教皇ベネディクト十六世の降誕祭ミサ説教

12月24日(木)午後10時から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は主の降誕の夜半のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。 なお、このミサの入堂行列の際、会衆席から飛び […]


12月24日(木)午後10時から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は主の降誕の夜半のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。

なお、このミサの入堂行列の際、会衆席から飛び出した女性が教皇に飛びかかり、教皇は転倒しました。教皇に怪我はありませんでしたが、一緒に行列を行っていたロジェ・エチェガレイ枢機卿(87歳)が大腿骨を骨折しました。この事故について、25日(金)、教皇庁広報部のフェデリコ・ロンバルディ報道官は次の公式発表を行いました。
「24日夜、ミサの入堂行列の際、一人の精神不安定な女性(スザンナ・マヨロ、25歳。イタリアとスイス国籍)が警護柵を乗り越えました。そして、警備員が制止したにもかかわらず、教皇に近づくと、教皇のパリウムをつかんでバランスを失わせ、教皇を床に引き倒しました。教皇はすぐに立ち上がり、行列を再開し、ミサを最後まで他には何の問題もなくささげることができました。
  残念ながら、この騒ぎの中でエチェガレイ枢機卿が転倒し、大腿骨の頚部を骨折しました。エチェガレイ枢機卿はジェメッリ病院に入院しました。枢機卿の状態は良好ですが、数日内に手術を受ける必要があります。
  マヨロは武器を身に帯びてはいませんでしたが、精神不安定の兆候を示しているため、必要な治療を受けるために医療施設に入院しました」。
  報道官は、教皇が翌25日(金)の行事を変更なしに行うことを確認しました。教皇は25日正午、サンピエトロ大聖堂バルコニーから「降誕祭メッセージ(ローマと全世界へ)」を発表し、65か国語で降誕祭のあいさつを行いました。


 

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」(イザヤ9・5)。これは、イザヤがはるか未来に目を向けながら、苦難と暗闇のうちにあるイスラエルへの慰めのことばとして述べたものです。これが現実となったことを、光の雲を輝かせながら来た天使は羊飼いたちに告げます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである」(ルカ2・11)。主はここにおられます。このときから神は本当の意味で「わたしたちとともにおられる神」となりました。もはや神は遠く離れたところにおられるのではありません。被造物を通して、また良心を通じて、ある意味で遠くから知られるのではありません。神は世に入って来られました。神は近くにおられます。復活したキリストは弟子たちに語られました。わたしたちにも語られました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28・20)。あなたがたのために救い主がお生まれになった。天使が羊飼いに告げたことを、神は今や福音とその使者を通してわたしたちに思い起こさせてくださいます。この知らせを聞いて、わたしたちは無関心ではいられません。もしそれが本当なら、すべてが変わります。もしそれが本当なら、それはわたしにもかかわることです。羊飼いたちと同じように、わたしもいわなければなりません。さあ、ベツレヘムへ行こう。そこで起こったみことばを見ようではないか。福音書は意味もなく羊飼いの物語を語ったのではありません。羊飼いたちは、わたしたちにも向けられているメッセージにどのように正しくこたえるべきかを示してくれます。では、この神の受肉の最初の証人はわたしたちに何をいおうとしているのでしょうか。
 羊飼いたちについてまずいわれているのは、彼らが目を覚ましていたということです。彼らは目覚めていたからこそ、メッセージを聞くことができました。わたしたちも目覚めていなければなりません。それは、わたしたちもメッセージを聞けるためです。わたしたちは本当の意味で目覚めた者とならなければなりません。本当の意味で目覚めた者となるとは、どういうことでしょうか。夢を見ている人と目覚めている人の違いは、第一にこれです。夢を見ている人は自分の世界の中にいます。彼の「自己」はこの夢の世界に閉じこもっています。この夢の世界は、彼だけのものであり、他の人とのつながりがありません。目覚めているとは、「自己」だけの世界を離れ、共通の現実、すなわち真の現実に入ることです。真の現実だけがわたしたちをすべての人と一致させます。世界の紛争と相互不和が起きるのは、わたしたちが自分の利害、個人的見解、そして自分の小さな私的世界に閉じこもるためです。わたしたちは、集団的な意味でも個人的な意味でも、利己主義によって自分の利害と欲望に捕らわれます。自分の利害と欲望は真理と敵対し、わたしたちを互いに分裂させます。福音はわたしたちにいいます。目を覚ましていなさい。外に出て、大きな共通の真の現実に入りなさい。唯一の神との交わりに入りなさい。それゆえ、目覚めているとは、神への感受性を深めることです。神がわたしたちを導くために用いる静かな合図に気づくことです。神がともにおられることを示す多くのしるしを見いだすことです。「宗教的な意味で音感がない」といわれる人がいます。神を感じとる力は、ある人には与えられない才能であるかのように考えられています。そして実際、わたしたちがものを考え、行動するしかた、現代世界のメンタリティ、わたしたちのさまざまな経験の全体は、神への感受性を低くし、わたしたちから神に対する「音感を奪う」傾向があります。しかし、あらゆる霊魂のうちには、隠れた形であれ、明らかな形であれ、神への望みがあります。神と出会う力があります。目覚めているために、すなわち、本質的なことがらに対して目を覚ましているために、祈りたいと思います。自分と他の人のために。「音感がない」ように思われても、神がご自身を現してくださることを深く望んでいる人のために。偉大な神学者オリゲネス(185頃-254年頃)はこういっています。もしわたしにパウロが見たのと同じように見る恵みが与えられたなら、わたしは今(典礼の中で)天使の大群を仰ぎ見ることができるだろう(『ルカ福音書講話』:In Lucam homiliae 23, 9参照)。実際、聖なる典礼の中で、わたしたちは神の天使と聖人たちに囲まれています。主ご自身がわたしたちのただ中におられます。主よ、わたしたちの心の目を開いてください。わたしたちが目覚めて、目が見えるようになり、そこから、他の人の隣人となれますように。
 降誕祭の福音に戻りたいと思います。福音は語ります。天使の知らせを聞いた後、羊飼いたちは話し合いました。「『さあ、ベツレヘムへ行こう』。・・・・彼らは急いで行った」(ルカ2・15-16)。ギリシア語のテキストは文字どおり「急いだ」と述べています。彼らに告げられたことはとても重要なことだったので、彼らはすぐに行かなければなりませんでした。実際、彼らに語られたのはまったく尋常ならざることでした。それは世界を変えました。救い主が生まれたのです。待ち望んでいたダビデの子が、世の、ダビデの町に来られたのです。これ以上に重要なことがありえたでしょうか。いうまでもなく、彼らを駆り立てたのは好奇心でした。いやむしろ、それは何よりも偉大なことへの興奮だったといえます。この偉大なことがほかならぬ彼らに、すなわち、小さな者、見たところ取るに足らない人間である彼らに伝えられたのです。彼らは急いで行きました。わたしたちの現代の日常生活は、これとは異なります。大多数の人は神に関することがらを優先して考えません。神に関することがらは切迫した問題ではありません。こうしてわたしたちの大部分は、神に関することがらを後回しにしがちです。わたしたちはまず、今ここで緊急と思われることを行います。優先順位を選ぶとき、たいてい神は最後に回されます。神のことはいつでもできる。わたしたちはそう考えるのです。福音はわたしたちにいいます。何よりもまず神を第一に優先しなければなりません。生活の中で急いですべきことがあるとすれば、それは神に関することだけです。聖ベネディクトゥス(480頃-547/560年頃)の『戒律』の頂点をなす部分はいいます。「そもそも何ごとも『神のわざ』(すなわち、時課の典礼)に優先してはなりません」(『戒律』:Regula 43, 3〔古田暁訳、『聖ベネディクトの戒律』すえもりブックス、2000年、176頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。修道士にとって典礼は第一の優先事です。他のことはすべて後に回さなければなりません。しかし、このことばの核心はすべての人に当てはまります。神が重要です。神こそが、わたしたちの生活の中で絶対的な意味でもっとも重要な現実なのです。まさにこの、神を優先しなければならないということを、羊飼いたちは教えてくれます。わたしたちは羊飼いたちから、日常生活の中で緊急を要するあらゆることに押しつぶされないことを学びたいと思います。たとえそれがどれほど重要であっても、他の仕事を二次的なことと考える心の自由を、羊飼いたちを通して身につけたいと思います。それは、わたしたちが神に向かうためです。神にわたしたちの生活と時間の中に入って来ていただくためです。神のために、そして、神を通して隣人のためにささげられた時間は、決して無駄な時間ではありません。それこそが、わたしたちが本当の意味で生きることができる時間、すなわち、人間らしく生きることのできる時間なのです。
 ある聖書注解者は、心の単純な羊飼いこそが、飼い葉桶におられるイエスのところに行き、世のあがない主と出会うことのできた最初の人々だったと指摘しています。社会的地位や名声のある人を代表して、東方から来た占星術の学者たちは、もっと後にやって来ました。注解者は続けていいます。これはきわめて当然のことです。実際、羊飼いたちは近くに住んでいたからです。彼らがしなければならなかったのは、「歩いて行く」(ルカ2・15参照)ことだけでした。わたしたちが隣人を訪ねる際に少しの距離を歩いて行くのと同じです。これに対して、占星術の学者たちは遠く離れたところに住んでいました。彼らはベツレヘムにたどり着くために長く困難な道を歩かねばなりませんでした。彼らには導きとしるしも必要でした。今日も、主のごく近くに住む、単純で身分の低い人々がいます。彼らはいわば主の隣人であり、簡単に主のところに行くことができます。しかし、現代人であるわたしたちの大部分はイエス・キリストから離れて生きています。イエス・キリストは人となり、神からわたしたちのただ中に来られたというのにです。わたしたちはさまざまな哲学と行事と仕事の中で暮らしています。わたしたちの心はこれらのもので占められています。これらのせいで飼い葉桶までの道のりはほど遠いものになっています。神はさまざまなしかたで繰り返しわたしたちを導き、助けなければなりません。それは、わたしたちが自分の考えや仕事の山から抜け出し、神に至る道を見いだせるためです。しかし、すべての人のために一つの道があります。主はすべての人に適したしるしを用意してくださいます。主はわたしたち皆を招きます。それは、わたしたちもこういえるためです。さあ、ベツレヘムへ「歩いて行こう」。神に向かって歩もう。神はわたしたちと出会うために来られたのだから。そうです。まことに神がわたしたちのほうへ歩いて来られるのです。わたしたちは自分の力だけでは神にたどり着くことができません。そのような道はわたしたちの力を超えるからです。しかし、神は降って来られました。神はわたしたちと出会いに来られます。神はきわめて長い道のりを歩いて来られました。今、神はわたしたちを招きます。来て、どれほどわたしがあなたがたを愛しているかをご覧なさい。来て、わたしがここにいることをご覧なさい。ラテン語訳聖書はいいます。「ベツレヘムへと超えて行こう(Transeamus usque Bethleem)」。ベツレヘムへ行こうではありませんか。自分自身を超えて行こうではありませんか。あらゆる方法で神へと旅していこうではありませんか。神へと至るためには、内的な道があります。しかし、きわめて具体的な道もあります。すなわち、教会の典礼と隣人への奉仕です。キリストは隣人の中でわたしたちを待っておられるからです。
 いまいちど福音に直接耳を傾けたいと思います。羊飼いたちは自分たちが出発する理由について互いに話し合います。「その出来事を見ようではないか」。文字どおりのギリシア語テキストはこういっています。「そこで起こったみことばを見ようではないか」。そうです。この夜の新しい要素はこのことです。みことばが目に見えるようになったのです。なぜなら、みことばは肉となったからです。神は、そのいかなる像も造ってはならないかたでした。なぜなら、いかなる像も神をおとしめ、それどころか、神をゆがめるだけだからです。この神が、キリストのうちに目に見えるものとなりました。キリストは、パウロがいうとおり、神のまことの似姿だからです(二コリント4・4、コロサイ1・15参照)。イエス・キリストの姿のうちに、すなわちその生涯とわざ全体のうちに、その死と復活のうちに、わたしたちは神のことばを見ることができます。それゆえ、生きている神ご自身の神秘を見ることができるのです。神はこのようなかたです。天使は羊飼いたちにいいました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2・12。2・16参照)。神のしるし、すなわち、羊飼いたちとわたしたちに与えられたしるしは、感動的な奇跡ではありません。神のしるしはそのへりくだりです。神のしるしは、神が小さくなられたことです。幼子となられたことです。神はご自身に触れさせ、わたしたちに愛してもらうことを求めます。どれほどわたしたち人間は、別のしるしを願ったことでしょうか。神の力と偉大さを表す、威厳のある、議論の余地のないしるしを。けれども、神のしるしはわたしたちを、信じ、愛するようにと招きます。それゆえわたしたちに希望を与えます。これこそ神がなさることです。神は力をもっておられるとともに、いつくしみそのものです。神はわたしたちが神と同じようになるよう招きます。そうです。わたしたちは神と同じようになります。そのためにわたしたちは、このしるしによって造り変えていただかなければなりません。わたしたち自身がへりくだりを学び、そこから、まことの偉大さを学ばなければなりません。暴力を捨て、真理と愛の武具だけを用いなければなりません。オリゲネスは、洗礼者ヨハネのことばに従って、石のたとえのなかに異教の本質が示されているのを見いだしました。異教は感受性を欠いています。これは石の心を表します。石の心とは、神の愛を愛し、感じることができないということです。オリゲネスは異教についてこう述べます。「感情と理性をもたない異教は、石や木に変わってしまう」(『ルカ福音書講話』:op. cit. 22, 9)。しかしキリストは、わたしたちに肉の心を与えようと望みます。幼子となられた神であるキリストを見つめるとき、わたしたちの心は開かれます。聖夜の典礼の中で、神は人となってわたしたちのところに来られます。それは、わたしたちが本当に人間らしい者となるためです。もう一度オリゲネスのことばに耳を傾けたいと思います。「実際、キリストがあなたの霊魂の中に来てくださらないなら、かつてキリストが肉となられたことがあなたにとって何の役に立つだろうか。キリストが日々わたしたちのところに来てくださるよう祈ろうではないか。わたしたちがこういえるようになるために。『生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです』(ガラテヤ2・20)」(『ルカ福音書講話』:op. cit. 22, 3)。
 そうです。この聖夜にあたり、このことを祈りたいと思います。ベツレヘムで生まれた主イエス・キリストよ、わたしたちのところに来てください。わたしの中に、わたしの心の中に入って来てください。わたしを造り変えてください。わたしを新たにしてください。わたしを、わたしたち皆を、石と木ではなく、生きた民にしてください。この生きた民の中で、あなたの愛がわたしたちとともにいて、世を造り変えてくださるのです。アーメン。

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