教皇ベネディクト十六世の世界代表司教会議第12回通常総会閉会ミサ説教

2008年10月26日(日)午前9時30分から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世司式の下、世界代表司教会議第12回通常総会閉会ミサが行われました。ミサはシノドス参加司教と協力者326名が共同司式しました。共同 […]

2008年10月26日(日)午前9時30分から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世司式の下、世界代表司教会議第12回通常総会閉会ミサが行われました。ミサはシノドス参加司教と協力者326名が共同司式しました。共同司式者の内訳は、枢機卿52名、東方カトリック教会の代表者14名、大司教45名、司教130名、司祭85名(シノドス参加教父12名、シノドス事務総局スタッフ5名、オブザーバー30名、専門家5名、広報担当者4名、アシスタント24名、通訳5名)でした。
以下は、教皇がミサで行った説教の全文の翻訳です(原文はイタリア語)。
10月26日は年間第30主日で、聖書朗読箇所は、出エジプト記22・20-26、テサロニケの信徒への手紙一1・5c-10、マタイによる福音書22・34-40でした。


  司教職と司祭職にある兄弟の皆様
  親愛なる兄弟姉妹の皆様

 たった今、福音の中で読まれた主のことばは、神の律法全体が愛に要約されることを思い起こさせてくれます。福音書記者マタイは述べます。ファリサイ派の人々は、イエスのこたえによってサドカイ派の人々が黙り込んだ後、イエスを試そうとしました(マタイ22・34-35参照)。そのうちの一人の律法の専門家がイエスに尋ねました。「先生、律法の中で、どの掟がもっとも重要でしょうか」(マタイ22・36)。この問いによって、ユダヤ人の伝統の中に、神のみ旨に関するさまざまな定式を統一する原則を見いだしたいという関心があったことがわかります。これは簡単な問いではありませんでした。モーセの律法の中には613の掟と禁止規定が含まれていたからです。どうすればその中でもっとも重要なものを見分けることができるでしょうか。しかし、イエスはためらうことなく、すぐにこたえます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これがもっとも重要な第一の掟である」(マタイ22・37-38)。イエスはこたえの中で「シェマーの祈り」を引用します。「シェマーの祈り」とは、敬虔なイスラエル人が一日に何度も、とくに朝と夕に唱えた祈りです(申命記6・4-9、11・13-21、民数記15・37-41参照)。それは、唯一の主である神にふさわしい、十全かつ完全な愛を表明したものです。そこではこの神への献身がまったきものであることが強調されます。そのために、心、精神、思いという、人間の深い心理的構造を規定する3つの能力が挙げられます。「思い(ディアノイア)」ということばは理性的な要素も含みます。神は、愛、献身、意志、感情を向ける対象であるだけでなく、知性の対象でもあります。それゆえ、知性もこの場から除外されないのです。わたしたちは自分たちの思いをも神の思いと一致させなければなりません。しかし、イエスはさらにこう付け加えます。実際には、これは律法の専門家が尋ねていなかったことです。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタイ22・39)。イエスのこたえの驚くべき点はこれです。イエスは、第一の掟と第二の掟が類似することを明らかにしました。そのためにイエスは、第二の掟もレビ記の聖性に関する規定によって定めます(レビ19・18参照)。それゆえ、二つの掟は、聖書の啓示全体を支える主要な原理の役割を果たすものとして結びつけられます。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22・40)。
  わたしたちが考察している聖書の箇所は、キリストの弟子であるとはどういうことかを照らしてくれます。キリストの弟子であるとは、キリストの教えを実行することです。キリストの教えは、愛の掟という、神の律法のもっとも重要な掟に要約されます。出エジプト記からとられた第一朗読も、愛の務めについて述べます。愛は人間関係の中で具体的に示されます。この愛は、尊敬、協力、寛大な助け合いの関係でなければなりません。寄留者、孤児、寡婦、貧しい人、すなわち「保護者」をもたない住民も、隣人として愛さなければなりません。聖書の著者は、貧しい人が何かを質に預ける場合など、細かいことにも触れます(出エジプト20・25-26参照)。その場合、神ご自身が隣人の身元の保証人となります。
  第二朗読では、最初のキリスト教共同体の一つにおいて最高の愛の掟が具体的に実践されたことが示されます。聖パウロはテサロニケの信徒への手紙の中で、次のことを知らせます。わたしはあなたがたを少ししか知りませんが、あなたがたに感謝し、心からあなたがたを愛しています。だからパウロは彼らを「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範」(一テサロニケ1・6-7)と呼びました。設立されたばかりのこの共同体には弱さも問題もあります。しかし、愛はすべてを乗り越え、すべてを新たにし、すべてに打ち勝ちます。この愛を行う者は、自分の限界を知りながらも、神である師キリストのことばに素直に従います。このことばは、キリストの忠実な弟子によって伝えられたものだからです。聖パウロはいいます。「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となりました」。使徒パウロは続けていいます。「主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられています」(一テサロニケ1・6、8)。テサロニケの信徒の経験は、実際、あらゆる真のキリスト教共同体に共通する経験です。この経験からわたしたちが引き出すことのできる教えはこれです。隣人への愛は、神のことばに素直に耳を傾けることによって生まれます。この愛は、神のことばの真理のゆえに厳しい試練も受け入れます。このようにして真の愛が成長し、真理はそのすべての輝きを現します。それゆえ、個人と共同体の生活の中でみことばに耳を傾け、それを具体化することは、どれほど重要なことでしょうか。
  シノドスを終えるこの感謝の祭儀の中で、わたしたちは特別なしかたで、「愛をこめて神のことばを聞くこと」と「分け隔てなく兄弟に奉仕すること」のつながりを感じます。神に深く耳を傾け、その救いのことばを真の意味で知ること。神のことばの食卓で常に養われる信仰を心から分かち合うこと。これらのことが現代、緊急に必要とされていることを明らかにする経験と考察が、この数日間、何度語られたことでしょうか。親愛なる敬愛すべき兄弟の皆様。「教会生活と宣教における神のことば」というシノドスのテーマを深めるために、皆様の一人ひとりが貢献してくださったことに感謝します。心から皆様にごあいさつ申し上げます。特にシノドス議長代理の枢機卿と事務総長にごあいさつ申し上げます。このかたがたの絶えざるご努力に感謝申し上げます。豊かな経験を携えてあらゆる大陸から来られた親愛なる兄弟姉妹の皆様にごあいさつ申し上げます。帰国されたら、すべての人々にローマ司教からの愛をこめたあいさつをお伝えください。友好使節、専門家、オブザーバー、特別招待者の皆様、そして、シノドス事務総局のスタッフ、広報担当者の皆様にごあいさつ申し上げます。わたしは、シノドス総会に代表者が参加できなかった中国本土の司教の皆様に特別に思いを致します。わたしは彼らに代わり、彼らのキリストへの愛と、普遍教会との交わりと、使徒ペトロの後継者への忠実のゆえに神に感謝したいと思います。彼らは、彼らが司牧するようゆだねられたすべての信者とともに、わたしたちの祈りの中にいます。わたしたちは「大牧者」(一ペトロ5・4)に願い求めます。わたしたち皆が心から愛する中国のカトリック共同体を知恵と先見の明をもって導くための、使徒としての喜びと力と情熱を彼ら司教に与えてくださいますように。
  シノドスに参加したわたしたちは皆、あらためて次のことを自覚しています。新千年期の初めにあたって、教会の第一の務めは、何よりも神のことばによって養われることです。それは、新しい福音宣教をより力強く行い、現代にみことばを告げ知らせることができるようになるためです。今必要なのは、この教会の経験がすべての共同体に伝わることです。わたしたちは、自分が聞いたことばを愛のわざに変えなければならないことを悟らなければなりません。なぜなら、そうすることによって初めて、一人ひとりの人が人間的な弱さをもっているにもかかわらず、福音の宣教が信頼できるものとなるからです。そのためにまず必要なのは、キリストをますます深く知り、キリストのことばをいっそう素直に受け入れることです。
  パウロ年にあたり、わたしたちは使徒パウロのことばを自分のことばとします。「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)。そこでわたしは、すべての共同体が、深い確信をもって、このパウロの思いは、自分が世のために福音に奉仕するよう召されていることだと感じてくださるよう心から願います。わたしはシノドスの初めにイエスの呼びかけを思い起こしました。「収穫は多い」(マタイ9・37)。それは、どんな困難に遭おうとも、うむことなくこたえていかなければならないという呼びかけです。多くの人が、ときには自覚せずに、キリストとその福音との出会いを探し求めています。多くの人がキリストのうちに人生の意味を見いだすことを必要としています。それゆえ、イエスが示した神のことばに従った人生を、はっきりと目に見えるしかたであかしすることが、教会の宣教を確かなものとするための不可欠の基準です。
  今日の典礼が黙想するよう示す聖書朗読は、律法ならびに聖書全体の完成は愛であることをわたしたちに示します。ですから、聖書を少なくとも部分的にでもわかったと思いながら、自らの知性によって、神への愛と隣人への愛という二つの愛を築こうと努めない人は、実際には、聖書の深い意味を理解するにはほど遠いところにいることを示します。しかし、聖書との生きた深い接触をもたずに、どうしてこの掟を実践することができるでしょうか。神への愛と兄弟への愛を生きることができるでしょうか。第二バチカン公会議はいいます。「キリスト信者には、聖書に近づく多くの機会が与えられなければならない」(『神の啓示に関する教義憲章』22)。それは、人が真理と出会い、真の愛を成長させることができるためです。これは今日、福音宣教のために欠くことのできない条件です。ところで、聖書と出会うことが危険にさらされることがしばしばあります。それは、教会において聖書と出会う「こと」そのものによってではなく、主観主義的・恣意的解釈にさらされることによってです。そこで、キリスト教共同体の中でみことばを告げ、祝い、生きるための「聖書の知識に関する堅固で信頼できる司牧的養成」が不可欠となります。そして、現代の文化と対話し、流行思想ではなく、真理に奉仕するよう努め、神がすべての人と行おうと望む対話を深めなければなりません(同21参照)。そのため、司牧者の養成に特別な注意を払うべきです。それは、適切な手段を通じて聖書教育を広めるために必要な活動を行えるようにするためです。信徒による聖書運動と、グループの指導者の養成を推進する努力も奨励すべきです。その際、特に若者に注意を向ける必要があります。「離れた」人々、特に人生の意味を真剣に探求する人々にも、神のことばを通じて信仰を知らせる努力を支えるべきです。
  そのほかにも多くの考察をさらに述べることができます。しかし、わたしは最後に次のことをいうにとどめます。シノドスの中で何度もいわれたとおり、教会を築く「神のことばが響き渡る特別な場」は、間違いなく典礼です。典礼において、「聖書は、民の、また民のための書である」ことが示されます。聖書は読者に伝えられた遺産であり、遺言です。それは、聖書によって証言された救いの歴史を自分の人生の中で実現できるようにするためです。それゆえ、民と聖書は互いに従属し合います。聖書は民とともにあることによって生きた書であり続けます。民は聖書を読む主体だからです。また民は聖書なしに存続できません。民は聖書のうちに自らの存在意義と召命とあるべき姿を見いだすからです。このように民と聖書が互いに従属し合う関係が、典礼の中でいつも祝われます。典礼は聖霊の力によってキリストのことばを聞きます。人々が教会の中で聖書を読み、神がその民との間で更新する契約を結ぶとき、語るのはキリストだからです。それゆえ、聖書と典礼は一つにまとまります。それは両者が、主と対話し、主のみ旨に従うよう民を導くという、唯一の目的をもつからです。神の口から出て、聖書の中であかしされるみことばは、祈りと、生活と、愛から生まれるこたえの形で神へと向かいます(イザヤ55・10-11参照)。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。祈ろうではありませんか。聖霊のわざに導かれながら、あらためて神のことばに耳を傾けることによって、普遍教会とすべてのキリスト教共同体で真の意味での刷新が行われますように。わたしはこのシノドス総会の実りをおとめマリアの母としての執り成しにゆだねます。わたしは来年の10月にローマで開催される第2回アフリカ特別シノドスをもおとめマリアにゆだねます。わたしは来年の3月、アフリカ司教協議会の代表者の皆様にシノドスの「討議要綱」を示すために、カメルーンを訪れるつもりです。神が望まれるなら、カメルーンを訪れた後、続いて、アンゴラを訪れます。それは、アンゴラにおける福音宣教500周年を荘厳に記念するためです。至聖なるマリア。すべてが神のみ旨に従って行われるために、自分の生涯を「主のはしため」としてささげ(ルカ1・38参照)、イエスがいいつけることをすべて行うように勧めたかた(ヨハネ2・5参照)。人生の中でみことばが第一のものであると知ることを、わたしたちに教えてください。みことばだけがわたしたちに救いをもたらすことができるからです。アーメン。

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