教皇ベネディクト十六世の教皇庁児童福祉会の子どもたちとの対話

教皇ベネディクト十六世は、5月30日(土)正午から、パウロ六世ホールで、教皇庁児童福祉会の7千人の子どもたちとの謁見を行いました。教皇庁福音宣教省長官のイヴァン・ディアス枢機卿と2人の子どものあいさつの後、教皇は3人の子どもとの対話を行いました。以下は教皇の対話の全文の翻訳です(原文イタリア語)。


第一の質問 わたしはアンナ・フィリッポーネといいます。12歳です。侍者をしています。カラブリアのオッピド・マメルティーナ=パルミ教区から来ました。教皇ベネディクトさま。友だちのジョヴァンニは、お父さんがイタリア人で、お母さんがエクアドル人ですが、とても幸せにくらしています。さまざまな文化の人が、イエスの名のもとに争うことなくくらしていける日が来ると思いますか。

教皇 みなさんは、どうすれば子どものときからたがいに助けあっていくことができるかを知りたいと思っています。ところで、わたしは小学生のころ、大都会から遠く離れた、400人の人がくらす小さな町に住んでいました。ですから、わたしたちは無邪気(むじゃき)な子どもでした。町には金持ちの農民や、金持ちとはいえなくても、生活に困らない農民もいれば、貧しい労働者や職人もいました。わたしの家族は、わたしが小学校に入るすこし前に、よその町からこの町に越してきました。ですからわたしたちの一家は町の人にとって、すこしよそ者でした。方言もちがいました。ですから、学校にはさまざまな身分の人がいたのです。でも、わたしたちはとても仲良くしていました。友だちはわたしに、まだわたしが知らなかった、町の方言を教えてくれました。わたしたちはよく協力しました。正直にいいますと、もちろん、ときにはけんかもしました。でも、あとで仲直りして、けんかをしたことなど忘れてしまいました。
  これは大事なことだと思います。人生では、ときにはどうしてもけんかをしなければならないことがあるかもしれません。けれども、いずれにしても大事なのは、仲直りすること、ゆるすこと、新しく始めること、心にしこりを残さないことです。わたしは、みんなが協力しあったことを感謝のうちに思い出します。わたしたちはたがいに助けあいながら、いっしょに歩んでいきました。わたしたちはみんなカトリック信者でした。もちろんこのことはとても助けになりました。それでわたしたちはいっしょに聖書を勉強しました。天地創造から始めて、イエスの十字架の上でのいけにえ、それから、教会の始まりも学びました。わたしたちはいっしょにカテキズムを勉強しました。いっしょに、祈ることを学びました。いっしょに、初めてのゆるしの秘跡と、初聖体の準備をしました。初聖体はすばらしい日でした。わたしたちには次のことがわかりました。イエスご自身がわたしたちのところに来てくださいます。イエスは遠く離れたところにおられる神ではありません。イエスはわたしの人生の中に、わたしの心の中に入ってこられます。そして、もしイエスがわたしたちみんなの中に入ってこられるなら、わたしたちは兄弟姉妹であり、友だちです。だから、わたしたちは兄弟姉妹として、友だちとして生きていかなければなりません。
  初めてのゆるしの秘跡は、自分の良心(りょうしん)と生き方を清めるためにおこないます。初聖体は、イエスと目にみえる形で出会うことです。イエスはわたしのところにこられ、わたしたちみなのところにこられるからです。初めてのゆるしの秘跡と初聖体の準備は、わたしたちにとって、自分たちが仲間となるために役立ちました。おかげでわたしたちは、ともに歩むことができ、必要なときにゆるしあうことをともに学ぶことができました。わたしたちはいっしょに小さな劇もおこないました。協力すること、ほかの人に注意を向けることも大事です。その後、8歳か9歳のとき、わたしは侍者(じしゃ)になりました。当時、女の子の侍者はまだいませんでした。けれども、女の子のほうがわたしたち男子よりも朗読がじょうずでした。そこで、ミサのあいだ、女の子が朗読し、わたしたち男子は侍者をつとめました。当時はまだたくさんのラテン語の式文を習わなければなりませんでした。そのため、わたしたちはみな、とても努力しました。すでにお話ししたように、わたしたちは聖人ではありませんでした。けんかもしましたが、わたしたちはとても仲良しでした。金持ちか貧乏か、頭がよいかあまりよくないかの違いは、問題になりませんでした。わたしたちは、遊ぶときも、いっしょに働くときも、イエスとの交わりのうちに、同じ信仰と同じ責任をもって歩みます。わたしたちはいっしょに生き、友だちになることができました。そして、70年以上も前の1937年から今まで、わたしたちは友だちでいつづけることができました。このようにして、わたしたちは、たがいに受け入れあうこと、たがいに重荷をにないあうことを学んだのです。
  次のことが大事だと思います。わたしたちは、弱い者であっても、たがいに受け入れあわなければなりません。そして、イエス・キリストと教会とともに、ともに平和の道を見いだし、いちばんよい生き方を学ばなければなりません。

第二の質問 わたしはレティツィアといいます。一つ質問をさせてください。親愛なる教皇さま。子どものときの教皇さまにとって、「子どもは子どもを助ける」ということばはどんな意味がありましたか。教皇さまはご自分が教皇になると考えたことがありましたか。

教皇 正直にいいますと、教皇になるなどと考えたことはいちどもありませんでした。なぜかといいますと、すでにお話ししたように、わたしは都会から遠く離れた、人々から忘れられたいなかの小さな町に住む、無邪気そのものの子どもだったからです。このようないなかでくらしていても、わたしたちは幸せでしたし、どこかほかのところに住みたいとは思いませんでした。もちろんわたしたちは教皇を――当時の教皇はピオ十一世(在位1922-1939年)でしたが――知っており、あがめ、愛していました。けれども、わたしたちにとって教皇は雲の上の存在で、いわばこの世の人ではありませんでした。教皇はわたしたちの父でしたが、わたしたちを超えた存在でした。そして、正直にいいますと、今でもわたしは、主がどうしてこのわたしを教皇にしようなどとお考えになったか、よくわかりません。それは不思議なことで、わたしの力をはるかに超えていると思われます。たとえそうであっても、わたしはこの奉仕のつとめを主のみ手から受け入れました。しかし、主がわたしを助けてくださいます。

第三の質問 親愛なる教皇ベネディクトさま。ぼくはアレッサンドロといいます。ききたいことがあります。あなたはいちばんの宣教者です。どうすればぼくたち子どもも、あなたが福音を告げ知らせるのを助けることができるでしょうか。

教皇 まずいいたいのはこれです。教皇庁児童福祉会と協力してください。そうすれば、あなたは、世に福音をもたらすための大きな家族の一員になれます。大きなネットワークの一員になれます。このネットワークには、さまざまな民族からなる家族が加わっています。みなさんはこの大きな家族の一員です。わたしたちはみな、それぞれの役割をにないながら、ともに宣教者となります。そして、教会の宣教のわざをおこないます。みなさんには、代表者のかたが示したすばらしい計画があります。それは、「聞き、祈り、知り、わかちあい、連帯する」というものです。これが、ほんとうの意味で宣教者となり、教会を育て、福音を世に示すためになくてはならない要素です。これらのことばの中のいくつかの点を強調したいと思います。
  まず「祈ること」です。祈りは現実となります。わたしたちが祈るとき、神はわたしたちに耳をかたむけてくださいます。神はわたしたちの生活の中に入り、わたしたちのあいだにいて、働いてくださいます。祈りは世界を変えるためにもっとも大事です。なぜなら、祈りによって、神の力が示されるからです。祈りによってたがいに助けあうことも大事です。わたしたちはミサの中でともに祈ります。家庭でともに祈ります。ここでいいたいと思います。一日の始めに小さな祈りをとなえ、一日の終わりにも小さな祈りをとなえることは大事です。祈りの中で、ご両親のことを思い起こしてください。朝食と夕食の前に、日曜日のミサの中で、祈ってください。ミサは教会の偉大な共同の祈りです。ミサのない日曜日は、ほんとうの意味での日曜日ではありません。それでは日曜日に中心がなく、月曜から土曜までの光もなくなってしまうからです。それからみなさんは、ほかの人に――とくに、家で祈らない人、祈りかたを知らない人に――祈ることを教えることによって、ほかの人を助けることができます。このような人たちといっしょに祈れば、この人たちを神との交わりに導くことができます。
  次に「聞くこと」です。「聞く」とは、イエスがわたしたちに語られることをほんとうの意味で学ぶことです。さらに、聖書を「知る」ことです。ディアス枢機卿さまがおっしゃったように、わたしたちはイエスについて書かれた話の中で神のみ顔を学びます。神がどのようなかたであるかを学びます。イエスを深く知ること、個人として知ることがたいせつです。そうすれば、イエスはわたしたちの生活の中に入ってこられます。そして、わたしたちの生活をとおして、世に入ってこられます。
  「わかちあうこと」もたいせつです。「わかちあう」とは、なにかを自分だけのためではなく、すべての人のために望むことです。ほかの人とわかちあうことです。ほかの人が何かを必要としていたり、何かがなくて困っていることがわかったなら、その人を助けなければなりません。そうすれば、たくさんのことばを使わないでも、自分の小さな世界の中で、神の愛を示すことができます。自分の小さな世界も、大きな世界の一部なのです。そうすれば、わたしたちはともに一つの家族になります。この家族の中で、わたしたちはたがいに尊重しあいます。たがいの違いを認めます。きらいな人でも受け入れます。だれものけものにせず、むしろ、人が仲間に加わるのを助けます。これらのことが、教会という大きな家族の中で生きるということにほかなりません。教会とは、大きな宣教者の家族です。わかちあうこと、イエスを知ること、祈ること、たがいのいうことを聞くこと、連帯すること――これらのなくてはならない点を実践することが、宣教活動なのです。なぜなら、そうすれば、わたしたちは、この世界の中で福音が実現するのを助けることができるからです。

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