教皇ベネディクト十六世のヨハネ・パウロ二世4回目の命日祭ミサ説教

4月2日(木)午後6時から、サンピエトロ大聖堂で、ヨハネ・パウロ二世の4回目の命日祭ミサが教皇ベネディクト十六世の司式でささげられました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文はイタリア語とポーランド語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 
 4年前のちょうど今日、わたしの敬愛すべき前任者である神のしもべヨハネ・パウロ二世は、短くはない大きな苦しみの時を過ごした後、地上での旅路を終えました。ヨハネ・パウロ二世の霊魂の安息を祈るミサをささげるにあたり、この熱心で惜しみない牧者をかくも長い年月にわたり教会に与えてくださった主に感謝したいと思います。ヨハネ・パウロ二世の思い出は人々の心の中に今も生きています。この思い出によって、この夕べ、わたしたちは集まりました。バチカンの墓所にあるヨハネ・パウロ二世の墓に途切れることなく続く、信者の巡礼の列が示すとおりです。それゆえわたしは、感動と喜びをもってこのミサをささげます。ご列席くださった司教職と司祭職にある親愛なる兄弟の皆様。そして、この重要な行事のために、世界のさまざまなところから、とくにポーランドからおいでくださった親愛なる信者の皆様。皆様にごあいさつと感謝を申し上げます。(以上イタリア語。以下ポーランド語)
 ポーランドの皆様、とくにポーランドの青年の皆様にごあいさつ申し上げたいと思います。ヨハネ・パウロ二世の4回目の命日祭にあたり、ヨハネ・パウロ二世の呼びかけを受け入れてください。「キリストに自分をゆだねることを恐れないでください。キリストはあなたがたを導いてくださいます。キリストは、日々、どのような状況にあっても、キリストに従う力をあなたがたに与えてくださいます」(「トール・ヴェルガタでのワールドユースデー前晩の祈り(2000年8月19日)」)。この神のしもべの思いが、皆様の人生を導き、復活の朝の幸福へと導いてくれることを願います。(以下イタリア語)
 ローマ教区の総代理の(カミッロ・ルイーニ)枢機卿、クラクフの大司教の親愛なるスタニスワフ(・ジーヴィッシュ)枢機卿、そして他の枢機卿と司教の皆様にごあいさつ申し上げます。司祭と男女修道者の皆様にごあいさつ申し上げます。とくに親愛なるローマの若者の皆様にごあいさつ申し上げます。皆様は、この祭儀によって、次の日曜日の枝の主日にご一緒に行う「世界青年の日」を準備されるからです。皆様がここにいてくださることにより、わたしは、ヨハネ・パウロ二世が新しい世代の人々に吹き込むことができた熱意を思い起こします。ヨハネ・パウロ二世はさまざまな機会にこのサンピエトロ大聖堂でミサをささげました。ヨハネ・パウロ二世の思い出は、ここに集まったわたしたち皆を促します。今告げられた神のことばによって、照らされ、問いかけていただきなさいと。
 今日の四旬節第5木曜日の福音は、ヨハネによる福音書8章の最後の部分を黙想するようにわたしたちに示します。この部分は、イエスがいかなるかたであるかに関する長い論争を含んでいます。この部分の直前で、イエスはご自分が「世の光」(ヨハネ8・12)であることを示します。そのためにイエスは、三度(ヨハネ8・24、28、58)、「わたしはある」という表現を用います。これは厳密な意味で、モーセに現された神の名を意味します(出エジプト記3・14参照)。そしてイエスは続けていいます。「わたしのことばを守るなら、その人は決して死ぬことがない」(ヨハネ8・51)。こうしてイエスは、ご自分が、自分の父である神から遣わされた者であることを宣言します。それは、人間を罪と死から徹底的な形で解放するためです。永遠のいのちに入るには、そのことがどうしても必要なのです。しかし、イエスのことばは質問者の自尊心を傷つけました。また、太祖アブラハムへの言及は争いの元になりました。主はいわれます。「はっきりいっておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(ヨハネ8・58)。イエスははっきりとしたことばで、ご自分が世の始まる前からおられ、したがって、アブラハムより優れた者であることを宣言しました。これがユダヤ人につまずきをもたらしたことはよく理解できます。しかし、イエスはご自分がいかなる者であるかについて黙っていることができません。イエスは知っておられたからです。最終的に、父ご自身がイエスを受け入れ、死と復活によってイエスに栄光を与えてくださるということを。それは、まさに十字架上に挙げられたときに、イエスが神の独り子であることが現されるためです(ヨハネ8・28、マルコ15・39参照)。
 親愛なる友人の皆様。このヨハネによる福音書の箇所を黙想していると、自然に、キリストをあかしすることがどれほどむずかしいことであるかを思わずにはいられません。そしてわたしたちの思いは敬愛すべき神のしもべカロル・ヴォイティワ――すなわち、ヨハネ・パウロ二世――に向かいます。ヴォイティワは青年の頃から、自分が恐れることのない勇敢なキリストの弁護者であることを示したからです。彼はキリストのためなら、全力を尽くしてあらゆるところに光を広めることを厭いませんでした。彼はキリストの真理を告げ知らせ、弁護しなければならないときに、妥協することを受け入れませんでした。彼はキリストの愛を伝えるためにうむことがありませんでした。教皇職の初めから2005年4月2日に至るまで、彼は恐れることなく、常にすべての人に告げ知らせました。イエスだけが救い主であり、人間の、それもすべての人のまことの救い主であると。
  第一朗読の中で、わたしたちはアブラハムのことばを聞きました。「わたしは、あなたをますます繁栄させる」(創世記17・6)。福音への忠実をあかしすることは決して容易なことではありません。しかし、わたしたちが真剣に、惜しみなく努力するなら、神がその努力を実らせてくださるという確信がわたしたちをかならず慰めてくれます。神のしもべヨハネ・パウロ二世の霊的体験は、この点からも重要だと思われます。ヨハネ・パウロ二世の生涯に目を注ぐなら、神がアブラハムに告げた繁栄の約束が、その生涯の中で実現したことがわかります。この約束は、創世記からとられた第一朗読の中で響き渡っています。こういうこともできます。とくに長い教皇職の年月の中で、ヨハネ・パウロ二世は多くの信仰における子を生みました。この夕べに、ここにおられる親愛なる若者の皆様。ローマの若者の皆様。そして、世界のさまざまな地から今や第23回となったワールドユースデーに参加した青年を精神的な意味で代表して、シドニーとマドリードから来てくださった若者の皆様。皆様はその目に見えるしるしです。わたしの敬愛すべき前任者のあかしと説教に結ばれて、どれほど多くの司祭職と奉献生活への召命が生まれたことでしょうか。また、どれほど多くの若い家族が、福音の理想を生き、聖性を目指そうと決意したことでしょうか。ヨハネ・パウロ二世の祈りと励ましと支えと模範のおかげで、どれほど多くの青少年が回心し、キリストの道を忍耐強く歩んでいることでしょうか。
 本当にそうです。ヨハネ・パウロ二世は、イエス・キリストへの信仰を基盤とする、大きな希望を伝えることができました。イエス・キリストは「きのうも今日も、また永遠に変わることのないかた」(ヘブライ13・8)だからです。2000年の大聖年のテーマが述べたとおりです。情熱的な父であり、注意深い教育者でもあったヨハネ・パウロ二世は、すべての人、とくに若者に不可欠な、確実で堅固な基準を示しました。そこで、苦しみと死の時に、この新しい世代の人々は、サンピエトロ広場や、世界中のさまざまな場所で沈黙のうちに祈りに集中することによって、自分たちが彼の教えを理解したことを表そうと望んだのです。若者たちは、ヨハネ・パウロ二世の死が自分たちの損失であると感じました。それは「自分の」教皇(パパ)が亡くなることでした。若者たちは、ヨハネ・パウロ二世を信仰における「自分の父」とみなしたからです。同時に若者たちは気づきました。ヨハネ・パウロ二世が、自らの勇気ある一貫したあかしを遺産として残してくれたことを。ヨハネ・パウロ二世は何度も、福音に徹底的に従うことの必要性を説いたのではなかったでしょうか。そのために、だれもが行うべき教育の責任を真剣に受け取ることを、大人と若者に勧めたのではなかったでしょうか。ご存じのように、わたしもヨハネ・パウロ二世の心からの願いを繰り返したいと望みました。そのためにわたしはさまざまな機会に、教育の緊急の必要性について語りました。それは現代の家族、教会、社会、そしてとくに新しい世代にかかわることだからです。成長期にある若者は、自分たちに原則と価値観を示すことのできる大人を必要とします。若者は、ことばではなく生き方によって、崇高な理想のためにいのちをささげることを教えられる人間が必要だと感じるのです。
 わたしたちは皆、教会と社会の中でこのような使命を果たさなければなりません。しかし、この使命を果たすための光と知恵をどこに見いだすことができるでしょうか。人間の力に頼るだけでは不十分なことは間違いありません。何よりもまず神の助けにより頼まなければなりません。「主はとこしえに契約をみ心にとめられる」(詩編105・8)。少し前に答唱詩編の中で唱えたとおりです。まことに、神はご自分に忠実であり続ける者を決して見捨てることがありません。このことは、次の主日に教区レベルで行われる第24回「世界青年の日」のテーマを思い起こさせてくれます。今回のテーマは聖パウロのテモテへの手紙一からとりました。「わたしたちは生ける神に希望を置いています」(一テモテ4・10)。使徒パウロはキリスト教共同体を代表して語ります。すなわち、キリストを信じるすべての人の名で語ります。彼らは「希望をもたないほかの人々」(一テサロニケ4・13)とは違います。なぜなら彼らは、希望を抱いて、未来に信頼を置くからです。この信頼は、人間の考えや見通しではなく、神を、それも「生ける神」を基盤としています。
 親愛なる若者の皆様。わたしたちは希望なしに生きることができません。経験が示すとおり、わたしたちの生涯そのものを含めて、すべてのことは危険にさらされています。それは内的・外的原因によっていつでも揺らぐ可能性があります。基準となるのはこれです。人間のことがらは、それゆえ、希望も、それ自体を基盤とするものではありません。むしろ、その上に錨を下ろすことのできる「岩」を必要とします。だからこそパウロはこう述べたのです。キリスト者は希望を「生ける神」の上に据えなければなりません。生ける神だけが、確実で、信頼の置けるかただからです。そればかりか、神はイエス・キリストのうちにご自分の愛を完全な形で現してくださいました。だから神だけがわたしたちの堅固な希望となることができるのです。実際、わたしたちは、わたしたちの希望である神によって救われたのです(ローマ8・24参照)。
 けれども、注意しなければならないことがあります。わたしたちが生きている現代の文化的・社会的状況の中では、時として、キリスト教的希望を、イデオロギーや集団のスローガンやうわべだけの考えにおとしめてしまう恐れが大いにあります。これ以上にイエスのメッセージに反することはありません。イエスが望んだのは、弟子がある役割を「演じる」ことでもなければ、まして希望という役割を「演じる」ことでもありませんでした。イエスが望んだのは、弟子が希望と「なる」ことです。そして、弟子は、イエスと一致することによって初めて希望と「なる」ことができるのです。親愛なる友人である若者の皆様。イエスは、皆様の一人ひとりが、皆様の隣人にとって小さな希望の泉となることを望んでおられます。そして、皆様のすべてが、ともに、皆様が属する社会全体にとって希望のオアシスとなることを望んでおられます。ところで、このことが可能となるには一つの条件があります。それは、祈りと秘跡を通じて、イエスによって、イエスのうちに生きることです。今年の「世界青年の日メッセージ」に書いたとおりです。キリストのことばがわたしたちのうちにとどまるなら、わたしたちは、キリストが地上にともしてくださった愛の炎を広めることができます。信仰と希望のたいまつを高く掲げることができます。わたしたちはこの信仰と希望のたいまつをもって、世の終わりにキリストが栄光のうちに再び来られるのを待ち望みながら、キリストに向けて歩むのです。教皇ヨハネ・パウロ二世もこのたいまつを遺産としてわたしたちに残してくださいました。ヨハネ・パウロ二世はこのたいまつを後継者であるわたしに手渡しました。そしてわたしはこの夕べ、このたいまつを、象徴的な意味で、とくに皆様ローマの若者にあらためて手渡します。それは、皆様が第三千年期の初めに、目を覚まして、喜びのうちに、朝の見張りであり続けるためです。キリストの呼びかけに惜しみない心でこたえてください。とくに来る6月19日から始まる「司祭年」にあたり、司祭職と奉献生活の道によって自分に従うようイエスが招いたなら、進んで従う用意をしてください。
 「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(二コリント6・2)。典礼は福音とともに、今こそ――そしてすべての時は「恵みの時」です――キリストがわたしたちの救いであると確信しながら、キリストに従う決意を新たにするように勧めます。この夕べ、愛すべき教皇ヨハネ・パウロ二世がわたしたちに繰り返して述べるメッセージはこのことに尽きます。おとめマリアはわたしたちをいつも優しく愛してくださいます。そこでわたしたちは、ヨハネ・パウロ二世の選ばれた魂をおとめマリアの母としての執り成しにゆだねます。そして、ヨハネ・パウロ二世が天上からわたしたちとともに歩み、わたしたちのために執り成し続けてくださることを心から願います。どうかヨハネ・パウロ二世の助けによって、わたしたちも皆、教皇と同じように生きることができますように。日々、信頼に満ちた心で、マリアを通して、神に向かって繰り返しこう唱えながら。「すべてはあなたのものです(Totus tuus)」。アーメン。

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