教皇ベネディクト十六世のローマ教区教会大会開会あいさつ

教皇ベネディクト十六世は、5月26日(火)午後7時30分から、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂でローマ教区教会大会を開会しました。以下は開会にあたって教皇が行ったあいさつの全文の翻訳です(原文イタリア語)。今年のローマ教区教会大会は5月26日から29日(金)まで開催されました。テーマは「教会への帰属と司牧的責任」でした。


  枢機卿の皆様
  敬愛すべき司教職と司祭職にある兄弟の皆様
  親愛なる男子・女子修道者の皆様
  親愛なる兄弟姉妹の皆様

 幸いな伝統を受け継ぎ、今年も教区教会大会を開催することができてうれしく思います。全教区共同体を代表してここにおられる皆様一人ひとりに、心からごあいさつ申し上げるとともに、皆様がなさっておられる司牧活動に深く感謝申し上げます。皆様を通じて、全小教区に使徒パウロのことばを用いて心からごあいさつ申し上げます。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(ローマ1・7)。皆様の気持を代弁してわたしに励ましのことばをくださり、補佐司教の皆様とともに、主がローマ司教としてわたしが果たすように招いた日々の使徒的奉仕においてわたしを助けてくださっている、ローマ教区の総代理の(アゴスティーノ・ヴァッリーニ)枢機卿に、心から感謝致します。
  たった今お話しくださったとおり、この10年の間に、ローマ教区は最初の3年間、家庭に注意を向けました。次の3年間に関心を向けたのは、若い世代の信仰教育でした。それは、すべての人にとって決して容易ではない課題である「教育の緊急な必要性」にこたえるためでした。最後に、再び教育に目を向けながら、回勅『希望による救い』に促されて、皆様は希望を教えるというテーマを考察されました。わたしは、主がわたしたちにたくさんのよいことを果たすことを可能にしてくださったことについて、皆様とともに感謝します。特にわたしは、自分にゆだねられた共同体を導くために惜しみなく努力しておられる主任司祭と司祭の皆様に思いを致しています。そして、皆様がこれまでの歩みを検証するために時間をとる司牧的決断をされたことに感謝申し上げたいと思います。それは、過去の経験に照らして、日々の司牧活動におけるいくつかの根本的な分野に焦点を当て、こうした分野をいっそうはっきりさせ、共有できるようにするためです。皆様が全小教区と他の教会活動でこの数か月間行ってこられたこうした取り組みに基づいて、わたしたちは、わたしたちが教会として存在すること、そして、わたしたちが皆、キリストの名で司牧的共同責任を果たすよう招かれていることをあらためて自覚しなければなりません。今わたしが考察したいのは、まさにこうした側面にほかなりません。
  第二バチカン公会議は、2000年にわたって発展してきた教会に関する教えを純粋かつ完全なしかたで伝えることを望んで、教会に「さらに深く考察を加えた定義」を与えました。そのために公会議は何よりもまず、教会の神秘的な性格を、すなわち「神の現存に浸され、そこから常に新たな探求を行うことを可能にする現実」(パウロ六世「第2会期開会演説(1963年9月29日)」)を示しました。さて、教会は、三位一体の神を起源としているので、交わりの神秘です。教会は、交わりなので、単なる霊的な存在ではなく、歴史の中に、すなわち、いわば肉と骨において生きています。第二バチカン公会議は、教会が「いわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である」(『教会憲章』1)と述べます。秘跡の本質は、目に見えないものが目に見えるものにおいて触れられるようになり、触れることのできるようになった目に見えるものが神ご自身へと門を開くことにあります。わたしは、教会は交わりだといいました。すなわち、教会は、聖霊のわざによって、神の民を築く人々の交わりです。神の民とは、同時にキリストのからだでもあります。この二つのキーワードについて少し考えてみたいと思います。「神の民」という概念は旧約において生まれ、発展しました。神は人間の歴史的現実の中に入るために、イスラエルの民という特定の民を選びました。それは、この民を自分の民とするためです。この特別な選択を行った目的は、わずかな人々を通じて、多くの人に達し、多くの人からすべての人に達するためです。いいかえると、神の特別な選びのめざしているのは、普遍性です。この民を通じて、神は現実に具体的な形で歴史の中に入りました。そして、この普遍性への開きは、キリストの十字架と復活において実現しました。聖パウロがいうとおり、キリストは十字架によって隔ての壁を取り壊しました(エフェソ2・14参照)。キリストはご自分のからだをわたしたちに与えることによって、わたしたちをこのご自分のからだにおいて再び一つに集めました。それは、わたしたちを一つにするためです。「キリストのからだ」の交わりにおいて、わたしたちは皆、一つの民、すなわち神の民となります。もう一度聖パウロを引用すれば、この神の民において、すべての人は一つになり、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、ユダヤ人の区別はありません。キリストがすべてにおいてすべてとなるのです(コロサイ3・11参照)。キリストは民族、人種、文化の壁を取り壊しました。わたしたちは皆、キリストに結ばれているからです。そこから、「神の民」と「キリストのからだ」という二つの概念は、互いに補い合い、一緒になって新約の教会の概念を作り上げることがわかります。そして、「神の民」が教会の歴史の連続性を表すのに対して、「キリストのからだ」は、主の十字架と復活によって開かれた普遍性を表します。それゆえ、わたしたちキリスト信者にとって、「キリストのからだ」は単なる比喩ではなく、真実を表す概念です。なぜなら、キリストはわたしたちを、ご自分の現実のからだとしてくださるのであって、その単なる似姿とするのではないからです。復活したキリストはわたしたち皆をこの秘跡に結びつけます。それは、わたしたちを一つのからだとするためです。それゆえ、「神の民」と「キリストのからだ」という概念は互いに補い合います。わたしたちはキリストに結ばれて本当の意味で神の民となります。そして、そこから、「神の民」は、教皇から、洗礼を受けたばかりの幼児に至るまでの、「すべての人」を意味します。第一奉献文、すなわち、4世紀に作られたいわゆる「ローマ典文」は、奉仕者――「わたしたち奉仕者」――と「あなたの聖なる民(plebs tua sancta)」とを区別します。ですから、区別するには、奉仕者と「あなたの聖なる民」といわなければなりません。しかし、「神の民」ということばは、共通の存在としての教会全体を表します。
  公会議後、この教会に関する教えは広く受け入れられ、有難いことに多くのよい実りがキリスト教共同体のうちにもたらされました。しかし、思い起こさなければならないことがあります。それは、この教えの実践における受容と、それに続く教会の意識構造における理解は、常にどこでも容易に、また正しい解釈に従って行われたわけではなかったということです。2005年12月22日のローマ教皇庁への演説の中で明らかにしたように、「公会議の精神」と称するものに訴える、ある解釈の傾向は、公会議前の教会と公会議後の教会が不連続であり、さらには、対立するとまで主張しようとしました。こうした解釈は、ときには、教会において位階的奉仕職と信徒の責任の間に客観的な形で存在する境界を乗り越えることさえあります。特に「神の民」の概念は、ある人々によって純粋に社会的な観点から、神に対する垂直的なまなざしを排除した、いわば水平的な見方だけによって解釈されました。このような立場は、公会議のことばとも精神とも明らかに反するものです。公会議が望んだのは、断絶や別な教会ではなく、一つの実体である教会の連続性における、真の深い意味での刷新でした。この教会は時の中で成長し、発展します。けれども教会は、常に同一のものであり続けます。それは、旅する神の民という一つの実体だからです。
  第二に認識すべきことはこれです。近年の霊的・司牧的な力の覚醒は、かならずしも常に望みどおりの成長や発展をもたらしたわけではありませんでした。実際、ある運動団体においては、熱意と創意の時代が、活動の衰退の時、疲弊した状態や、場合によっては、停滞の状態に変わっています。抵抗も見られますし、公会議の教えと、公会議の名の下に――しかし実際には公会議の精神と文字に反する形で定式化されたさまざまな概念との間の対立も見られます。そのためもあって、1987年の世界代表司教会議(シノドス)通常総会は、「教会と世界における信徒の召命と使命」をテーマとして取り上げました。このことはわたしたちに次のことを語ってくれます。すなわち、公会議が信徒について述べた光り輝く文書は、カトリック信者の意識と司牧的実践の中で、まだ十分に伝えられてもいなければ、実現されてもいないということです。一方では、教会を位階制度と同一視する偏った傾向がいまだに存在します。このような傾向は、共通の責任と、キリストに結ばれたわたしたち全員が共有する、神の民としての共通の使命を見落としています。他方では、すでに述べたように、単なる社会的・政治的な発想に基づいて神の民をとらえる傾向も根強く残っています。このような傾向は、キリストとの交わりによって初めて民とされた民がもつ、新しさと特別な意味を見落としています。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。ここでわたしたちは自らに問いかけてみなければなりません。わたしたちローマ教区はどこまで到達したでしょうか。すべての人、特に信徒の司牧的な共同責任は、どれだけ認識され、活用されているでしょうか。過去数世紀において、若者の信仰教育や、病者の世話、貧しい人への援助のために生涯をささげた、多くの洗礼を受けた人々の惜しみないあかしのおかげで、キリスト教共同体はローマ市民に福音を告げ知らせてきました。たとえ状況は違っても、同じ使命が現代のわたしたちにもゆだねられています。ローマでは少なからぬ洗礼を受けた人々が教会の道からはずれ、キリスト信者でない人はわたしたちの信仰のすばらしさを知らずにいます。わたしの敬愛すべき前任者であるヨハネ・パウロ二世が招集した教区教会会議は、公会議の教えをはっきりと「受容」しました。そして、『教会会議文書』によって、ローマ教区はローマの中心で、全市民との協力の下に行われた責任ある行動を通じて、いっそう生き生きとした活動的な教会となるよう努めました。2000年の大聖年の準備に続いて行われた「ローマ市への宣教」は、わたしたち教会共同体に、福音を告げ知らせなさいという命令は、一部の人だけにかかわるのではなく、洗礼を受けたすべての者にかかわるのだということを自覚させてくれました。この救いの体験は、小教区、修道会、信者の会、運動団体において、自分たちが一つの神の民に属しているという意識を深めるために役立ちました。使徒ペトロのことばが述べるとおり、神の民は「神のものとなった民です。それは・・・・神の力あるわざを、あなたがたが広く伝えるためなのです」(一ペトロ2・9)。このような者とされたことを、この夜、感謝したいと思います。
  しかし、まだこの先歩かなければならない長い道が残っています。あまりにも多くの洗礼を受けた人が、教会共同体に帰属していることを意識せず、共同体の片隅で過ごしています。彼らが小教区に来るのは、何らかの機会に礼拝にあずかるときだけです。各小教区の人口と比べ、たとえカトリック信者であることを告白していても、さまざまな使徒職の分野で進んで働こうとする信徒はまだわずかです。もちろん、文化的・社会的な次元での困難はたくさんあります。けれども主の命令に忠実に従うわたしたちは、現状の維持に甘んじることはできません。復活したキリストがわたしたちに約束してくださった聖霊の恵みに信頼しながら、新たな力をもって再び歩み始めなければなりません。どのような道を歩めばよいでしょうか。まずわたしたちは、わたしが今述べた教会のとらえ方を注意深く正確に教えるようあらためて努めなければなりません。これは司祭にも、修道者と信徒にもかかわることです。教会とは何か、キリストのからだにおける神の民とは何かを、ますます深く理解しなければなりません。同時に、司牧の構造を改善することも必要です。それは、奉献生活者と信徒の召命と役割に応じて、神の民に属するすべての者が少しずつ共同責任をとることができるようになるためです。そのためには、特に信徒に関する意識の変革が必要です。信徒を司祭の「協力者」と考えるのではなく、彼らが教会の存在と行動にとって真の意味での「共同責任者」であることを認めなければなりません。そのために、成熟した献身的な信徒の養成を推進すべきです。教会における洗礼を受けたすべての者に関するこうした共同意識は、主任司祭の責任を低くするものではありません。親愛なる主任司祭の皆様。すでに小教区で熱心に働いている人々を霊的・使徒的に成長させるのは、まさに皆様の務めです。この人々こそが共同体の核として、他の人々のためのパン種となるのです。このような共同体が、たとえ人数の上では小さくても、自らのあるべき姿と活力を失わないために、「霊的読書(レクチオ・ディヴィナ)」の実践により、祈りのうちに神のことばに耳を傾けることを学ぶことが必要です。最近のシノドスが心から望んだとおりです。神のことばを聞き、黙想することから、真の意味で糧を得ようではありませんか。わたしたちの共同体は、自分たちが「教会」であることを意識せずにはいられません。なぜなら、父の永遠のみことばであるキリストがわたしたちを呼び集め、ご自分の民としてくださったからです。実際、信仰は、一方では神との深く個人的な関係ですが、同時にそれは本質的に共同体的な性格をもっています。そして、この二つの次元を切り離すことはできません。若者たちは増大する現代文化の個人主義にますますさらされています。こうした個人主義は、当然の結果として、人間のつながりの低下と、帰属意識の希薄化をもたらしています。にもかかわらず、若者たちも、自分たちが教会であること、教会であると感じることのすばらしさと喜びを体験できます。神を信じることによって、わたしたちはキリストのからだと結ばれ、皆がキリストのからだと結ばれて一つになります。こうしてわたしたちは、信仰を深めるほど、自分たちの互いの交わりを体験し、個人主義から来る孤独から抜け出すことができるのです。
  みことばが共同体を呼び集めるなら、聖体はこの共同体を一つのからだにします。聖パウロは述べます。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つのからだです。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(一コリント10・17)。それゆえ教会とは、個人を足し合わせてできたものではなく、一つの神のことばと一つのいのちのパンに養われた人々の一致です。教会の交わりと一致は聖体から生まれます。わたしたちはこの現実を、聖体を拝領するときにも、ますます深く自覚しなければなりません。キリストの一致にあずかることによって、自分たちが互いに一つになることを、ますます自覚しなければなりません。この一致を、教会共同体の中にも生じることのある競争意識や争いや嫉妬から守るようにますます努めなければなりません。特に第二バチカン公会議以後に生まれ、わたしたちの教区にとっても貴重なたまものである、運動団体や共同体にお願いしたいと思います。わたしたちはこのたまものを与えてくださったことをいつも主に感謝しなければなりません。わたしは繰り返して、このような運動団体はたまものだと申し上げます。この運動団体の皆様にお願いしたいと思います。養成過程を通じて、会員が、小教区共同体に属しているという真正な感覚を深められるよう、常に留意してください。すでに述べたとおり、小教区の生活の中心は聖体、特に主日の感謝の祭儀です。教会の一致は主との出会いから生まれます。そうであれば、聖体礼拝と感謝の祭儀を大事にし、これらにあずかる人がキリストの神秘のすばらしさを体験できるようにすることは、決してどうでもよいことではありません。典礼の美は「単なる美学の問題ではなく、神の愛の神秘がキリストにおいてわたしたちと出会う具体的なあり方です。この具体的なあり方において、神の愛の神秘はわたしたちの心をとらえ、わたしたちを照らします」(教皇ベネディクト十六世使徒的勧告『愛の秘跡』35)。そうであれば、感謝の祭儀が秘跡のしるしを通じて神のいのちを現し、ローマの人々に教会のまことの顔を示すのは重大なことです。
  共同体の霊的・使徒的成長は、やがて確信に満ちた宣教活動を通じて、共同体の拡大をもたらします。ですから、「ローマ市への宣教」を行った頃と同じように、すべての小教区で、小グループの活動や、キリストとそのみことばを宣教する信者の教育センター、信仰を体験し、愛のわざを実践し、希望を育てるための場を活性化させてください。このように小共同体を増やし、ローマの大規模な小教区を編成することによって、宣教の場が拡大し、ローマにおける過密な人口と、しばしばきわめて多様なその社会的・文化的性格に対応することができます。このような司牧的方法を職場にも有効な形で適用するには、十分に準備した司牧計画によって福音宣教を行うことが重要です。移動の激しい社会において、人々が多くの時間を過ごすのは職場だからです。
  最後に、人々の心を結びつけ、教会への帰属の可能性を開く、愛のあかしも忘れてはなりません。最初の数世紀にキリスト教が成功を収め、ユダヤ人の一教派がローマ帝国の国教となったことをどう説明できるかという問いに対して、歴史家はこう答えています。世を説得したのは、特にキリスト教徒の愛のわざの体験でした。愛を生きることは、宣教の第一の形です。人が告げ知らせ、生きるみことばが信頼できるものとなるには、みことばが、連帯と分かち合いの態度において形をとらなければなりません。こうした行いこそが、人間のまことの友であるキリストのみ顔を示すからです。多くの信徒の努力によって小教区で日々、静かに行われる愛のあかしが、ますます広がり続けますように。それは、苦しみのうちに過ごす人々が、教会が寄り添ってくれることを感じ、あわれみに満ちた父の愛を体験できるようになるためです。それゆえ、兄弟の肉体と精神の傷を進んでいやす「よいサマリア人」になってください。しもべであるキリストとなる叙階によって強められた助祭は、高齢者や、新たな形の貧困にあらためて人々の目を向けさせるために役立つことができます。さらにわたしは若者の皆様に思いを致します。親愛なる若者の皆様。キリストと福音のために皆様の熱意と創造性を用いてください。同世代の若者の使徒となってください。司祭職や奉献生活によって主のそば近くで主に従いなさいと招かれたなら、惜しみない心で主にこたえてください。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。キリスト教とローマ教会の未来は、わたしたち一人ひとりの献身とあかしにかかっています。そのためにわたしは、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂で「ローマ人の救い(Salus populi romani)」として何世紀もの間あがめられてきた、おとめマリアの母としての執り成しを祈り求めます。使徒たちとともに二階の広間で聖霊降臨を待ち望んでおられたのと同じように、マリアがわたしたちとも、ともに歩み、信頼をもって明日に向かうように力づけてくださいますように。このような思いと、皆様の日々の活動への感謝をこめて、心から皆様に特別な使徒的祝福を送ります。

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