教皇ベネディクト十六世の受難の主日のミサ説教

3月28日(日)午前9時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世は受難の主日(枝の主日)のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。ミサには、第25回「世界青年の日」にあたって、ローマ教区と他の教区の青年が参加しました。今年の「世界青年の日」のテーマは「よい先生、永遠のいのちを受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(マルコ10・17)です。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
親愛なる若者の皆様。

 ここサンピエトロ広場に集まったわたしたちが耳にした、枝の祝福のための福音は、次のことばで始まります。「イエスは・・・・先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」(ルカ19・28)。今日の典礼の始めに、教会はただちに、福音への応答を先取りしていいます。「主のあとに従って歩みましょう」。このことばによって、枝の主日のテーマがはっきりと示されます。すなわち、従うことです。キリスト信者であるとは、イエス・キリストの道が、人間であるための正しい道だと考えることです。イエス・キリストの道こそ、目的へと導く道です。目的とは、人間性を完全に真実な形で実現することです。とくに第25回「世界青年の日」にあたって、すべての青年の皆様に繰り返して申し上げたいと思います。キリスト信者であるとは、歩むことです。もっと適切にいうなら、それは旅路です。イエス・キリストとともに歩むことです。イエス・キリストがかつて示してくださり、今も示し続けておられる方向へと歩むことです。
 しかし、それはどのような方向でしょうか。わたしたちはこの方向をどうやって見いだせばよいでしょうか。このことに関連して、今日の福音は二つのことを示唆してくれます。まず、福音は、この方向は上昇だといいます。それはきわめて具体的なことを意味しています。イエスの旅の最後の段階がそこから始まったエリコは、海抜マイナス250メートルにあります。これに対して、目的地のエルサレムは海抜740-780メートルです。それは約1000メートルの登り道なのです。しかし、この外的な道は何よりも、キリストに従う際に行われる、人生の内的な運動のたとえです。キリストに従うとは、人間のあり方の真の高みへと上ることです。人は安楽な道を選び、あらゆる苦労を避けることもできます。低く低俗なところに下ることもできます。いつわりと不誠実の沼に沈むこともできます。イエスはわたしたちの先に立って進み、高いところに上って行きます。イエスは偉大で純粋なところへとわたしたちを導きます。高地のすがすがしい空気へとわたしたちを導きます。真理に従う生き方へと導きます。支配的な意見が語られても恐れない勇気へと導きます。支配的な意見とは別のものを主張し、支持する忍耐へと導きます。イエスは、苦しむ人、見捨てられた人に仕えることへと導きます。困難な状況にあっても忠実に他の人に味方するよう導きます。進んで助けの手を差し伸べるように導きます。忘恩に遭ってもくじけないいつくしみへと導きます。イエスはわたしたちを愛へと導きます。神へと導きます。
 「イエスは・・・・先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」。イエスは世の終わりまで道を歩まれます。この福音のことばを、イエスの歩まれる道全体との関連で読むなら、「エルサレム」という目的のもつ別の意味を見いだすことができます。それがまず単純に「エルサレム」という場所を示すべきであることはいうまでもありません。そこには神の神殿があります。神殿が唯一であることは、神ご自身が唯一のかたであることを示します。それゆえこの場所は何よりもまず二つのことを告げます。第一はこれです。神は全世界にただひとりしかおられず、あらゆる場所と時間をはるかに超えたかたです。全被造物はこの神に属しています。すべての人は心の奥底でこの神を探しており、ある意味ですべての人はこのかたを知っています。しかし、この神は自らに名を与えました。この神はご自身をわたしたちに知らせました。人間とともに一つの歴史を開始しました。神はアブラムという一人の人をこの歴史の出発点として選びました。限りないかたである神は、同時に近くにおられる神でもあります。神をいかなる建物の中に閉じ込めることもできません。にもかかわらず、この神は、わたしたちのただ中に住み、完全な意味でわたしたちとともにいることを望まれるのです。
 イエスが旅するイスラエルとともにエルサレムに上られるなら、彼がそこに行くのはイスラエルとともに過越祭を祝うためです。過越祭はイスラエルが解放されたことの記念です。この記念は常に、同時に、神が与えてくださる決定的な形での解放への希望でもあります。イエスは、ご自分が、出エジプト記に語られたことを実現する小羊であることを自覚しながら、この過越祭を目指して進まれました。この傷のない雄の小羊は、夕暮れに、イスラエルの子らの前で「不変の定めとして」ささげられます(出エジプト12・5-6、14参照)。イエスは最後に、ご自分の生涯の歩みがそれ以上のところへと進むことを知っておられます。イエスの生涯は十字架で終わりません。イエスは知っておられます。ご自分の道が、この世と神の世との間の覆いをはぎとるであろうことを。ご自分が神の玉座へと上り、神と人とをご自分のからだによって和解させることを。イエスは知っておられます。ご自分の復活のからだが新しいいけにえとなり、新しい神殿となることを。ご自分を囲む天使と諸聖人の群れから、新しいエルサレムが作られることを。この新しいエルサレムは天上にあるにもかかわらず、地上にも存在します。イエスはご自分の受難によって天と地の間の境を開かれたからです。イエスの道は神殿の山の頂を越えて、神ご自身の高みへと達します。これこそが、イエスがわたしたち皆を招かれる偉大な上昇です。イエスはいつも地上でわたしたちとともにとどまってくださると同時に、いつも神ご自身のところにおられます。イエスは地上のわたしたちを地上を超えたところへと導かれるのです。
 このようにして、イエスの上昇がもつ広い意味によって、わたしたちが従うことのさまざまな次元が、すなわち、イエスがわたしたちをそこへと導こうと望まれる目的が明らかになります。この目的とは、神の高み、神との交わり、神とともにいることです。これがまことの目的であり、そのための道はイエスとの交わりです。イエスとの交わりとは、道を歩むことです。わたしたちの召命のまことの高みに向けて常に上昇することです。イエスとともに歩むとは、同時に、常にイエスに従いたいと望む「わたしたち」として歩むことです。イエスに従うことが、わたしたちをこの「わたしたち」という共同体へと導き入れます。まことのいのちに至る道、神の子イエス・キリストの模範に従って造り変えられるに至る道は、わたしたちの力を超えています。ですから、この歩みは、運んでもらうことでもあります。わたしたちはいわばイエス・キリストと命綱で結ばれています。わたしたちはイエスとともに神の高みを目指して上っていきます。イエスはわたしたちを引き寄せ、支えてくださいます。このように命綱につながれることが、キリストに従うことの一部をなしています。自分だけの力では不可能だということを受け入れることが、キリストに従うことの一部をなしているのです。このようにへりくだるわざ、すなわち、教会という「わたしたち」に入ることが、キリストに従うことの一部です。それは、命綱にしっかりつかまり、交わりに責任をもつこと、意地を張り、知識をひけらかして命綱を切り離したりしないことです。命綱に結ばれて神へと上っていくように、へりくだって教会とともに信じること。これが、キリストに従うために不可欠の条件です。自分が神のことばの主人であるかのように振舞わないこと。誤った解放思想の後を追わないこと。これらも、ともに命綱に結ばれることの一部です。「ともにいる」というへりくだりこそが、上昇のために不可欠です。常に秘跡によってあらためて主に手をとっていただくこと。主に清めていただき、力づけていただくこと。たとえ疲れても、上っていく訓練を受け入れること。これらも、命綱に結ばれることの一部です。
 最後に、もう一度いわなければなりません。イエス・キリストの高みに上ること、神ご自身の高みに上ることの一部をなすのは、十字架です。この世のことがらにおいても、自己放棄と厳しい訓練なしには偉大なことを成し遂げられません。すばらしい知的発見や、まことの行動力を獲得するには、訓練や勉学の努力が必要です。それと同じように、いのちに至る道、自らの人間性を実現するための道も、十字架を通って神の高みへと上ったかたとの交わりが必要です。結局のところ、十字架は愛とは何かを示します。自分を失う者だけが自分を見いだすのです。
 まとめていうとこうです。キリストに従うには、第一歩として、真の意味で人間であることへのあこがれに目覚めること、神に目覚めることが必要です。次に必要なのは、上っていく人々と命綱で結ばれること、教会の交わりに加わることです。わたしたちは、教会という「わたしたち」の中で、イエス・キリストという「あなた」との交わりをもちます。そしてそこから、神への道に到達するのです。さらに、信仰と希望と愛をもって、イエス・キリストのことばを聞くこと、実行することも必要です。こうしてわたしたちは決定的な意味でエルサレムへと歩き出します。そしてそのときから、すでにある意味ですべての神の聖なる人々との交わりのうちにいることになります。
 それゆえ、キリストに従うわたしたちの旅路は、地上の国にではなく、新しい神の国に向かいます。この新しい神の国はこの世のただ中で成長するからです。にもかかわらず、地上のエルサレムへの旅も、わたしたちキリスト信者にとって、あのより偉大な旅のために役立つ要素です。わたし自身も、昨年の聖地巡礼に三つの意味を与えました。まず、わたしの考えでは、聖ヨハネがヨハネの手紙一の冒頭で述べたことが聖地巡礼においてわたしたちにも起こります。わたしたちが聞いたものを、わたしたちはある意味で見、手で触れることができるのです(一ヨハネ1・1参照)。イエス・キリストへの信仰は架空のおとぎ話ではありません。それは本当に起こった歴史に基づいています。わたしたちはいわばこの歴史を仰ぎ見、それに触れることができます。ナザレに立つことは感動的なことです。この地で、天使がマリアに現れ、あがない主の母となるという使命を彼女に伝えたからです。ベツレヘムに立つのは感動的なことです。この地で、みことばは肉となり、来て、わたしたちの間に宿られたからです。神が人間の幼子となることを望まれた聖なる地に立つことは、感動的なことです。イエスが十字架上で死んだ場所を目指して、カルワリオ(されこうべ)へと向かう石段を上るのも感動的なことです。最後に、空の墓の前に立って祈ることも感動的です。この場所にイエスの聖なる亡骸が安置され、三日目に復活が起こったからです。イエスが歩んだ地上の道をたどることは、イエスが示してくださった内的な道を喜びと新たな確信をもって歩む助けとなります。この内的な道は、イエスご自身だからです。
 しかし(そしてこれが第二の点ですが)、巡礼者として聖地を歩むとき、わたしたちはまた平和の使者としてそこに赴き、平和の祈りをささげます。そして、「平和」ということばをその名としてもつエルサレムの地に住むすべての人が、エルサレムが真の意味で平和の地となるために、可能なあらゆることをするように強く求めます。こうしてこの巡礼は同時に(これが第三の点ですが)、キリスト信者に対して、自分の生まれた国にとどまり、そこで平和のために懸命に努力するようにという励ましとなります。
 枝の主日の典礼にもう一度戻りたいと思います。枝を祝福する祈りの中で、わたしたちはこう祈ります。わたしたちがキリストとの交わりのうちによいわざの実りを結ぶことができますように。聖パウロについての間違った解釈から、歴史を通じて、また現代においても、繰り返し次のような見解が述べられてきました。よいわざはキリスト信者であることの一部をなすものではない。いずれにせよ、よいわざは人間の救いにとって重要な意味をもたないと。しかし、もしパウロが、わざは人を義とすることができないといったとしても、彼はこのことばで、正しい行為のもつ重要性に反対したのではありません。そして、パウロが律法が終わったと述べたとしても、彼は十戒が乗り越えられ、無効となったことを宣言したのではありません。ここで使徒パウロがかかわった問題全体について考える必要はありません。次のことを強調することが重要です。パウロは「律法」ということばで十戒のことをいおうとしたのではありません。むしろ彼はこのことばで、イスラエルが異教の誘惑に対して自らを守るために用いなければならなかった複雑な生活様式のことをいっているのです。しかし、今やキリストは異教徒に神をもたらしました。このような区別の形式を彼らに押しつけるべきではありません。異教徒に与えられた律法はただキリストだけです。ところでこの律法は、神への愛と隣人への愛、そしてこれにかかわるすべてのことを意味します。キリストから出発する、十戒の新たな深い意味が、この愛の一部をなします。この意味での十戒は、真の愛の根本的な規則にほかなりません。何よりもまず根本的な原則は、神を礼拝すること、神を第一に優先することです。これが最初の三つのおきてが表すことです。これらのおきてはわたしたちにいいます。神なしに何ごとも正しいしかたで生じません。この神がだれであり、どのようなかたであるかを、わたしたちはイエス・キリストというかたから知ります。これに続くのが、家族の神聖性(第四戒)、いのちの神聖性(第五戒)、結婚の秩序(第六戒)、社会の秩序(第七戒)、そして最後に真理の不可侵性(第八戒)です。これらは皆、現代においてもきわめて有効です。またまさに聖パウロのいう意味においてそういえます。パウロの手紙全体を読むならば分かるとおりです。「よいわざの実りを結ぶこと」。聖週間の初めにわたしたちは主に祈ります。わたしたち皆にますますこの実りをお与えください。
 枝の祝福のための福音の終わりに、わたしたちは、巡礼者たちがエルサレムの城門でイエスをたたえる歓呼の声を耳にします。これは詩編118のことばです。このことばは元は祭司が聖なる町から巡礼者に向けて宣言することばでした。しかし、その後、救い主への希望を表すようになりました。「祝福あれ、主のみ名によって来る人に」(詩編118・26、ルカ19・38)。巡礼者たちはイエスのうちに自分たちが待ち望んでいたかたを見いだします。このかたは主の名によって来られます。そればかりか、聖ルカによる福音書によれば、彼らはもう一つのことばを挿入します。「主の名によって来られるかた、王に、祝福があるように」。彼らはこれに続いて歓呼の声を上げます。この歓呼の声は、主の降誕のときの天使の知らせを思い起こさせます。しかし、巡礼者たちは、このことばに手を加えて、考察を促します。天使たちは、天のいと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、み心にかなう人にあれと語ります。聖なる町の入り口の巡礼者たちはいいます。「天には平和、いと高きところには栄光」。彼らは地上に平和がないことをよく知っています。そして、平和のあるところは天であることを知っています。ですから、この叫びは深い苦悩の表現です。それはまた希望の祈りでもあります。すなわち、主の名によって来られるかたが、天にあるものを地上にもたらしてくださるように。このかたの国が神の国となりますように。神の国とは、地上に天が臨在することだからです。教会は、聖体の聖別の前に、聖なる町に入る前にイエスをたたえた詩編のことばを唱えます。このことばはイエスを王として賛美します。この神から来られた王は、神の名によってわたしたちのただ中に入って来られます。今日もこの喜ばしい祝福は常に祈願と希望となります。主に祈ろうではありませんか。どうかわたしたちに天をもたらしてください。神の栄光と人々の平和をもたらしてください。わたしたちはこの祝福のことばを「主の祈り」の願いの心で理解します。「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」。わたしたちは知っています。天は天であり、栄光と平和に満たされたところであることを。なぜなら、神のみ心がそこを完全に支配しているからです。わたしたちはまた知っています。神のみ心が実現されるまでは、地は天とならないことを。それゆえ、天から来られたイエスを賛美しようではありませんか。そしてイエスに祈ろうではありませんか。神のみ心を知り、行うことができるようにわたしたちを助けてください。神の国が世に入り、そこから、世が平和の輝きで満たされますように。アーメン。

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