教皇ベネディクト十六世のヨハネ・パウロ二世5回目の命日祭ミサ説教

3月29日(月)午後6時から、サンピエトロ大聖堂で、ヨハネ・パウロ二世の5回目の命日祭ミサが教皇ベネディクト十六世の司式でささげられました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文はイタリア語とポーランド語)。


親愛なる司教職と司祭職にある兄弟の皆様。
親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 わたしたちは、尊者ヨハネ・パウロ二世の5回目の命日祭にあたり、その霊魂の安息を祈るために、使徒ペトロの墓所近くの祭壇を囲んで集まりました。今年の4月2日は聖金曜日なので、わたしたちは数日早く命日祭を行っています。いずれにせよ、わたしたちは聖週間のただ中にいます。聖週間は精神の集中と祈りにきわめて適した時です。この期間、典礼はイエスの地上における生涯の最後の日々を深く追体験させてくれます。このミサに参加してくださった皆様すべてに感謝申し上げたいと思います。枢機卿の皆様――とくにスタニスワフ・ジーヴィッシュ大司教――、司教、司祭、男女修道者の皆様に心からごあいさつ申し上げます。この日のためにわざわざポーランドからおいでくださった巡礼者の皆様と、この祭儀に必ず参加することを望まれた多くの若者と信者の皆様にごあいさつ申し上げます。
 第一朗読の中で、預言者イザヤは「主のしもべ」の姿を示します(イザヤ42・1-7参照)。「主のしもべ」は、同時に、神に選ばれた者、み心にかなう者でもあります。このしもべは、不屈の堅固さと、ゆだねられた使命を果たすまで尽きることのない力をもって働きます。しかし彼は、この偉大な計画を実現するために不可欠と思われる人間的な手段を用いません。彼は確信に基づく力をもつ者として自らを示します。そして、この力とは、神が彼のうちに置いた霊です。この霊は、柔和と力をもって行動する力を彼に与え、最終的に成功を収めることを約束します。わたしたちは、霊感を受けた預言者が主のしもべについて述べることを、敬愛するヨハネ・パウロ二世に当てはめることができます。主は彼を自分に仕えるよう招き、ますます大きな責務を彼にゆだねました。そしてご自分の恵みと絶えざる支えをもって彼とともに歩んでくださいました。長い教皇職の間、ヨハネ・パウロ二世は、とくに抵抗、憎悪、拒絶に遭ったときに、少しの弱さもためらいも見せず、力強く正しいことを告げ知らせるために力を尽くしました。彼は自分が主のみ手に導かれていることを知っていました。そして、それが彼に実り豊かな奉仕職を果たすことを可能にしました。わたしたちはこのことをあらためて心から神に感謝したいと思います。
 たった今朗読された福音はわたしたちをベタニアへと導きます。福音書記者が述べるとおり、このベタニアで、ラザロとマルタとマリアは師であるかたに夕食を用意しました(ヨハネ12・1)。イエスの三人の友人の家で行われたこの晩餐は、死が間近に迫った予感によって特徴づけられます。過越祭の六日前。裏切り者であるユダの進言。マリアが葬りの準備として行ったあわれみのわざの一つを思い起こさせる、イエスのこたえ。あなたがたはいつもわたしと一緒にいるわけではないということば。ラザロを殺そうとする企み。この企みのうちには、イエスを殺そうとする意志が反映されています。この福音の記事の中に、皆様に注目していただきたい一つの動作が見いだされます。ベタニアのマリアは「純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(ヨハネ12・3)。マリアの動作は主に対する深い信仰と愛を表します。マリアにとって、師であるかたの足を水で洗うだけでは不十分でした。むしろ彼女はたくさんの量の高価な香油をイエスの足に注ぎます。ユダが反対したとおり、この香油は300デナリで売ることが可能でした。さらに、彼女は慣例のとおりに頭に香油を注がず、それを足に注ぎました。マリアは自分がもっているもっとも高価なものを、深く敬虔な態度でイエスにささげます。愛は計算せず、計らず、出費を気にせず、隔てを設けません。むしろ、喜んで与え、他の人の善のみを求め、物惜しみ、吝嗇、恨み、人が時として抱く心の狭さを乗り越えます。
 マリアは奉仕の態度で、へりくだってイエスの足元に身を置きます。それは師であるかたご自身が最後の晩餐でなさったとおりです。第四福音書はいいます。そのときイエスは「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い・・・・始められた」(ヨハネ13・4-5)。ヨハネによる福音書はいいます。それは、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように」(ヨハネ13・15)なるためです。イエスの共同体の規則は、愛の規則です。この愛は自分のいのちをささげるまでに仕えることができるものです。香油は広がります。福音書記者はいいます。「家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネ12・3)。神の限りない愛にこたえてなされた、マリアの動作の意味はその場にいた人全員に伝わりました。あらゆる愛のわざ、キリストへの真心からの信心を表すわざは、個人的な出来事にとどまりません。それは個人と主の間の関係だけにかかわるのではありません。むしろそれは教会のからだ全体にかかわり、伝わります。それは愛と喜びと光を呼び覚ますのです。
 「ことばは、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1・11)。マリアの行いと対照的なのは、ユダの態度とことばです。それは、貧しい人々に助けを差し伸べるように見せかけながら、財産への貪欲にとらわれ、自分に閉じこもる人の利己主義といつわりを隠しています。このような人は神の愛のよい香りに包まれることができません。ユダは、計算してはならないところで計算し、あさましい心をもって、愛と贈与と完全な献身に基づく場に入るのです。すると、そのときまで沈黙を守っていたイエスは、マリアの振る舞いを弁護していいます。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから」(ヨハネ12・7)。イエスには、マリアが神の愛を悟ったことが分かっています。そして、今やご自分の「時」が近づいていることを示します。それは、十字架の木の上で、愛が最高の形で表される「時」です。神の子は、人がいのちを得るために、ご自身をお与えになります。人を神の高みへと導くために、死の深淵に降ります。彼はへりくだることを恐れず、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2・8)。聖アウグスティヌス(Augustinus 354-430年)は、福音書のこの個所を注解した説教の中で、切迫したことばをもって、わたしたち皆を招きます。マリアの振る舞いに倣い、具体的な形でイエスに従うことによって、この愛の循環に入りなさいと。「どの魂であれ、信仰深くありたいものは、マリアとともに高価な香油を主の足に塗りなさい。・・・・イエスの足に塗りなさい。(つまり)よく生きることで、主の足跡をたどりなさい。髪でふきなさい。(つまり)もしあなたが余分にもっているなら、貧しい人々に与えなさい。すると主の足をぬぐったのだ」(『ヨハネ福音書講解』:In Johannis Evangelium tractatus 50, 6〔大島春子訳、『アウグスティヌス著作集24 ヨハネによる福音書講解説教(2)』教文館、1993年、363頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。尊者ヨハネ・パウロ二世はこの愛のしるしのうちに全生涯を過ごしました。彼は、寛大に、惜しみなく、限度も計算もなしに、自らを与えることができました。ヨハネ・パウロ二世を動かしたのは、キリストへの愛でした。彼はこのかたにいのちをささげました。そしてこの愛は、あふれるほど豊かで無条件の愛でした。愛のうちにますます神に近づいたからこそ、彼は現代人とともに旅する者となることができました。そして、世に神の愛の香りを広めることができました。ヨハネ・パウロ二世を知り、訪れることのできた人は皆、「いのちあるものの地で主の恵みを見る」ことへの確信が彼のうちでどれほど生き生きとしたものであったかに手で触れることができました。答唱詩編で朗読されたとおりです(詩編27・13)。この確信は生涯を通じて彼とともにありました。そして、とくに地上の旅の最後の時期において示されました。実際、次第に肉体が弱まっても、それが彼の岩のような信仰、光輝く希望、燃えるような愛を傷つけることは決してありませんでした。ヨハネ・パウロ二世はキリストと教会と全世界のために自らをささげ尽くしました。彼は、愛のために、愛をもって、最後まで苦しんだのです。
 教皇在位25周年にあたって行った説教の中で、ヨハネ・パウロ二世は、教皇に選ばれた瞬間、イエスのペトロへの問いかけを心の中で強く感じたと打ち明けています。「わたしを愛しているか。この人たち以上にわたしを愛しているか」(ヨハネ21・15-16)。ヨハネ・パウロ二世は続けていいます。「毎日、わたしの心の中で、イエスとペトロとの間で交わされたのと同じ対話が交わされます。わたしは心の中で、復活したキリストの優しいまなざしに目を注ぎます。しかし、キリストは、わたしの人間的な弱さをご存じでありながら、信頼をもってペトロと同じようにこたえるようにわたしを励ましてくださいます。『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます』(ヨハネ21・17)。それからキリストは、ご自身がわたしにおゆだねになった責務を引き受けるように、わたしを招きます」(ヨハネ・パウロ二世「教皇在位25周年記念ミサ説教(2003年10月16日)」)。これは信仰と愛、すべてのものに打ち勝つ神の愛に満たされたことばです。(以上イタリア語。以下ポーランド語)
 最後に、ここにおられるポーランドの皆様にごあいさつ申し上げたいと思います。皆様の多くは、同じ文化と霊的伝統のもとで育った同じ祖国の子として、特別な感情をもって、尊者である神のしもべの墓を囲んで集まっておられます。偉大なポーランド人であるヨハネ・パウロ二世の生涯と著作は皆さまに誇りを抱かせることができます。しかし、皆様は、このことが、ヨハネ・パウロ二世が絶えず教えた信仰と希望と愛を忠実にあかしするようにという大きな招きであることも思い起こさなければなりません。ヨハネ・パウロ二世の執り成しによって、主の祝福が皆様を常にささえてくださいますように。(以下イタリア語)
 主の受難、死去、復活の栄光ある日々のただ中で、感謝の祭儀を続けるにあたり、尊者ヨハネ・パウロ二世の模範に倣って、信頼をこめて教会の母である聖なるおとめマリアの執り成しに身をゆだねようではありませんか。わたしたちは、どんな状況にあっても、神の子とそのあわれみ深い愛のうむことのない使徒となるよう努めます。どうかわたしたちを支えてください。アーメン。 

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