教皇ベネディクト十六世の復活徹夜祭ミサ説教

4月11日(土)午後9時から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は復活徹夜祭のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。
このミサの中で、教皇は、5名の洗礼志願者(イタリア人女性2名と男性1名、中国人女性1名、米国人女性1名)に洗礼と堅信を授けました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 聖マルコは福音書の中でわたしたちに語ります。弟子たちは、主の変容の山から下りるとき、「死者の中から復活する」とはどういう意味かと論じ合っていました(マルコ9・10参照)。その直前に、主は、ご自分の受難と、三日後の復活についてあらかじめ告げました。ペトロはこの死の予告に反対しました。しかし、今、彼らは「復活」ということばが何を意味するのだろうと自らに問いかけました。わたしたちにも同じことが起こるのだろうか。ご降誕、すなわち、神である幼子が生まれることを、わたしたちはある意味ですぐに理解できます。わたしたちは幼子を愛することができます。ベツレヘムの夜、マリアの喜び、聖ヨセフと羊飼いたちの喜び、天使たちの大きな喜びを想像できます。しかし、復活とはいかなることでしょうか。復活はわたしたちの経験の範囲内のことではありません。そのため、復活のメッセージはしばしば、ある意味で理解を超えた、過去の出来事にとどまってしまいます。教会はわたしたちを理解に導こうとして、象徴的な言語によってこの神秘的な出来事を表現します。わたしたちは象徴的な言語によってこの驚くべき出来事をある程度仰ぎ見ることができるからです。復活徹夜祭に、教会は特に三つの象徴を通じてこの日の意味を示します。すなわち、光と水と新しい歌、すなわち「アレルヤ」です。
  まず光です。たった今、聖書朗読の中で読まれたとおり、神の創造はこのことばで始まります。「光あれ」(創世記1・3)。光のあるところに、いのちが生まれます。混沌(カオス)は秩序ある宇宙(コスモス)に造り変えられます。聖書のメッセージの中で、光はもっとも直接に神を表すたとえです。神は完全な輝きであり、いのちであり、真理であり、光です。復活徹夜祭に、教会は預言書として創造の物語を朗読します。復活のうちに、このテキストが万物の始まりとして述べたことが最高の形で行われます。神はあらためていいます。「光あれ」。イエスの復活は光の爆発です。死は打ち負かされ、墓は開かれます。復活したかたは光です。世の光です。復活によって、主の光が歴史の暗闇にもたらされます。復活から始めて、神の光が世と歴史の中に広がります。光が上ります。この光だけが、すなわち、イエス・キリストだけが、物理現象としての光を超えた、まことの光です。イエス・キリストは純粋な光です。すなわち、神そのものです。神は、かつて創造されたもののただ中で、新しい創造を行い、混沌を秩序ある宇宙へと造り変えるからです。
  このことをもう少し理解してみたいと思います。キリストはなぜ光なのでしょうか。旧約において、律法(トーラー)は、世と人類のために神から来た光と考えられました。律法は被造物の中で、闇から光を、すなわち悪から善を引き離します。律法は人間に、まことのいのちに至るための正しい道を示します。律法は善を示し、真理を明らかにして、人間を愛へと導きます。愛こそが律法のもっとも深い内容だからです。律法は歩みを照らす「灯(ともしび)」、道の「光」です(詩編119・105参照)。その後、キリスト者は知りました。キリストのうちに律法が実現したことを。神のことばがキリストのうちに人となって現存しているということを。神のことばは、人間が必要としているまことの光です。このみことばが、御子キリストのうちに現存します。詩編19は律法を太陽にたとえました。この太陽は高く上がって、全世界の人が目にすることができるように、神の栄光を現します。キリスト者は悟りました。そうです。復活によって、神の子は光として世に現れました。キリストは大いなる光です。この光からすべてのいのちが生まれます。キリストによって、地の果てから果てに至るまで、わたしたちは神の栄光を認めることができるようになります。キリストはわたしたちに道を示します。キリストは主の光です。この光は今や高く上がるにつれて、全地に広がります。今やわたしたちは、キリストとともに、キリストのために生きることによって、光の中を生きることができるようになりました。
  復活徹夜祭に、教会はキリストの光の神秘を、復活のろうそくのしるしによって表します。ろうそくの炎は、光であるとともに熱でもあります。光の象徴は、火の象徴と結ばれています。輝きと熱。輝きと、火に含まれる、ものごとを造り変える力。真理と愛。これらはともに歩みます。復活のろうそくは燃えて、なくなっていきます。十字架と復活は切り離すことができません。十字架から、すなわち御子の自己奉献から、光が生まれます。まことの輝きが世にもたらされます。わたしたちは皆、特に新受洗者は、復活のろうそくから自分のろうそくに光をともします。この洗礼の秘跡によって、キリストの光は新受洗者の心に深く差し入るからです。古代教会は洗礼を「照らし(フォーティスモス)の秘跡」、すなわち光を伝えることと呼びました。そして、洗礼をキリストの復活と不可分のしかたで結びつけました。洗礼の際、神は洗礼志願者にいいます。「光あれ」。洗礼志願者はキリストの光のうちに導き入れられます。今やキリストが光と闇を分けます。わたしたちはキリストのうちに、何が真実であり、何が偽りかを、また、何が光であり、何が闇なのかを見分けます。キリストとともに、わたしたちのうちに真理の光が生まれ、わたしたちは悟り始めます。あるときキリストは、群衆が、キリストの話を聞き、導きを得ようとしてやって来たのをご覧になり、あわれみを覚えられました。彼らが飼い主のいない羊のような有様だったからです(マルコ6・34参照)。当時、さまざまな教えが矛盾し合う中で、人々はどこに向かうべきか知りませんでした。現代においても、キリストはどれほど深いあわれみを覚えられることでしょうか。人々は長い議論の影に身を隠しながら、実際には方向づけを失っているからです。わたしたちはどこに向かうべきでしょうか。どのような価値観に従えば、正しく行動できるでしょうか。どのような価値観に従えば、抵抗できないような規範を与えたり、強制すべきでないことがらを強いたりすることなしに若者を教育することができるでしょうか。キリストは光です。洗礼のろうそくは、洗礼のときにわたしたちに与えられた照らしを表す象徴です。だから、このときにあたり、聖パウロもわたしたちにきわめて直接的な形で語ります。フィリピの信徒への手紙の中で聖パウロはいいます。よこしまな曲がった時代の中で、キリスト者は世の光のように輝かなければなりません(フィリピ2・15参照)。主に祈りたいと思います。主はわたしたちのうちに、こわれやすいろうそくの炎をともしてくださいました。この、現代の混乱の最中に置かれた主のことばと主の愛のかすかな光が、わたしたちのうちで消えることなく、かえって、ますます強く明るく輝きますように。こうしてわたしたちが、主とともに光の人となり、現代を照らす星となることができますように。
  洗礼の夜である、復活徹夜祭の第二の象徴は、水です。水は聖書の中に現れ、そこから、洗礼の秘跡の内的構造の中にも現れます。その際、水は二つの反対の意味をもちます。まず、海です。海は、地上のいのちに絶えず脅威を与え、敵対する力として現れます。しかし、神はこの脅威に限界を設けました。そのため黙示録はいいます。神の新しい世界では、もはや海はなくなります(黙示録21・1参照)。海は死の一部をなすものです。そこで海はイエスの十字架上での死を象徴的に表します。イスラエルが紅海を進んだのと同じように、キリストは海に、すなわち死の水の中に下ります。死から復活したキリストは、わたしたちにいのちを与えます。これは次のことを意味します。洗礼は単なる清めではなく、新たな誕生です。わたしたちはキリストとともにいわば死の海に下ります。それは、新しい被造物としてよみがえるためです。
  わたしたちが出会う水のもう一つのあり方は、いのちを与える新たな泉です。あるいは、いのちをもたらす大きな川です。初代教会の実践では、洗礼は泉から汲んだばかりの水で行わなければなりませんでした。水がなければ、いのちはありません。聖書の中で井戸がきわめて重要な意味をもつことは印象的です。井戸はいのちをもたらす場所です。キリストはヤコブの井戸のそばで、サマリアの女に新しい井戸のことを教えます。新しい井戸とは、まことのいのちの水です。キリストはサマリアの女に、ご自分が新しい決定的なヤコブであることを示します。このヤコブは人類のために、彼らが待ち望んでいた井戸を開きます。それは、尽きることのないいのちを与える水です(ヨハネ4・5-15参照)。聖ヨハネはわたしたちに語ります。一人の兵士が槍でイエスの脇腹を刺しました。すると、開いた脇腹から――すなわち、イエスの刺し貫かれた心から――血と水とが流れ出ました(ヨハネ19・34参照)。古代の教会はそこに洗礼と聖体の象徴を見いだしました。洗礼と聖体は、イエスの刺し貫かれた心からもたらされるからです。イエスは死によって、ご自身が泉となりました。預言者エゼキエルはある幻の中で、新しい神殿から泉が湧き出るのを見ました。この泉は大きな川となって、いのちをもたらしました(エゼキエル47・1-12参照)。常に乾燥と水不足に苦しむ地にあって、これは大きな希望をもたらす幻でした。初期キリスト教信者は、キリストのうちにこの幻が実現したことを悟りました。キリストは、まことの生ける神の神殿です。キリストは生きた水の泉です。キリストから大きな川が流れ出ます。この川は、洗礼によって世を新たにし、実りをもたらします。生きた水の流れる大きな川とは、大地を実らせるキリストの福音です。しかし、イエスは仮庵祭の説教の中で、さらに偉大なことを預言しました。「わたしを信じる者は・・・・その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7・38)。洗礼によって、主はわたしたちを光の人とするだけでなく、そこからいのちの水が流れ出る泉としてくださいます。わたしたちは皆、そのような人を知っています。それは、ある意味でわたしたちを生き返らせ、新たにしてくれる人々です。新鮮な水が湧き出る泉のような人々です。かならずしもアウグスチヌス(354-430年)、アッシジのフランシスコ(1181/1182-1226年)、アビラのテレサ(1515-1582年)、コルカタのマザー・テレサ(1910-1997年)などの偉大な人々を考える必要はありません。この人々を通じて、本当の意味で、生きた水の川が歴史の中に流れ込みました。有難いことに、わたしたちはこうした泉のような人々を日々の生活の中でも絶えず目にすることができます。たしかにわたしたちは、その反対の人が存在するのも知っています。それは古くなった水、そればかりか有毒な水の沼の臭いを撒き散らす人々です。洗礼の恵みを与えてくださった主に祈りたいと思います。どうか、いつも、主の真理と愛の源から湧き出る、清く新鮮な水の泉となる恵みを与えてください。
  復活徹夜祭の三番目の偉大な象徴は、きわめて独特の性格のものです。この象徴は人間自身とかかわります。すなわち、新しい歌である「アレルヤ」を歌うことです。大きな喜びを体験したとき、人はそれを自分のうちにとどめておくことができません。人はこの喜びを表し、伝えずにはいられません。しかし、人が復活の光に触れ、そこから、いのちであり、真理であり、愛そのものであるかたと出会ったとき、何が起こるでしょうか。その人は、ただそのことを話すだけではいられません。話すだけでは足りないからです。その人は歌わずにはいられません。聖書の中での最初の歌への言及は、紅海の渡渉の後に見いだされます。イスラエルは奴隷の状態から解放されました。イスラエルは恐ろしい深い海から引き上げられました。イスラエルはいわば生まれ変わりました。イスラエルは生きて、自由となりました。聖書はこの偉大な救いの出来事に対する民の反応を次のことばで記します。「民は・・・・主とそのしもべモーセを信じた」(出エジプト記14・31参照)。その後、これに続いて第二の反応が起こりました。この第二の反応は、ある種の内的必然性に基づいて、第一の反応から生じました。「モーセとイスラエルの民は主を賛美して歌を歌った」。毎年、復活徹夜祭に、わたしたちキリスト信者は第三朗読の後にこの歌を歌います。しかもこの歌を自分たちの歌として歌います。なぜなら、わたしたちも、神の力によって、水から引き上げられ、まことのいのちへと解放されたからです。
  イスラエルがエジプトから解放され、紅海から上がった後にモーセが歌を歌った物語と、聖ヨハネの黙示録の間には驚くべき類似があります。地上に最後の七つの災いが下され始める前に、幻を見る者は「火が混じったガラスの海のようなものを見た。さらに、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌った。・・・・」(黙示録15・2-3)。このたとえによって、あらゆる時代のイエス・キリストの弟子が置かれた状況が、すなわち、この世の歴史における教会の状況が示されます。人間の頭で考えると、このたとえは矛盾しています。まず、共同体は、出エジプトの紅海のただ中にいます。海は、逆説的にも、氷であると同時に炎です。教会も、いわば常に炎熱と寒さの中で、海の上を歩いていかなければならないのではないでしょうか。人間的にいうなら、教会は沈まずにはいません。しかし、まだ紅海のただ中を歩いているにもかかわらず、教会は歌います。正しい人が歌う、賛美の歌を歌います。それはモーセの歌と小羊の歌です。この歌の中で、旧約と新約が声を合わせます。教会は、結局、沈むほかないにもかかわらず、救われたことを感謝する歌を歌います。教会は歴史の死の海の上に立っています。にもかかわらず、教会はすでに復活しています。教会は歌いながら、主のみ手をつかみます。すると主は、教会を水から引き上げてくださいます。そこで教会は知ります。わたしはこうして死と悪の重力から解放されました。それ以外に、この重力から逃れる手段はありません。そして、このように解放されたわたしは、神の新しい重力へと、すなわち、真理と愛の重力へと引き寄せられました。今も教会はこの二つの重力場の間に置かれています。しかし、ひとたびキリストが復活した今、愛の重力は憎しみの重力よりも強力です。いのちの重力は死の重力よりも強力です。もしかすると、これが本当の意味で、あらゆる時代に教会が置かれた状況ではないでしょうか。教会はいつも沈まずにはいられないように思われます。にもかかわらず、教会はすでに救われています。聖パウロはこの状況を次のことばで説明しました。「わたしたちは死にかかっているようで、このように生きています」(二コリント6・9)。主の救いの手がわたしたちを支えます。こうしてわたしたちは、すでに今、救いの歌を歌うことができます。復活した者の新しい歌を。アレルヤ。アーメン。

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