教皇ベネディクト十六世のアオスタ司教座聖堂での晩の祈りの講話

教皇ベネディクト十六世は、7月24日(金)、夏季休暇のため滞在していたヴァッレ・ダオスタ州レ・コーンブから約20キロのところにある、アオスタ司教座聖堂で晩の祈りを司式しました。以下は晩の祈りで行われた教皇の講話の全文の翻 […]


教皇ベネディクト十六世は、7月24日(金)、夏季休暇のため滞在していたヴァッレ・ダオスタ州レ・コーンブから約20キロのところにある、アオスタ司教座聖堂で晩の祈りを司式しました。以下は晩の祈りで行われた教皇の講話の全文の翻訳です(原文イタリア語)。講話は事前に用意された原稿なしに行われました。晩の祈りには、アオスタ教区の司祭、修道者、93の小教区の各2名の信徒、教区事務局と運動団体の代表者など400名が参加しました。
アオスタ教区では、同地で生まれた神学者カンタベリーのアンセルムス(1033/1034-1109年)の没後900周年を祝っています。


 

司教と司祭の皆様
親愛なる兄弟姉妹の皆様

 まず、ご丁寧にごあいさつくださった司教様に御礼申し上げたいと思います。司教様のごあいさつによって、わたしはこの司教座聖堂の偉大な歴史に導き入れられました。そこからわたしはこう感じました。わたしたちはこの大聖堂で、この瞬間に祈るだけではありません。むしろわたしたちは、この美しい聖堂の中で、幾世紀もの時とともに祈ることができるのです。
 わたしとともに祈るためにおいでくださった皆様に感謝します。こうして皆様は、わたしたち皆をいつも結びつける祈りのきずなを目に見えるものとしてくださいました。
 この短い講話の中で、わたしは、この晩の祈りの終わりに唱える祈りについていくつかのことを申し上げたいと思います。なぜなら、この祈りは、今朗読されたローマの信徒への手紙の箇所(ローマ8・1-2)の意味を解き明かし、祈りへと造り変えると思われるからです。
 この祈りは二つの部分から成ります。呼びかけ――すなわち、いってみればタイトル――と、その後の、二つの願いから成る祈りです。
 呼びかけから始めたいと思います。この呼びかけも、二つの部分に分かれます。わたしたちが語りかける「あなた」という呼びかけは、ここでわずかながら具体的なものとなります。それは、わたしたちが神の心の戸をもっと力強くたたくことができるためです。
 イタリア語のテキストでは、簡単に「あわれみ深い父」とだけ書かれています。ラテン語の原文はもっと詳しく「あわれみ深い全能の神」と述べます。新しい回勅の中で、わたしは、個人の生活においても、歴史、社会、この世の生活においても、神を優先すべきことを示そうと試みました。
 神との関係が深い意味で人格的なことがらであることはいうまでもありません。そして、人格とは関係のうちにあることです。そして、もし根本的な関係――すなわち、神との関係――が生きたものでなく、体験もされなければ、他の関係も皆、正しい形をとることができません。けれどもこのことは社会にも人類そのものにもいえます。社会においても、もし神がそこに欠け、ないがしろにされ、不在であるなら、進むべき道と方向性を見いだすためのあらゆる関係の総体を示す羅針盤を欠くことになります。
 神――わたしたちは、この現代世界に神の存在をあらためてもたらさなければなりません。神を認識させ、現存させなければなりません。けれども、わたしたちはどのようにして神を認識するのでしょうか。教皇庁定期訪問(アド・リミナ訪問)の際に、わたしはいつも司教たち、とくにさまざまな伝統宗教がなおも存在するアフリカや、アジア、ラテンアメリカの司教と、こうした伝統宗教についてお話しします。いうまでもなく、伝統宗教は互いに大きく異なりますが、共通の要素もあります。神、それも唯一の神が存在すること。「神」は単数形で語られること。神々は神ではないこと。神、それもひとりの神が存在すること。すべての人はこれらのことを知っています。しかし、同時に、この神はここにおらず、はるか遠く離れたところにおられるように見えます。神はわたしたちの日常生活の中に入って来られないように見えます。神は隠れていて、わたしたちはそのみ顔を知りません。そのため多くの宗教は、さまざまな事物、身近な力、精霊、祖先などに目を向けます。なぜなら、神そのものははるか遠く離れたところにおり、わたしたちはこれらの身近な力に頼らなければならないからです。ですから、わたしたちが福音として告げ知らせなければならないことがらは、まさしくこれです。すなわち、遠く離れた神が近づいて来られました。神はもはや遠くにおられるのでなく、近くにおられます。この「知られ、知られざる神」は、今や本当にご自身を知らせてくださいます。み顔を現してくださいます。ご自身を現してくださいます。み顔の覆いはなくなり、神は本当にみ顔を示されます。それゆえ、神ご自身が今や近くにおられるので、わたしたちは神を知ります。神はみ顔をわたしたちに示し、わたしたちの世に入って来られます。もはや、先に述べた他のさまざまな力に頼る必要はありません。なぜなら、神はまことの力だからです。全能の神だからです。
 なぜイタリア語訳で「全能の」ということばが省かれたのか分かりません。けれども、このことは本当です。わたしたちは全能の神にいわば脅威を感じます。全能の神はわたしたちの自由を制限するように思われます。全能の神はあまりにも強力であるように思われます。けれども、わたしたちは次のことを学ばなければなりません。神の全能は専横な力ではありません。なぜなら、神はいつくしみであり、真理だからです。それゆえ、神はあらゆることが可能であるにもかかわらず、いつくしみに逆らって行動できません。真理に逆らって行動できません。愛と自由に逆らって行動できません。なぜなら、神ご自身がいつくしみであり、愛であり、まことの自由だからです。それゆえ、神が行われるすべてのことは、決して真理と愛と自由に反することができないのです。むしろその反対に、神はわたしたちの自由と愛と真理を守られるかたです。わたしたちを見つめる神のまなざしは、わたしたちを監視するような厳しいまなざしではなく、愛のまなざしです。この愛は決してわたしたちを見捨てることなく、かえってわたしたちに確信させます。いつくしみが存在することを。いつくしみは生きていることを。この愛のまなざしが、わたしたちが生きるための空気を与えるのです。
 あわれみ深い全能の神。知恵の書に基づいて作られたローマ典礼の祈りはいいます。「神よ、ゆるしとあわれみのうちにあなたの全能を現してください」。神の力の頂点は、あわれみとゆるしです。現代のわたしたちは、力のある者といえば、たくさんの財産を所有する者、経済界で発言力のある者、市場に影響を与えるだけの資本をもっている者を思い浮かべます。脅威を与えうる軍事力をもつ者を思い浮かべます。「教皇は何個師団をもっているのか」というスターリン(1879-1953年)の問いかけは、今も力についての平均的な理解を特徴づけています。力と、この世の多くのものを手にしている者は、危険であり、脅威を与え、破壊を行う可能性があります。しかし、神の啓示はわたしたちにいいます。「力とはそのようなものではありません」。まことの力は、恵みとあわれみの力です。神はあわれみのうちにまことの力を現します。
 そこで、この呼びかけの祈りの後半はいいます。「あなたはご受難と、御子の苦しみによって、世をあがなってくださいました」。神は苦しまれました。そして神は御子のうちにわたしたちとともに苦しまれます。わたしたちとともに苦しむことができること。これこそが神の力の最高の頂点です。こうして神は、まことの神の力を示します。神はわたしたちとともに、わたしたちのために苦しむことを望まれました。わたしたちは、苦しむときも、決して独りきりにされません。神が御子のうちにまず苦しまれました。だから神は、わたしたちが苦しむときも、そばにいてくださるのです。
 しかし、ここで詳しく解説することはできませんが、むずかしい問題が残っています。なぜ世を救うために苦しむことが必要だったのでしょうか。苦しむことが必要だったのは、世に、悪と不正と憎しみと暴力の海が存在するからです。憎しみと不正による多くの犠牲者は、正義が実現される権利をもつからです。神は不正によってしいたげられ、苦しむ人々のあげる、このような叫びを見過ごすことができません。ゆるすとは、無視することではなく、変容させることです。つまり、神はこの世に入り、より偉大ないつくしみと愛の海をもって、不正の海に立ち向かわなければなりません。これが十字架の出来事です。この十字架のときから、悪の海に対して、限りのない、それゆえ、世のあらゆる不正よりもつねに大きな川が存在するようになりました。すなわち、いつくしみと真理と愛の川です。こうして神は、世を変容させ、わたしたちの世界に入ることによって、ゆるします。それは、本当の力が存在するためです。存在しうるあらゆる悪よりも偉大な、いつくしみの川が存在するためです。
 このようにして、神への呼びかけはわたしたちへの呼びかけとなります。この神はわたしたちをこう招くからです。わたしのほうに加わりなさい。そして、悪と憎しみと暴力と利己主義の海から出なさい。わたしと一つになって、わたしの愛の川に入りなさい。
 これがこの祈りの前半のいいたいことです。祈りは続けていいます。「あなたの教会が、生ける聖なるいけにえとしてささげられますように」。神に向けられたこの願いは、わたしたち自身にも向けられます。この願いはローマの信徒への手紙の二つの箇所を指し示します。第一の箇所で、聖パウロはいいます。わたしたちは生けるいけにえとならなければなりません(ローマ12・1参照)。わたしたち自身が、存在全体をもって、礼拝といけにえとなり、わたしたちの世を神に立ち戻らせ、こうして、世を造り変えなければなりません。第二の箇所で、パウロは、使徒職は祭司の務めだと述べます(ローマ15・16参照)。祭司の役割は世を聖なるものとすることです。それは、世が生ける供え物となるためです。すなわち、世が典礼となるためです。典礼とは、この世のことがらの脇に置かれたものではありません。むしろ、世そのものが生ける供え物となり、典礼となるのです。後にテイヤール・ド・シャルダン(1881-1955年)は偉大な展望を思い描きました。わたしたちは最終的にまことの宇宙的な典礼をささげます。この典礼の中で、宇宙は生ける供え物となります。ですから、主に祈ろうではありませんか。主の助けによって、わたしたちがこのような意味での祭司となることができますように。それは、わたしたち自身から始めて、神を礼拝しながら、世が変容するのを助けるためです。わたしたちの生き方が神を語るものとなりますように。わたしたちの生活が、本当の意味で典礼となり、神の告知となり、遠く離れた神を近くにいる神とする門となり、本当にわたしたち自身が神へとささげられた供え物となりますように。
 さらに、第二の願いはこれです。わたしたちは祈ります。「あなたの民がたえずあなたの愛を深く味わうことができますように」。ラテン語のテキストでは、「わたしたちをあなたの愛で満たしてください」といわれています。こうして祈りのテキストは、先ほど唱えた詩編を指し示します。そこではこういわれています。「あなたはすべていのちあるものに向かってみ手を開き、望みを満足させてくださいます」(詩編145・16)。地上ではどれほど多くの人が飢えていることでしょうか。世界の多くの地域で、どれほど多くの人がパンに飢えていることでしょうか。司教様は、正義と愛に飢え渇く、この地域の家庭の苦しみについてもお話しくださいました。次の祈りをもって神に祈りたいと思います。「あなたはすべていのちあるものに向かってみ手を開き、望みを満足させてくださいます。真理とあなたの愛に飢え渇くわたしたちを満たしてください」。
 この願いが聞き入れられますように。アーメン。

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