教皇ベネディクト十六世の主の晩餐のミサ説教

4月9日(木)午後5時30分から、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は聖木曜日の主の晩餐のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 
 「主イエスはわたしたちすべての救いのために受難を受ける前夜、すなわち今日、・・・・パンを取り(Qui, pridie quam pro nostra omniumque salute pateretur, hoc est hodie, accepit panem)」。今日、ミサの奉献文の中で、わたしたちはこのように唱えます。聖木曜日の典礼は祈りの式文に「今日」ということばを挿入することによって、この日の特別な地位を強調します。まさに「今日」、主はこのことをなさいました。主はご自分の御血と御からだの秘跡のうちに、ご自分を永遠にわたしたちに与えられたのです。この「今日」は何よりもまず、かつて行われた過越の記念です。にもかかわらず、それはそれ以上の意味をもっています。この奉献文によって、わたしたちはこの「今日」に歩み入ります。わたしたちの今日は、イエスの「今日」に触れるようになります。イエスはまさに今、このことをなさいます。「今日」ということばによって、教会の典礼は、わたしたちがこの日の神秘と、その神秘を表すことばとに、深く内的な注意を注ぐよう望みます。それゆえわたしたちは、教会が聖書に基づいて、主ご自身を観想しながら定式化した形による聖体の制定の記事にあらためて耳を傾けたいと思います。
 まず印象的なのは、制定の記事が独立した句ではなく、「彼(主イエス)は・・・・前夜(qui pridie)」と関係代名詞で始まることです。「彼(qui)」は、記事全体を、これに先立つ祈りのことばと結びつけます。すなわち、「わたしたちのためにあなたの最愛の子、主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」です。こうして制定の記事は、これに先立つ祈りと、奉献文全体と関連づけられます。そして、この記事そのものも祈りとなります。制定の記事は、単なる挿入された記事でも、祈りを中断させる恐れのある、独立した権威あることばでもありません。秘跡制定句は祈りそのものです。そして、祈りを通して初めて、司祭は聖別のわざを果たします。このわざが、わたしたちのパンとぶどう酒の供えものを、キリストの御からだと御血へと聖変化、すなわち実体変化させます。教会はこの中心的なときに祈りながら、二階の広間で起こった出来事と完全に一致します。なぜなら、イエスの行為は次のことばで記されるからです。「感謝をささげて祝福し(gratias agens benedixit)」。この表現によって、ローマ典礼は「ベラカー(祝福)」というヘブライ語で一語のことばを、二つのことばに分けました。「ベラカー」はギリシア語で「エウカリスティア(感謝)」と「エウロギア(祝福)」という二つのことばで訳されるからです。主は感謝をささげます。わたしたちは感謝するとき、あるものが別の人から与えられた恵みであることを認めます。主は感謝しながら、それによって、「大地の恵み、労働の実り」であるパンを神に返します。それは、このパンを新たに神から与えられるためです。感謝は祝福になります。わたしたちが神のみ手にささげた供えものは、祝福され、聖変化して神から返し与えられます。それゆえ、ローマ典礼は適切にもこの聖なるときに唱えられる祈りを、次のことばで翻訳します。「神よ、これを祝福し、受け入れ、まことのささげものにしてください」。これらすべてのことが、「エウカリスティア」ということばの中に隠されているのです。
 今、わたしたちが考察しようとしている、ローマ典文に取り入れられた制定の記事には、もう一つの特徴があります。教会は祈りながら、主のみ手と御まなざしに目を注ぎます。教会は、主を見つめ、この特別な時に際しての主の祈り方、振る舞い方を見、いわば感覚を通してもイエスというかたと出会おうとしているかのようです。「主イエスは・・・・とうとい手にパンを取り」。主のみ手に目を注ごうではありませんか。主はこのみ手で人々をいやしました。このみ手で子どもたちを祝福しました。このみ手を人々の上に置きました。このみ手が十字架に釘づけにされました。このみ手には、進んで死に赴いた愛のしるしである傷痕がいつまでも残っています。今わたしたちは、主がなさったことを行う務めを負っています。すなわち、手にパンを取り、感謝の祈りによってパンを聖変化させるということです。司祭叙階のとき、わたしたちの手には油が塗られます。それは、わたしたちの手が祝福する手となるためです。このときにあたり、主に祈りたいと思います。どうかわたしたちの手が、救いをもたらすため、祝福をもたらすため、主のいつくしみを現存させるためにいっそう役立つものとなりますように。
 さらに奉献文は、イエスの「大祭司の祈り」の導入部(ヨハネ17・1参照)から次のことばをとっています。「天に向かって全能の神、その父あなたを仰ぎ」。主はわたしたちに教えます。目と、何よりも心を上げなさい。目を上に上げて、この世のことがらに向けないようにしなさい。神への祈りへと自分を方向づけ、そこから、自分を高めなさい。時課の典礼の賛歌の中で、わたしたちは主に願います。どうかわたしたちの目を守ってください。わたしたちの目が「さまざまな空しいもの(vanitates)」、すなわち、つまらないもの、見せかけにすぎないものを受け入れ、心に入れることがありませんように。祈りたいと思います。悪がわたしたちの目から入り、わたしたちの存在そのものを偽らせ、汚すことがありませんように。むしろわたしたちは何よりも祈りたいと思います。すべて真実であり、光であり、善であることを見る目をもつことができますように。そして、この目が世における神の現存を見ることができますように。祈りたいと思います。世を愛のまなざしをもって、すなわち、イエスのまなざしをもって見ることができますように。そして、そこから、わたしたちの助けを必要とし、わたしたちのことばと行いを期待している兄弟姉妹を見分けることができますように。
 主は、祝福を行った後、パンを裂いて、弟子に与えました。パンを裂くのは一家の父親が行う行為です。父親は子どもの面倒を見、生活に必要なものを子どもたちに与えるからです。しかし、それは歓迎の行為でもあります。この行為によって、旅人、客人は一家に受け入れられ、家族と生活を共有するからです。分け(dividere)、分かち合う(con-dividere)ことは、一致させることです。分かち合うことを通じて、交わりが生まれます。主はパンを裂くことによって、ご自身を分かち与えました。裂くという行為は、神秘的な意味で、主の死を、すなわち死に至るまでの愛をも暗示します。主はご自身を分け与えます。「世を生かすための」まことの「パン」(ヨハネ6・51参照)を分け与えます。人が心の奥底から必要としている糧は、神ご自身との交わりです。イエスは感謝をささげて祝福しながら、パンを変化させます。イエスが与えるのは、もはや地上のパンではなく、ご自身との交わりです。しかし、この変化は、世の変容の始まりとなることを目指します。それは、世が、復活の世、神の世となるためです。たしかにそれは変容だといえます。聖別され、変化し、聖変化したパンのうちに、新しい人、新しい世が始まるからです。
 今述べたように、パンを裂くことは、交わりの行為であり、分かち合いによって一致をもたらす行為です。ですから、この行為自体のうちに、すでに聖体の内的本質が示されます。聖体は「アガペー(愛)」です。それも肉体となった愛です。「アガペー」ということばのうちに、聖体と愛の意味が浸透し合います。パンを裂くというイエスの行為のうちに、分かち合われた愛は限りなく徹底的な形をとります。イエスは生きたパンとしてご自身を裂かせるからです。わたしたちは、与えられたパンのうちに、死んで多くの実を結ぶ一粒の麦の神秘を見いだします。わたしたちは新たなパンの増加を見いだします。このパンの増加は、一粒の麦の死から始まって、世の終わりまで続きます。同時にわたしたちは、聖体(感謝の祭儀)が単なる典礼行為ではありえないことを知ります。聖体は、典礼としての「アガペー(愛餐)」が日常生活における愛となったときに初めてまっとうされます。礼拝行為の中で主の恵みを受けることと、隣人への愛を実践すること――この二つが、キリスト教の典礼の中で一つになります。このときにあたり、主に願おうではありませんか。聖体の神秘をいっそう深く生きることを学ぶ恵みを与えてください。それは、世の変容が始まるためです。
 パンの後、イエスはぶどう酒の杯を取ります。ローマ典文は主が弟子に与えた杯を「光栄ある杯(praeclarus calix)」と呼びます。このことばは、詩編23を暗示します。詩編23は、神は力強いよい羊飼いであると述べる詩編です。そこにはこう述べられています。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。・・・・わたしの杯をあふれさせてくださる」。これが「光栄ある杯(calix praeclarus)」です。ローマ典文はこの詩編のことばを預言と解釈します。この預言は聖体によって成就しました。そうです。主はこの世の敵のただ中でわたしたちに食卓を整えてくださいます。そして、光栄ある杯を与えてくださいます。それは大きな喜びの杯であり、すべての人が待ち望んでいたまことの祭の杯です。この杯は、主の愛のぶどう酒で満たされます。杯は婚礼を意味します。今こそ、カナの婚礼が神秘的な形で暗示していた「時」が来ました。まことに感謝の祭儀は、単なる祝宴以上の、婚礼の祭です。この婚礼は、死に至るまでの神の自己贈与に基づきます。最後の晩餐におけるイエスのことばと教会の奉献文の中で、婚礼の荘厳な神秘は「新しい契約(novum Testamentum)」という表現のもとに隠れています。この杯は新しい契約、すなわち、「わたしの血によって立てられる新しい契約」です。聖パウロが今日の第二朗読で、杯についてのイエスのことばとして伝えるとおりです(一コリント11・25)。ローマ典文は続けて「新しい永遠の契約」といいます。それは、神と人類の婚姻の絆が解消しえないものであることを表すためです。聖書の古い翻訳が「盟約(Alleanza)」ではなく「契約(Testamento)」というのは、ここで語られる契約は、対等の契約者が結ぶ契約ではなく、無限の隔たりをもつ神と人との契約だからです。「新しい永遠の契約」と呼ばれるものは、対等な契約者が結ぶ協約ではなく、ひたすら神の与えるたまものです。神はわたしたちに愛を、すなわちご自身を、遺産として残してくださったからです。たしかに、この愛のたまものを通して、神はあらゆる隔たりを超えて、わたしたちを真の意味での「相手」としてくださいました。こうして愛の婚姻の神秘が実現したのです。
 ここで行われることを深く理解するために、わたしたちは聖書のことばとその本来の意味にあらためて注意深く耳を傾けなければなりません。専門家のいうところによれば、イスラエルの太祖についての歴史が語る古代において、「契約を結ぶ」とは、「血による絆を他の人と結ぶこと、あるいは、他の人を自分の連合に迎え入れ、互いに権利を有する交わりに入ること」を意味しました。こうして、肉体的な意味ではないものの、現実の血のつながりが生まれました。契約者はある意味で「同じ肉と骨をもった兄弟」となりました。契約は一致をもたらし、この一致は平和を意味しました(ThWNT II 105-137参照)。ここからわたしたちは、最後の晩餐の際に行われたこと、そして、それ以来、わたしたちが感謝の祭儀を祝うたびにあらためて行われることに関して、少なくともその要点を知ることができるのではないでしょうか。神、それも生ける神が、わたしたちと平和の絆を結んでくださったのです。いいかえれば、神はご自身とわたしたちの間に「血のつながり」を作ってくださったのです。イエスが受肉し、ご自身の血を注いでくださったことによって、わたしたちはイエスとの血のつながりへと、そこから、神ご自身との血のつながりへと引き寄せられました。イエスの血は、イエスの愛です。この愛によって神のいのちと人間のいのちが一つになります。主に祈りたいと思います。この偉大な神秘をもっと深く理解できるようになりますように。どうかわたしたちのうちで、すべてを変容させる主の力が強まりますように。こうして、わたしたちが真の意味でイエスと血のつながった者となり、イエスの平和で満たされ、互いの一致を深めることができますように。
 しかし、ここでさらなる疑問が生まれます。キリストは二階の広間で、ご自分のからだと血を弟子たちにお与えになりました。つまり、ご自分の存在をすべてお与えになりました。しかし、そのようなことが可能でしょうか。イエスはまだ弟子たちのただ中に肉体的な意味で存在しておられます。イエスは弟子たちの前に立っておられるのです。こたえはこうです。そのときイエスは、先に「よい羊飼い」の講話の中で告げたことを実現したのです。「だれもわたしからいのちを奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしはいのちを捨てることもでき、それを再び受けることもできる。・・・・」(ヨハネ10・18)。だれもイエスからいのちを奪い取ることはできません。イエスは自由な決断によってそれを捨てます。最後の晩餐のとき、イエスは十字架と復活を先取りました。イエスは、後にいわば肉体的な意味でご自身によって実現することを、ご自分の自由な愛によってすでに先取りして実現したのです。イエスはご自分のいのちを与え、復活によってそれを再び取り戻します。それは、ご自分のいのちを永遠に分け与えることが可能になるためです。
 主よ。今日あなたはわたしたちにあなたのいのちを与えてくださいます。あなたはわたしたちにご自身を与えてくださいます。あなたの愛でわたしたちを貫いてください。わたしたちがあなたの「今日」を生きることができるようにしてください。わたしたちをあなたの平和の道具にしてください。アーメン。

略号
ThWNT Theologisches Wörterbuch zum Neuen Testament

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