教皇ベネディクト十六世の降誕祭ミサ説教

12月25日(木)午前0時から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は主の降誕の夜半のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文はイタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  「わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き、なお、低く下って天と地をご覧になる」。イスラエルは詩編の一つの中でこのように歌います(詩編113・5-6)。詩編は神の偉大さとともに、神がいつくしみ深く人間に近づくことを賛美します。神は高いところに住まわれますが、低く下ります・・・・。神は限りなく偉大で、わたしたちをはるかに超えたかたです。これがわたしたちが神について最初に体験することです。このへだたりは無限であるように思われます。世界の造り主であり、すべてのものを治められるかたは、わたしたちのはるか遠くにおられます。初めはそう思われます。しかし、次にわたしたちは驚くべきことを体験します。並ぶもののないかた、「御座を高く置」かれるかたが、低いところをご覧になります。低く下られます。神はわたしたちをご覧になります。わたしをご覧になります。神が低いところをご覧になるというのは、単に高いところから見下ろすだけではありません。神がご覧になるとは、一つのわざです。神がわたしをご覧になり、わたしに目を注ぐなら、それはわたしとわたしの周りの世界を造り変えます。詩編はすぐに続けていいます。「弱い者を塵の中から起こし・・・・」。神は低いところをご覧になることによって、わたしを起こし、いつくしみ深くわたしを抱え、ほかならぬこのわたしを助けて、低いところから高く上げてくださいます。「神は低く下られる」。これは預言的なことばです。ベツレヘムの夜、このことばはまったく新しい意味をもちました。神が低く下ることは、前代未聞の、これまで考えられなかった形で実現しました。神は低く下ります。神ご自身が、粗末な馬小屋に幼子として来られます。粗末な馬小屋は、人間のあらゆる困窮と、見捨てられた状態を表すしるしです。神は本当に下って来られます。幼子となり、生まれたばかりの人間に特有の、完全に人に頼るほかない状態に身を置かれます。万物を手で支えるかた、わたしたち皆がより頼む造り主が、小さな者、人間の愛を必要とする者となられます。神は馬小屋の中におられます。旧約の中で、神殿は神の足台と考えられました。神の箱は、神が不思議なしかたで人間のただ中におられる場と考えられました。神殿の上には神の栄光の雲が隠れているとされました。今や神の栄光は馬小屋の上にあります。神は宿のない幼子の貧しさの雲のうちにおられます。それは見通すことができないにもかかわらず、栄光の雲なのです。実際、神の人間に対する愛と、人間に対する気遣いが、これ以上偉大で清らかなしかたで現れたことがあったでしょうか。隠れた雲、愛を必要とするほかない幼子の貧しさの雲は、同時に栄光の雲でもあります。なぜなら、このように低く下り、人に頼るものとなった愛以上に、気高く偉大なものがありうるでしょうか。わたしたちがベツレヘムの馬小屋の前で心の目を開くなら、まことの神の栄光は目に見えるものとなります。
  たった今わたしたちが福音の箇所で聞いた、聖ルカによる降誕の物語はいいます。神は、自らを隠す覆いを、まず、社会の大部分からさげすまれた、きわめて低い身分の人の前で取り去りました。すなわち、ベツレヘムの周辺で羊の群れの番をしていた羊飼いたちです。ルカは彼らが「番をしていた」と語ります。このことばはイエスのメッセージの中心的なテーマを思い起こさせてくれます。イエスは繰り返し、オリーブの園の苦しみのときに至るまで、目覚めているように命じます。それは、主の到来に気づき、準備していることができるためです。ですから、ここでもこのことばは、単に外的な意味で夜、目覚めている以上のことを意味します。羊飼いたちは本当の意味で目を覚ましていました。そのために彼らは、神のことを、また神が近くにおられることを生き生きと感じていました。彼らは神を待ち望んでいました。そして、神が自分たちの日常生活から離れたところにおられるように思われても、あきらめませんでした。「今夜、主はあなたがたのためにお生まれになった」。この大きな喜びの知らせは、目覚めた心に告げることができます。目覚めた心だけがこの知らせを信じることができるからです。目覚めた心だけが、馬小屋の中に寝ている幼子のうちに神を探しに出かける勇気を奮い起こすことができるからです。主に祈りたいと思います。わたしたちも目覚めた者となることができるように助けてください。
  さらに聖ルカは語ります。羊飼いたちの「周り」を神の栄光、すなわち光の雲が照らしました。彼らは神の栄光の輝きの中にいました。聖なる雲に包まれながら、彼らは天使の賛美の歌声を聞きました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、み心にかなう人にあれ」。み心にかなう人とはだれのことでしょうか。それは、貧しい人、目覚めている人、待ち望んでいる人、神のいつくしみに希望を置き、神を捜し求め、遠くから神を仰ぎ見る人にほかなりません。
  教父は、天使たちがあがない主を賛美した歌についてすばらしい解説を行っています。教父はいいます。そのときまで天使たちは、宇宙の偉大さによって、秩序ある宇宙のことわりと美によって神を知っていました。宇宙は神から出て、神を映し出しているからです。天使たちはいわば、創造のわざを賛美する静かな歌声を聞き、その歌声を天上の音楽に造り変えました。けれども、今や新しいことが起こりました。それは天使たちにとって驚くべきことでした。宇宙が語るかた、万物を手で支える神が、人間の歴史の中に入られたのです。歴史の中で行動し、苦しむ者となったのです。この思いもよらない出来事がもたらした喜ばしい驚きから、神が自らを示した第二の新しいやり方から、新しい歌が生まれました。そのことばを降誕の福音はわたしたちのために書き留めました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、み心にかなう人にあれ」。おそらくこういうことができます。ヘブライ詩の構造に従って、この二行詩の前半と後半は基本的に同じことを、しかし別の観点から述べています。神の栄光は天の高いところにあります。しかし、この高いところにおられる神が、今や馬小屋の中におられます。低いものが、気高いものとなったのです。神の栄光は地上にあります。神の栄光とは、へりくだりと愛の栄光です。さらに、神の栄光は平和です。神がおられるところに平和があります。人間が自分だけの力で、暴力を用いてまで、地上を天国にしようと望まないところに、神はおられます。神は目覚めた心の人とともにおられます。へりくだる人、神の気高さにこたえる人とともにおられます。この気高さとは、へりくだりと愛の気高さです。このような人々に神はご自分の平和を与えます。それは、この人々を通して平和がこの世に入ってくるためです。
  中世の神学者サン=ティエリのギヨーム(1085頃-1148年)はあるところでこういっています。神は、アダムのときから、ご自分の偉大さが人間の反抗を引き起こしたのをご覧になりました。人間は自分の存在が限定され、自由が脅かされていると感じたからです。そのため神は新しい道を選びました。神は幼子となりました。神は、人に頼らなければならない無力な者、わたしたちの愛を必要とする者になりました。今や、幼子となられた神は、わたしたちにいいます。あなたはもはやわたしを恐れることができません。あなたにできるのは、わたしを愛することだけです。
  このような思いをもってわたしたちは今夜、ベツレヘムの幼子に近づきます。わたしたちのために幼子となられた神に近づきます。幼子は皆、ベツレヘムの幼子の映しです。幼子は皆、わたしたちの愛を求めます。それゆえ、今夜、特に思いを致したいと思います。両親から愛を拒まれた幼子に。温かい家庭の恵みを受けられずに路上で暮らす子どもに。無理やり兵士にされ、和解と平和の使者ではなく、暴力の道具となった子どもに。ポルノ産業やあらゆる忌まわしい虐待の犠牲となり、心を深く傷つけられた子どもに。ベツレヘムの幼子はあらためてわたしたちに呼びかけます。これらの子どもの苦しみをなくすために、できることを何でもするようにと。ベツレヘムの光がすべての人の心に触れるために、できることを何でもするようにと。心の回心、すなわち、人間を内面から変革することを通じて、初めて、これらのあらゆる悪の原因に打ち勝つことができます。このようにして初めて、悪しき者の力に勝利を収めることができます。人々が変わることによって、初めて世界は変わります。そして、人々が変わるには、神からの光が必要です。この光は、予期せぬしかたでわたしたちの闇に入って来られました。
  ベツレヘムの幼子について語るとき、ベツレヘムと呼ばれた場所にも思いを致したいと思います。イエスが暮らし、心から愛した地に思いを致したいと思います。そして祈りたいと思います。この地に平和が打ち立てられますように。憎しみと暴力がなくなりますように。人々が互いに理解し合い、心を開き、国境を開くことができますように。あの夜、天使たちが歌った平和が下って来ますように。
  詩編96で、イスラエルと教会は偉大な神を賛美します。神の偉大さは造られたものに示されました。すべての被造物はこの賛美に声を合わせて歌うよう招かれています。詩編も招きます。「森の木々よ、ともに喜び歌え、主を迎えて。主は来られる」(詩編96・12以下)。教会はこの詩編を預言また務めと考えました。神は沈黙のうちにベツレヘムに来られました。番をしていた羊飼いたちだけが、一瞬、神が来られた光の輝きに包まれ、新しい歌を聞くことができました。それは、神が来られたことに対する天使たちの驚きと喜びから生まれた歌でした。この静かな神の栄光の到来は、世々を通じて続きます。信仰のあるところ、神のことばが告げ知らされ、人々がそれに耳を傾けるところで、神は人々を集め、ご自分のからだを与えます。そして、人々をご自分のからだに造り変えます。神は「来られます」。こうして人々の心は目覚めます。天使たちの新しい歌は人間の歌になります。人々は世々にわたって、神が幼子として来られたことを常に新たなしかたで歌うからです。そして、心の奥底から喜びを感じるからです。森の木々は神を迎えて、たたえます。サンピエトロ広場のツリーも神を語ります。それは神の輝きを伝えようとしていいます。「そうです。神は来られました。森の木々は神をたたえます」。町や家のツリーも、祭の習慣以上のものでなければなりません。それらのツリーは、わたしたちの喜びを生み出すかたを指し示します。わたしたちのために幼子となられた神を指し示します。要するに、賛美の歌は、深い意味で、新たないのちの木そのものであるかたについて語ります。このかたを信じることによって、わたしたちはいのちを得ます。このかたは聖体の秘跡によってわたしたちにご自身を与えます。わたしたちに永遠のいのちを与えます。今、わたしたちは被造物の賛美の歌に声を合わせます。わたしたちの賛美は同時に祈りとなります。そうです、主よ。あなたの栄光の輝きを示してください。地上に平和をお与えください。わたしたちをあなたの平和の人としてください。アーメン。

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