教皇ベネディクト十六世の世界代表司教会議第12回通常総会での発表

教皇ベネディクト十六世は、2008年10月14日(火)午前、「教会生活と宣教における神のことば」をテーマとした世界代表司教会議(シノドス)第12回通常総会の第14回全体会議で、予定にない発表を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
教皇のこの発表は、10月25日(土)に発表された「提言」25-27に取り入れられています。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。わたしはイエスに関する著作(『ナザレのイエス』)を執筆することによって、現代の釈義がもたらしてくれる利点を広く知ることができたと同時に、問題点と危険も知ることができました。『神の啓示に関する教義憲章』12は、適切な釈義を行うための二つの方法論的な指針を与えています。第一に、同文書は歴史的・批判的な方法の使用の必要性を確認します。これについて同文書は本質的な要素について簡単に述べています。この必要性はヨハネ1・14で定式化されたキリスト教の原則に基づきます。「ことばは肉となった(Verbum caro factum est)」。歴史的事実はキリスト教信仰を構成する不可欠な側面です。救いの歴史は神話ではなく、真の歴史です。それゆえそれは、真剣な歴史的探究方法によって研究されなければなりません。
  しかしながら、救いの歴史はもう一つの側面をもっています。すなわち、それが神のわざだという側面です。そのため『神の啓示に関する教義憲章』は、みことばを正しく解釈するために必要な第二の方法論的側面について述べます。みことばは人間のことばであると同時に、神のことばだからです。あらゆる文学テキストの解釈の根本的な原則に従って、公会議はいいます。聖書は、それによって聖書が書かれたのと同じ霊によって解釈しなければなりません。そこから公会議は、聖書の神的・霊的側面を適切に考慮するのに役立つ三つの根本的な方法論的要素を指摘します。すなわち、(1)聖書全体の統一性を考慮しながらテキストを解釈しなければなりません。現代ではこれは正典的釈義と呼ばれます。公会議の時代にこの用語はまだ存在していませんでしたが、公会議は同じ意味のことを述べています。すなわち、聖書全体の統一性を考慮に入れなければならないということです。(2)教会全体の生きた伝統を考慮しなければなりません。そして最後に(3)信仰の類比を考えなければなりません。歴史的・批判的方法と、神学的方法という、この二つの方法論的なレベルを考慮したときに初めて、神学的釈義について語ることができます。これが聖書に適した釈義です。第一のレベルにおいて、現代の学問的釈義はきわめて高度なレベルで行われ、実際に役立っています。しかし、同じことをもう一つのレベルについていうことはできません。『神の啓示に関する教義憲章』が述べた三つの神学的要素を含んだ第二の方法論的レベルが存在しないように思われることもしばしばです。このことはきわめて深刻な帰結をもたらします。
  第二の方法論的レベルの不在がもたらす第一の帰結は、聖書が単なる過去についての書物となるということです。そこから道徳的な帰結が生じる場合があります。たとえ歴史を学ぶことができても、そのような書物は過去について語るにすぎません。そして、釈義はもはや真の意味での神学的釈義ではなく、純粋に資料批判的・文学批判的な釈義となります。これが第一の帰結です。つまり、聖書が過去にとどまり、過去についてだけ語るということです。第二の帰結はさらに重大です。『神の啓示に関する教義憲章』に示された信仰の解釈学が消えると、必然的にもう一つの種類の解釈学が現れてきます。すなわち、世俗的、実証主義的な解釈学です。この解釈学の根本的な要素は、神的なものが人間の歴史に現れることはないという確信です。この解釈学によればこうなります。もしも神的な要素があるように思われたなら、そのような印象がどこから来るのかを説明しなければなりません。そして、すべてを人間的な要素に還元しなければなりません。そこから、神的な要素の歴史性を否定する解釈が生まれます。たとえば、現代ドイツの釈義のいわゆる「主流派」は、主が聖体を制定したことを否定します。そして、イエスの亡骸は墓に置かれたままだといいます。復活は歴史的な出来事ではなく、神学的なものの見方にすぎなくなります。これは、信仰の解釈学がないために生じたことです。そこで、世俗的・哲学的解釈学が成功を収めます。この世俗的・哲学的解釈学は、神的なものが歴史の中に現実に入り、存在しうることを否定します。第二の方法論的なレベルの不在の結果こそ、学問的釈義と「霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)」の深い断絶を生み出したものです。ここから、場合によって、説教を準備する際にある種の混乱が生じることもあります。釈義が神学的な釈義でない場合、聖書は神学の中心となりえません。逆もまた真実です。神学が本質的な意味で教会の中で行われる聖書の解釈でなくなれば、このような神学はもはや基盤をもたないものとなります。
  それゆえ、教会生活と宣教にとって、また信仰の未来にとって、釈義と神学のこのような対立を克服することが絶対に必要です。聖書神学と組織神学は、わたしたちが神学と呼ぶ唯一の現実の二つの側面です。ですから、提言の一つが、釈義において『神の啓示に関する教義憲章』12で指摘された二つの方法論的なレベルを考慮しなければならないことに触れるのが望ましいと思われます。『神の啓示に関する教義憲章』12は歴史的釈義だけでなく、神学的釈義も発展させることを述べているからです。それゆえ、このような意味で将来の釈義家を養成していくことが必要です。それは、聖書の宝を現代世界とわたしたち皆のために真の意味で開いていけるようにするためです。

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