教皇ベネディクト十六世の教皇庁聖書委員会総会参加者へのあいさつ

教皇ベネディクト十六世は、4月23日(木)正午から教皇庁の教皇の間で教皇庁聖書委員会総会参加者30名との謁見を行いました。以下は謁見における教皇のあいさつの全文の翻訳です(原文イタリア語)。教皇庁聖書委員会総会は4月20日(月)から24日(金)までバチカンのドムス・サンクタエ・マルタエで開催されました。


  枢機卿と司教の皆様
  敬愛すべき教皇庁聖書委員会委員の皆様

 今年の皆様の総会の終わりに再び皆様をお迎えできたことをうれしく思います。ごあいさつとともに、皆様の会議で注意深い考察の対象とされたテーマを簡潔にご紹介くださったウィリアム・レヴェイダ枢機卿に感謝します。皆様は「霊感と聖書の真理」というきわめて重要な問題を深く考察するためにあらためて会議を開催されました。この問題は神学だけでなく教会そのものとかかわります。なぜなら、教会生活と宣教は神のことばを基礎としなければならないからです。神のことばは、神学の魂であると同時に、キリスト教生活全体に霊感を与えます。さらに、皆様が取り上げたテーマは、わたしが特に心に抱いている関心にこたえるものです。なぜなら、聖書解釈はキリスト教信仰と教会生活にとってもっとも重大なことがらだからです。
  委員長の(レヴェイダ)枢機卿が述べたとおり、教皇レオ十三世(在位1878-1903年)は回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』の中で、霊感、真理、聖書解釈学という問題に関する新たな励ましと方向づけを釈義学者に示しました。後にピオ十二世(在位1939-1958年)は回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』によってそれまでの教えを総合し、カトリックの釈義学者に促しました。カトリックの教えに完全に従った解決を見いだしなさい。そのために、最近発達した新しい解釈の方法の積極的な意義を適切なしかたで考慮に入れなさいと。この二人の教皇が聖書研究に与えた力強い刺激は、(レヴェイダ)枢機卿が述べたとおり、第二バチカン公会議において完全な意味で確認され、さらに発展させられました。こうして全教会はそこから恩恵を与えられましたし、今も与えられ続けています。特に『神の啓示に関する教義憲章』は、現代においてもカトリックの釈義学者の作業を照らし、司牧者と信者が神のことばの食卓からいっそう熱心に糧を得るようにと招きます。このことに関して公会議は何よりもまず、神が聖書の著者であると述べます。「聖書に含まれ、かつ示されている神の啓示は、聖霊の霊感によって書かれたものである。とうとき聖なる教会は、旧約および新約の全部の書をそのすべての部分を含めて、使徒的信仰に基づき、聖なるもの、正典であるとしている。なぜならばそれらの書は、聖霊の霊感によって書かれ、神を作者とし、またそのようなものとして、教会に伝えられているからである」(『神の啓示に関する教義憲章』11)。それゆえ、霊感を受けた著者と聖書記者が述べたことは皆、目に見えない、すべてを超えた著者である聖霊が述べたことだとみなされます。したがって、次のことを認めなければなりません。「聖書は、神がわれわれの救いのために書かれることを望んだ真理を堅く、忠実に、誤りなく教える」(同11)のです。
  神の霊感と聖書の真理を正しく示すことから、解釈に直接かかわるいくつかの規範が生じます。『神の啓示に関する教義憲章』自身、神が聖書の著者であることを述べた後、わたしたちに次のことを思い起こさせます。神は聖書の中で人間の様式に従って人間に語りかけます。そして、この神と人間とが協働することが、きわめて重要です。神は人間的なしかたで実際に人間に語りかけるのです。ですから、聖書を正しく解釈するためには、聖書記者が本当に何をいおうとしたか、神は人間のことばを通じて何を示そうとされたかを、注意深く探求することが必要です。「実際、かつて永遠の父のみことばが、人間の弱い肉をとって、人々に似たものとなったように、人間の用語で表された神のことばは、人間の話に酷似するものとなっている」(『神の啓示に関する教義憲章』13)。ここで示されたことは、現代の釈義の第一の次元である歴史的・文学的な性格での正しい解釈にとって大いに必要ですが、さらにそれは、霊感と聖書の真理に関する教えの前提とのつながりを必要としています。実際、聖書は霊感を受けて書かれたものなので、正しい解釈のための最高の原則が存在します。この原則なしには聖書は単に過去についての死んだ文字となってしまうからです。「聖書は、それが書かれたのと同じ霊の光のもとに読まれ、解釈されなければならない」(同12)。
  このことに関連して、第二バチカン公会議は、聖書に霊感を与えた聖霊と一致して聖書を解釈するために常に有効な、三つの基準を示します。何よりもまず、聖書全体の内容と一体性に深く留意しなければなりません。聖書はその一体性において初めて聖書であるといえます。実際、たとえどれほどさまざまな書から成っていても、聖書は、神の計画が唯一であることによって唯一です。神の計画の中心また核心は、キリスト・イエスです(ルカ24・25-27、ルカ24・44-46参照)。第二に、教会全体の生きた伝統との連関のうちに聖書を読まなければなりません。オリゲネス(180頃-254年頃)が述べたとおり、「聖書は物質的な道具によって書かれる前に教会の心のうちで書かれた(Sacra Scriptura principalius est in corde Ecclesiae quam in materialibus instrumentis scripta)」のです。実際、教会は聖伝によって神のことばの生きた記憶を伝え、聖霊は霊的な意味に従った神のことばの解釈を教会に与えます(『レビ記講話』:Homiliae in Leviticum 5, 5参照)。第三の基準として、信仰の類比に留意しなければなりません。信仰の類比とは、信仰の真理が、相互において、また啓示の計画全体、すなわち啓示に含まれた神の救いの計画全体と一貫していることです。
  さまざまな方法によって聖書を研究する人々の使命は、今述べた原則に従って、聖書の意味を深く理解し、説明できるようにすることです。聖書の学問的研究は重要ですが、それだけでは不十分です。なぜなら、学問的研究は人間的な次元だけを尊重するからです。教会の信仰の一貫性を尊重するために、カトリックの釈義学者は、教会の信仰そのものの中で、聖書のテキストのうちに神のことばを見いだそうと努めなければなりません。この不可欠な基準を欠くなら、釈義研究は不完全なものにとどまり、主要な目的を見失い、単なる文献的解釈に陥る恐れがあります。こうした解釈において、真の著者である神は姿を消してしまいます。さらに、聖書解釈は単なる独立した学問となることなく、常に教会の生きた伝統に照らされ、接ぎ木され、確認されなければなりません。この規範は、釈義と教会教導職の正しい相互関係を確かめるために決定的に重要です。カトリックの釈義学者は、自分が学界に属することを自覚するだけでなく、何よりあらゆる時代の信仰者の共同体にも属することを自覚しなければなりません。実際、聖書は「人間の好奇心を満足させるため、また学問的研究対象を提供するため」(『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』:Divino afflante Spiritu, EB 566〔和田幹男訳。ただし表現を一部改めた〕)に個々の研究者や学界に与えられているのではありません。神から霊感を与えられた聖書は、まず信仰者の共同体、すなわちキリストの教会にゆだねられました。信仰生活を養い、愛に基づく生活を導くためです。この目的を尊重することが、聖書解釈学が有意味なものとなり、効果を上げるための前提です。回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』はこの基本的な真理を思い起こしながらいいます。この規範を尊重することは、聖書研究の妨げになるどころか、むしろその真正な意味での発展を奨励します。こういうこともできます。信仰に基づく解釈学は、神を知らない合理的解釈学よりも、聖書の現実に深くこたえます。
  実際、教会に忠実であるとは、偉大な聖伝の流れの中に身を置くことです。聖伝は、教導職に導きの下に、正典文書を神がご自分の民に語りかけたことばとして認め、たえずこのことばを黙想し、その汲み尽くすことのできない富を見いだしてきました。第二バチカン公会議はこのことをはっきりと再確認しました。「聖書解釈に関するこれらすべてのことは、結局は神のことばを保存し、解釈する神的命令と使命とを果たす教会の判断の下に置かれている」(『神の啓示に関する教義憲章』12)。今挙げた『神の啓示に関する教義憲章』が思い起こさせてくれるとおり、聖書と聖伝の間には切り離すことのできない一体性があります。なぜなら、この二つはともに同じ源泉に由来するからです。「したがって聖伝と聖書とは互いに堅く結ばれ、互いに共通するものがある。なぜならば、どちらも同一の神的起源をもち、ある程度一体をなし、同一の目的を指している。実際、聖書は、聖霊の霊感によって書かれたものとしての神のことばである。そして、聖伝は、主キリストと聖霊から使徒たちに託された神のことばを余すところなくその後継者に伝え、後継者たちは、真理の霊の導きの下に、説教によってそれを忠実に保ち、説明し、普及するようにするものである。教会が啓示されたすべてのことについて自分の確信を得るにあたって、聖書だけに頼らないのはそのためである。それゆえ、どちらも同じ敬謙と敬意をもって尊敬されるべきものである」(『神の啓示に関する教義憲章』9)。ご存じのように、この「同じ敬謙と敬意をもって(pari pietatis affectu ac reverentia)」ということばは聖バジリオ(330頃-379年)が作ったものです。後にそれが『グラティアヌス教令集』(Decretum Gratiani)に採録され、そこから、トリエント公会議、さらに第二バチカン公会議で引用されました。このことばはまさにこの聖書と聖伝が互いに浸透し合っていることを表します。教会との関連のうちに初めて、聖書を真正な意味での神のことばとして理解することが可能となります。神のことばは、教会生活の導き、規範、規則となり、信者を霊的に成長させるからです。すでに述べたとおり、このことは真剣な学問的聖書解釈を妨げません。むしろそれは、文献批判だけでは近づくことのできない、キリストの深い次元に近づく可能性を開いてくれます。文献批判は、数世紀にわたって神の民全体の聖伝を導いてきた包括的な意味を、自分だけでは把握することができないからです。
  親愛なる教皇庁聖書委員会委員の皆様。このあいさつを終えるにあたり、わたし個人からの感謝と励ましを皆様に申し上げたいと思います。皆様が研究、教育、研究成果の出版を通じて、神のことばと教会に奉仕するため献身的に働いてくださっていることに心から御礼申し上げます。これに加えて、未踏の道を歩んでくださるよう皆様を励まします。さまざまな分野において学問研究がますます重要な意味をもつようになった世界の中で、聖書釈義学が適切な水準に達することが不可欠です。聖書釈義学は、信仰のインカルチュレーションの一分野です。信仰のインカルチュレーションは、受肉の神秘を受け入れることと一致する、教会の使命の一部だからです。親愛なる兄弟姉妹の皆様。主イエス・キリストは、受肉した神のことばであり、弟子たちの心を開いて聖書の意味を悟らせてくださる神なる師です(ルカ24・45参照)。このかたが皆様の考察を導き、支えてくださいますように。神のことばに素直に聞き従う模範であるおとめマリアが、聖書の汲み尽くすことのできない富をますます受け入れることができるように皆様を教え導いてくださいますように。聖書の富を受け入れることは、知的研究だけでなく、信者としての生活を通じても行われます。こうして皆様の作業と活動が、信じる人々に聖書の光をいっそう輝かせるために役立つものとなりますように。皆様の労苦を祈りによって支えることを約束しながら、神のいつくしみの保証として、心から使徒的祝福を皆様に送ります。

略号
EB Enchiridion Biblicum, ed. Pontificia Commissio Biblica, Roma 1961(4)

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