教皇ベネディクト十六世の教皇庁聖職者省総会参加者へのあいさつ――司祭年の開催発表

教皇ベネディクト十六世は、3月16日(月)午後0時15分から教皇庁枢機卿会議の間で教皇庁聖職者省総会参加者との謁見を行いました。以下は謁見における教皇のあいさつの全文の翻訳です(原文はイタリア語)。このあいさつの中で、教皇は、2009年6月19日から2010年6月19日まで特別聖年の「司祭年」を開催することを発表しました。


枢機卿の皆様
敬愛すべき司教職と司祭職にある兄弟の皆様

 アフリカ出発の前日に皆様と特別謁見を行うことができ、うれしく思います。わたしがアフリカにまいるのは、来る10月にここローマで開催される第2回アフリカ特別シノドスの「討議要綱」を示すためです。皆様の気持を代弁してご丁寧なあいさつをしてくださった、聖職者省長官のクラウディオ・フンメス枢機卿に感謝します。わたしに書いてくださったすばらしいお手紙にも感謝いたします。フンメス枢機卿とともに、聖職者省の長上、職員、委員の皆様にごあいさつ申し上げます。皆様が教会生活のきわめて重要な分野への奉仕に尽力してくださっていることに心から感謝します。
  「教会における司祭の宣教者としてのあり方――『三つの職務(tria munera)』の執行における本質的な側面」――この総会のために皆様が選ばれたこのテーマは、この数日間に行われる議論と、この議論がもたらしてくれるに違いない豊かな成果についていくつかの考察をすることを可能にしてくれます。全教会は宣教者となり、すべてのキリスト信者は、洗礼と堅信の力によって、信仰を公にのべ伝えなさいという命令を「いわば任務として(quasi ex officio)」(『カトリック教会のカテキズム』1305参照)受けます。そうであれば、そこから、役務としての祭司職は、洗礼による祭司職、すなわち、いわゆる共通の祭司職から、単に程度においてではなく、本質的な意味で区別されます。第一に基盤となるのは、使徒としての命令です。「全世界に行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい」(マルコ16・15)。ご存じのように、この命令は、協力者にゆだねられた単なる任務ではありません。この命令は深いところに根ざし、どこまでも追求しなければならないものです。
  司祭の宣教者としての次元は、司祭が秘跡によって頭であるキリストに似せて造り変えられることから生まれます。このことから、結果として、教会の伝統が「使徒的な生き方(apostolica vivendi forma)」と呼ぶものへの心からの徹底した一致がもたらされます。「使徒的な生き方」とは、霊的な意味での「新しい生活」、すなわち「新しい生活様式」への参加です。「新しい生活様式」は主イエスが開始しました。そして使徒たちはそれを自分のものとしました。司教の按手と教会の聖別のことばによって、司祭志願者は新しい人、すなわち「司祭」となります。このことから次のことが明らかになります。「三つの職務」はまずたまものであり、そこから初めて職務となります。「三つの職務」は生活にあずかることであり、それゆえにこそ「権能(potestas)」なのです。たしかに偉大な教会の伝統は、適切にも、秘跡の有効性を、一人ひとりの司祭の具体的な生活のし方から切り離してきました。こうして信者の正当な期待を適切なしかたで守ってきたのです。しかし、この正当な教理上の区別は、必要であるばかりか不可欠でもある、道徳的な完徳に達しようとする努力を一切取り去るものではありません。このような努力はあらゆる真の司祭の心の中に存在すべきです。
  司祭の奉仕職の実効性は、このような霊的完徳に対する努力にかかっています。そこでわたしは、このような努力を推進するために、来る6月19日から2010年6月19日まで、特別年である「司祭年」を開催することを決めました。実際、今年は「アルスの聖なる教区司祭」であり、キリストの群れに仕える牧者の模範である、ヨハネ・マリア・ビアンネ(1786-1859年)の没後150周年を記念します。聖職者省は、教区裁治権者と修道会総長管区長とともに、さまざまな霊的・司牧的行事を推進・開催します。これらの行事は、教会と現代社会における司祭の役割と使命の重要性をいっそう明らかにするために役立つと思われます。
  総会のテーマが示すように、司祭の宣教は「教会の中で」行われます。このような教会的、共同体的、位階的、教理的次元は、あらゆる真の意味での宣教に絶対に不可欠です。そして、このような次元だけが霊的な力を保証します。今述べた4つの次元は深く関連し合うことを常に再認識しなければなりません。宣教は「教会的」です。なぜなら、いかなる司祭も自分自身を告げ知らせたり、もたらしたりするのではないからです。むしろすべての司祭は、自らの人間性において、またこの人間性を通して、自分以外のかたである、神ご自身を世にもたらすのだということを自覚しなければなりません。神だけが宝です。そして、つまるところ、人が司祭のうちに見いだしたいと望むのは、この宝なのです。宣教は「共同体的」です。なぜなら、宣教は一致と交わりのうちに行われるからです。一致と交わりが目に見える社会の中でもつ重要性は二次的なものにすぎません。むしろ、一致と交わりは根本的には神との親しい交わりに由来します。司祭はこのような神との親しい交わりの専門家となるよう招かれています。それは、謙遜と信頼をもって、自分にゆだねられた霊魂を主との出会いそのものへと導くことができるためです。最後に「位階的」また「教理的」次元は、教会の規律(「規律(disciplina)」ということばは「弟子(discepolo)」ということばと関連します)と教理教育の重要性を再確認することを意味します。教育は最初の神学教育だけでなく、生涯教育を含みます。
  過去数十年の社会の急激な変化を考えれば、わたしたちは奉仕職への志願者の教育に教会の力をできるかぎり注ぐよう促されます。とくに司教が、その第一の協力者である司祭に絶えず配慮するように勧めなければなりません。それは、真の意味で父としての人間関係を深めることにも、何よりも教理的・霊的な面での生涯養成に心がけることにもいえます。宣教は特別な意味でよい教育を基盤とします。よい教育は、断絶も不連続への誘惑もなしに、途切れることのない教会の聖伝との交わりの中で行われます。その意味で、司祭、とくに若い世代の司祭に、教会のあらゆる教理的遺産全体による解釈に基づいて、第二バチカン公会議文書を正しく理解させることが大事です。また、信仰の判断や、個人の美徳、あるいは服装を通じても、文化と愛のわざの領域のうちに存在し、認められ、優れた者になろうとする自覚を司祭にあらためて抱かせることが緊急の務めだと思われます。このことが教会の宣教の中心であり続けてきたからです。
  わたしたちは教会として、また司祭として、主であり、十字架につけられて復活したキリスト、時間と歴史を支配するかたであるナザレのイエスを告げ知らせます。わたしたちは、この真理が人間の心の深い望みと一致することを喜びをもって確信しているからです。みことばの受肉の神秘、すなわち、神がわたしたちと同じような人となられたことが、キリスト教の宣教の内容でもあり、方法でもあります。宣教を駆り立てるまことの中心は、イエス・キリストご自身です。キリストを中心とすることによって、役務としての祭司職を正しくとらえることができるようになります。役務としての祭司職がなければ、感謝の祭儀もなく、まして、宣教も、教会そのものもありえません。その意味で、時代に合わせた司牧組織の「新しい構造」を考案することのないように留意しなければなりません。それは、信徒の正しい地位向上についての誤った解釈から出発して、叙階された奉仕職を「軽んじる」からです。もしそのようなことをするなら、役務としての祭司職を最終的に解消するための条件が作られ、「解決」と考えられることが、悲惨なしかたで、奉仕職に関連する現代の問題の真の原因となる可能性があるのです。
  わたしは、この数日間の総会の議論において、「教会の母(Mater Ecclesiae)」であるかたのご保護のもとに、この短いきっかけのことばを、皆様がもっと深く考察できることを確信しています。わたしはこのことに枢機卿、大司教、司教の皆様が注意を向けてくださるようにお話ししました。そしてわたしは、皆様の上に天から豊かなたまものが与えられることを祈り求めます。その保証として、わたしは皆様と皆様の愛するかたがたの上に心から特別な使徒的祝福を送ります。

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