され、神に救いを求めない人間は、自分は好きなことを行うことができ、自分が自らと自らの行為の唯一の基準だと考えます。しかし、人間は、自らの視野から神を追い出し、神は「死んだ」と宣言することによって、ほんとうにより幸せになるのでしょうか。自分が自分自身の絶対的な主人であり、被造物の唯一の所有者であることを宣言することによって、人間は、自由と正義と平和が支配する社会を真の意味で築くことができるのでしょうか。毎日のニュースが詳しく示しているように、権力の専横、利己主義的な利害、不正と搾取、あらゆる形態の暴力が拡大し続けているように見えないでしょうか。結局、人間が最終的に行き着く先は、いっそう深まった孤独と、より分裂し、混乱した社会です。
  しかし、イエスのことばには約束が含まれています。ぶどう畑は破壊されません。主人は不忠実な農夫がその定めに赴くがままにします。しかし彼はぶどう畑を見捨てず、それを忠実な農夫にゆだねます。これは次のことを示します。ある地域で信仰が消滅するまでに弱まっても、いつも他の人々が信仰を進んで受け入れます。だからイエスは、詩編118を引用して、わたしたちに約束します。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(詩編118・22)。わたしの死は神の敗北を示すのではない。イエスは殺されても、墓の中にとどまりません。むしろ、完全な敗北と思われたことが、決定的な勝利の始まりを示します。十字架上の恐ろしい受難と死の後に、復活の栄光が訪れます。それゆえ、ぶどう畑はぶどうを作り続けます。そして、主人はそれを「季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに」(マタイ21・41)貸し与えます。
  道徳的・教理的・霊的な意味をもったぶどう畑のたとえは、最後の晩餐の説教の中で再び語られます。主は使徒たちに別れを告げながらこういわれたからです。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かな実を結ぶように手入れをなさる」(ヨハネ15・1-2)。それゆえ、復活の出来事から出発して、救いの歴史は決定的な転換を経験します。その代表があの「ほかの農夫たち」です。選ばれた枝として、まことのぶどうの木であるキリストに結ばれたこの人々は、永遠のいのちの豊かな実を結びます(集会祈願参照)。キリストに結ばれた者であるわたしたちもこの「農夫たち」の一人です。キリストは自ら「まことのぶどうの木」となることを望まれるからです。祈りたいと思います。聖体のうちにご自身の血を、すなわち御自らをわたしたちに与えてくださる主の助けによって、わたしたちが永遠のいのちのため、現代のために「実を結ぶ」ことができますように。
  この聖書の箇所からわたしたちが与えられる慰めのメッセージは、次の確信です。最後に勝利を収めるのは悪と死ではありません。最後に勝利を収めるのはキリストです。それはいつもいえることです。教会は倦(う)むことなくこの福音を告げ知らせます。今日も、この異邦人の使徒にささげられた大聖堂で行っているように。異邦人の使徒は小アジアとヨーロッパの広大な地域に初めて福音を伝えました。わたしたちは「教会生活と宣教における神のことば」をテーマとした世界代表司教会議第12回通常総会の中で、この宣教を意味のあるしかたで新たにします。ここでわたしは皆様に心からごあいさつ申し上げたいと思います。親愛なるシノドス参加司教の皆様。そして、専門家、オブザーバー、特別招待者としてこの会議に参加される皆様。さらに、他の教会・教会共同体の友好使節をお迎えできてうれしく思います。わたしたちは皆、この数か月の間大変な作業をしてくださったシノドス事務総長とその協力者のかたがたに感謝するとともに、これからの数週間になさるご苦労のためにも御礼を申し上げます。
  神は、語りかけるときに、いつもこたえを求めます。神の救いのわざは人間の協力を求めます。神の愛は返事を期待しています。親愛なる兄弟姉妹の皆様。聖書のことばがぶどう畑について語ることは、起きてはならないことです。「よいぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」(イザヤ5・2参照)。人間の心を奥底から造り変えることができるのは神のことばだけです。ですから、一人ひとりの信者と共同体が神のことばにいっそう親しむことが大事です。シノドス総会は教会生活と宣教にとって根本的なこの事実に目を向けます。神のことばに養われることは、教会にとって第一の根本的な務めです。実際、福音を告げ知らせることが教会の存在理由であり、使命であるなら、教会が自らの告げ知らせることを知り、生きることは不可欠です。それは、たとえ教会に属する者が無力で貧しくても、教会の宣教が信頼に足るものとなるためです。さらにわたしたちはこのことを知っています。キリストの学びやにおいて、みことばの宣教の内容は、神の国ですが(マルコ1・14-15参照)、神の国とはイエスという人ご自身です。イエスはそのことばとわざによって、すべての世の人に救いをもたらすからです。このことに関連して、聖ヒエロニモ(347-419/420年)の考察は興味深いものです。「聖書を知らない人は神の力も神の知恵も知らない。聖書を知らないことはキリストを知らないことである」(『イザヤ書注解』序文:PL 24, 17)。
  この聖パウロにささげた年にあたって、わたしたちは特別に異邦人の使徒の切迫した叫び声が響き渡るのを感じます。「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)。この叫び声はすべてのキリスト者にとって、キリストへの奉仕に身をささげるようにという絶え間ない招きとなります。神である師は今日も繰り返していわれます。「収穫は多い」(マタイ9・37)。いまだにキリストと出会っておらず、これから福音が告げ知らされるのを待つ多くの人がいます。キリスト教的な教育を受けながら、熱意を失って、神のことばに表面的な形で触れるにすぎない人もいます。信仰に基づく行いから遠ざかって、新しい福音宣教を必要とする人もいます。また、正しい思いを抱く人も少なからずいます。彼らは生と死の意味に関する根本的な問いを発します。この問いに完全にこたえることのできるのはキリストだけです。ですから、すべての大陸に住むキリスト信者にとって不可欠なのは、自分の抱いている希望について説明を要求する人に、いつでもこたえられるよう備えていることです(一ペトロ3・15参照)。そして、喜びをもって神のことばを告げ知らせ、妥協することなく福音を生きなければなりません。
  親愛なる敬愛すべき兄弟の皆様。主の助けによって、わたしたちがこれから数週間のシノドスの間、どうすればより効果的に現代において福音を告げ知らせることができるかを自らに問いかけることができますように。わたしたちは皆、神のことばをわたしたちの生活の中心に置くことがどれほど必要であるかを知っています。それは、わたしたちの唯一のあがない主であり、神の国を自ら実現したかたであるキリストを受け入れ、キリストの光を人間のいるあらゆるところで輝かせるためです。すなわち、家庭から学校、文化、職場、余暇、その他、社会と人生のさまざまな分野に至るまでです。わたしたちは感謝の祭儀にあずかりながら、神のことばを告げることと聖体のいけにえとが密接に結ばれていることをいつも自覚します。それは、わたしたちが観想するよう与えられる同じ神秘です。だから、第二バチカン公会議が明らかにしたように、「教会は主の聖体と同様に、聖書をつねに尊敬し、とくに典礼において不断に、ことばの食卓と聖体の食卓とからいのちのかてを取り、信者にも与えてきた」のです。公会議は適切にも終わりに次のようにいいます。「聖体の秘義にしばしばあずかることによって、教会の生命が成長するように、『永遠に変わることがない』神のことばに対する尊敬が高まることによって、霊的生活への新しい刺激を期待することができる」(『神の啓示に関する教義憲章』21、26)。
  主の恵みによって、わたしたちが、みことばの食卓とキリストのからだと血の食卓という二つの食卓に近づくことができますように。「これらの出来事をすべて心に納めて、思いめぐらしていた」(ルカ2・19)至聖なるマリアの執り成しによって、わたしたちがこの恵みを得ることができますように。聖書に耳を傾け、思いと心を切り離すことなく、内的に成長しながら聖書のことばを思いめぐらすことを、マリアがわたしたちに教えてくださいますように。また、聖人たち、とくに使徒パウロもわたしたちを助けてくださいますように。今年わたしたちは、使徒パウロが神のことばの恐れを知らない証人また使者であることをますます知ろうとしているからです。アーメン。

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