教皇ベネディクト十六世の受難の主日のミサ説教

4月5日(日)午前9時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世は受難の主日(枝の主日)のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。ミサには、第24回「世界青年の日」にあたって、ローマ教区と他の教区の青年が参加しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様
 親愛なる若者の皆様

 イエスはますます増えた群衆とともに、過越のためにエルサレムに上りました。旅の最後の段階のエリコの近くで、イエスは盲人バルティマイをいやしました。バルティマイはイエスに「ダビデの子よ」と呼びかけて、あわれみを願ったからです。目が見えるようになったバルティマイは、感謝しながら巡礼の群れに加わりました。エルサレムの入口で、イエスはろばに乗りました。ろばはダビデの王権を象徴する動物です。すると巡礼者の間に自然と喜ばしい確信が生まれました。「このかたこそダビデの子だ」。そこで巡礼者たちはメシアに対する歓声をもってイエスを迎えました。「主の名によって来られるかたに、祝福があるように」。そして続けて彼らはいいました。「われらの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(マルコ11・9-10)。熱狂した群衆がダビデの国をいかなるものとして思い描いたかは、正確にはわかりません。しかし、わたしたちも、ダビデの子であるイエスのメッセージを本当に理解しているでしょうか。ピラトから質問を受けたときにイエスが語った国がどのようなものであるか、わたしたちは知っているでしょうか。わたしたちは、この国がこの世に属するものでないとはどういうことか、理解しているでしょうか。それとも、わたしたちは、それがこの世に属することを望んでいるのでしょうか。
 聖ヨハネは、その福音書の中で、エルサレム入城について述べた後、イエスの一連のことばを記しています。これらのことばの中で、イエスはこの新しい国の本質を説明します。この箇所を読むと、まずわたしたちは、この国についての三つの異なる姿を区別することができます。この三つの姿の中に、同じ神秘が違った形で常に反映されています。何よりもまずヨハネは、「神を礼拝するために」祭に来た巡礼者の中に何人かのギリシア人もいたと記します(ヨハネ12・20参照)。この巡礼者たちの本当の目的が、神を礼拝することだったことに注意したいと思います。これはイエスが神殿を清めた際に述べたことと完全に対応しています。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」(マルコ11・17)。巡礼のまことの目的は、神と出会うことでなければなりません。神を礼拝し、そこから、自分の生活の根本的なあり方を正しく秩序づけることでなければなりません。このギリシア人は神を求めていました。彼らは生涯を通して神への道を歩んでいました。そのとき、フィリポとアンデレという二人のギリシア語を話す使徒の仲介を通じて、彼らは主に願いました。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(ヨハネ12・21)。これは重大な意味をもつことばです。親愛なる友人の皆様。「イエスにお目にかかりたいのです」。わたしたちはこのことのためにここに集まりました。このことのために、昨年、何十万人もの若者がシドニーに行きました。若者たちがこの巡礼に多くのことを期待していたことは間違いありません。しかし、根本的な目的は、「イエスにお目にかかりたい」ということでした。
 この願いに対して、このときイエスは何を述べ、またなさったでしょうか。福音書からは、このギリシア人たちとイエスが会ったかどうかははっきりわかりません。イエスの目ははるか先に向けられていました。ギリシア人の願いに対するイエスのこたえの核心はこれです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12・24)。これはこういう意味です。「今、何人かの人とある程度の時間語り合うことが大事なのではない。この人々はやがて家に帰るからだ。わたしは、死んで復活した一粒の麦として、まったく新しい、この時間の限界を超えた形で、世とギリシア人と出会うことになる」。イエスは復活によって、空間と時間の限界を乗り越えます。復活したイエスは、広大な世と歴史を歩みます。そうです。復活したイエスは、ギリシア人のところに行って、彼らと語り、ご自分を示します。こうして、遠く離れていたギリシア人は近づきます。そして、まさに彼らのことばと文化によって、イエスのことばが新たなしかたで伝えられ、理解されるようになります。そして、イエスの国が到来します。こうしてわたしたちはイエスの国の二つの根本的な特徴を知ることができます。第一の特徴は、この国が十字架を通っていくということです。ご自分のすべてをささげたからこそ、復活したイエスはすべての人に属する者となり、すべての人にご自分を現すことができるのです。わたしたちは聖体のうちに、死んだ一粒の麦を与えられます。このパンの増加は、世の終わりまで、あらゆる時代に続きます。第二の特徴はこれです。イエスの国は普遍的です。それはイスラエルの昔からの希望を実現します。すなわち、ダビデの支配が国境を超えるということです。預言者ゼカリヤがいうとおり(ゼカリヤ9・10)、それは「海から海へ」及びます。すなわち、全世界を包みます。しかし、このことは、この支配が政治権力による支配でなくなり、ただ愛による自由な結合に基づくようになるときに、初めて可能になります。そして、この愛は、イエス・キリストの愛にこたえるものでなければなりません。イエス・キリストはすべての人のためにご自分をささげたからです。わたしたちは常にあらためて二つのことをともに学ばなければならないと、わたしは思います。何よりもまず普遍性、すなわちカトリック性です。つまり、だれも自分自身を、すなわち、自分の文化、時代、世界を絶対化できないということです。つまり、わたしたちは皆、互いに受け入れ合い、自分の何かを放棄しなければなりません。普遍性は十字架の神秘を含みます。十字架の神秘とは、自分自身を乗り越えて、共通の教会における、イエス・キリストの共通のことばに従うということです。普遍性は、常に自分自身を乗り越え、自分個人の何かを放棄することです。普遍性と十字架はともに歩みます。このようにして初めて平和を作り出すことができるのです。
 死んだ一粒の麦についてのことばは、ギリシア人に対するイエスのこたえの一部をなしています。それはイエスのこたえです。しかし、その後、イエスは、人生の根本的法則をあらためて定式化します。「自分のいのちを愛する者は、それを失うが、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至る」(ヨハネ12・25)。自分だけのために人生を送り、自分だけのために生き、すべてを自分のものとし、あらゆる可能性を使い尽くそうとする者――そのような人こそが、いのちを失います。そのような人生は退屈で空虚なものとなるからです。自分を捨て、あなたのために自己を私心なくささげ、偉大ないのち、すなわち神のいのちに「はい」ということによって、初めてわたしたちのいのちも大きく広げられます。それゆえ、主が定めたこの根本原則は、究極的に、愛の原則と同じものにほかなりません。実際、愛とは、自分を後回しにし、自分をささげることです。自分を所有することを望まず、むしろ、自分から自由になることです。つまり、自分と、自分のものになるものに目を向けず、前を向いて、自分以外の者に向かうことです。神と、神がわたしに遣わす人々に向かうことです。この愛の原則が人間の歩みを定めます。この原則も、十字架の神秘と同じです。十字架の神秘とは、わたしたちがキリストのうちに見いだす、死と復活の神秘です。親愛なる友人の皆様。このすばらしい根本的な人生観を受け入れることは比較的簡単かもしれません。しかし、具体的な現実において大事なのは、ただ原則を知ることだけではありません。むしろ大事なのは、その真理を生きることです。十字架と復活の真理を生きることです。そして、そのためにも、一回のすばらしい決断だけでは不十分です。勇気を出して、一度、立派な根本決断を行うことはたしかに大事です。勇気を出して大きく「はい」ということは大事です。主はわたしたちの人生のある時期にこのことを求めます。しかし、人生の決定的なときにおいてこのように大きく「はい」ということ――主がわたしたちに示す真理に「はい」ということ――を、その後、毎日のあらゆる状況の中で、日々、繰り返さなければなりません。わたしたちは毎日の状況の中で、自己にしがみつきたいときにこそ、あらためて自己を放棄し、自分をささげなければならないからです。犠牲と自己放棄も、正しい生活の一部です。このようにしていつも自分をささげることのない人生を優先する人は、人々を裏切ります。犠牲なくして人生の成功はありえません。わたしも、自分の人生を振り返って、自己放棄することに「はい」といったときこそが、自分の人生にとってすばらしく、重要なときだったといわなければなりません。
 最後に、聖ヨハネは、「枝の主日」のための主のことばに関する記述の中に、オリーブ山でのイエスの祈りを修正したものを挿入します。この祈りはまず初めに述べます。「わたしは心騒ぐ」(ヨハネ12・27)。ここにイエスの恐れが現れます。他の三人の福音書記者はこの恐れを詳しく述べます。イエスの恐れは、死の力に対する恐れです。イエスが目の当たりにし、そこに下りていかなければならない悪の深淵に対する恐れです。主はわたしたちとともに、わたしたちの苦しみを受けます。主は、わたしたちが最後の苦しみを経て光と出会うまで、わたしたちとともに歩みます。それから、ヨハネでは、イエスの二つの問いかけがこれに続きます。第一の問いかけは、条件文でのみ語られます。「何といおうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』といおうか」(ヨハネ12・27)。イエスは人間として、受難の恐怖を免除してくださいと願う促しも感じました。わたしたちもこのように祈ることができます。わたしたちもヨブのように主の前で嘆き悲しむことができます。世界の不正や自分自身の困難を前にして、心の中に生まれるあらゆる願いを主にささげることができます。いつわりの世において、主の前で信心深い祈りのことばに逃げ込む必要はありません。祈りは常に神との戦いでもあります。わたしたちはヤコブとともに神にこういうことができます。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」(創世記32・27)。しかし、その後、イエスの第二の願いが語られます。「み名の栄光を現してください」(ヨハネ12・28)。共観福音書ではこの願いは次のように述べられます。「わたしの願いではなく、み心のままに行ってください」(ルカ22・42)。最終的に常にもっとも大事なのは、神の栄光であり、神が主であることであり、神のみ旨です。それはわたしの思いや望みよりも真実だからです。わたしたちの祈りと生活の中で根本的なのもこのことです。すなわち、このようなあるべき正しいおきてを理解し、心に受け入れること。神に信頼し、神が正しいことをしてくださると信じること。神のみ旨は、真理と愛であると信じること。このおきてに忠実に従うことを学ぶなら、人生は幸せなものとなると信じることです。イエスの生涯と死と復活は、わたしたちが本当に神に身をゆだねることができることを保証してくれます。このようにしてイエスの国は実現するのです。
 親愛なる友人の皆様。このミサの終わりに、オーストラリアの若者がワールドユースデーの十字架をスペインの若者に手渡します。十字架は、多くの海を越え、南半球から北半球へと歩んできました。わたしたちも十字架とともに歩んできました。十字架とともに道を進んでいき、そこから、自分の道を見いだそうではありませんか。十字架に触れるとき、それどころか、十字架を担うとき、わたしたちは神の神秘に触れます。イエス・キリストの神秘に触れます。それは、神が、その独り子をわたしたちのためにお与えになったほどに、世を――わたしたちを――愛してくださったという神秘です(ヨハネ3・16参照)。わたしたちは神の愛という驚くべき神秘に触れます。この神秘は、真に救いをもたらす唯一の真理です。しかし、根本的な法則にも触れようではありませんか。それはわたしたちの人生を築く規範です。すなわち、十字架に対して「はい」といわなければ、日々、キリストと一致して歩まなければ、人生は成功しないという法則です。偉大な真理と偉大な愛に対する愛のゆえに――真理と神の愛への愛のゆえに――何らかの自己放棄をすることができればできるほど、人生はいっそう偉大で豊かなものとなります。自分のいのちを自分のために保つ者は、それを失います。偉大な決断の一部である、日々の小さな行いを通してであれ、自分のいのちをささげる者は、それを見いだします。これはむずかしい真理ですが、深い意味ですばらしく、自由をもたらす真理でもあります。諸大陸を通る十字架の歩みとともに、少しずつ、この真理へと歩んでいこうではありませんか。どうか主がこの歩みを祝福してくださいますように。アーメン。

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