教皇ベネディクト十六世の主の晩餐のミサ説教

4月1日(木)午後5時30分から、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は聖木曜日の主の晩餐のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 聖ヨハネはその福音書で、他の3人の福音書記者よりも詳しく、独自のしかたで、イエスの告別説教についてわたしたちに伝えます。この告別説教は、いわばイエスの遺言、またそのメッセージの本質的核心のまとめであると思われます。説教の初めに行われるのは洗足です。この洗足によって、清めを必要とする人類のあがないのためのイエスの奉仕は、へりくだりのわざによって要約されます。最後に、イエスのことばは、その「大祭司の祈り」において、祈りに変わります。釈義学者はこの「大祭司の祈り」の背景をユダヤ教の贖罪の祭りの儀式に見いだします。この祭りと儀式の意味(すなわち、世の清め、神との和解)は、イエスの祈りによって実現されます。イエスの祈りは同時に、受難を先取り、この受難を祈りに造り変えるのです。こうして「大祭司の祈り」は、きわめて特別なしかたで、聖木曜日の永遠の神秘をも明らかにします。すなわち、イエス・キリストの新しい祭司職と、使徒が聖別され、弟子が主の祭司職にあずかることによる、この祭司職の継続です。今わたしは、このくみ尽くすことのできないテキストから、イエスの3つのことばを選びたいと思います。これらのことばはわたしたちを聖木曜日の神秘へとより深く導き入れてくれるからです。
 第一は次のことばです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17・3)。すべての人は生きることを望みます。まことの、完全ないのちを望みます。労苦に値し、喜びに満ちたいのちを望みます。同時にこのいのちへのあこがれは、死への抵抗と結びついています。にもかかわらず、死は避けがたいものです。イエスが永遠のいのちについて語るとき、彼がいおうとしているのは真の、まことのいのちです。生きるに値するいのちです。イエスは単に死後のいのちのことをいいたいのではありません。イエスはいのちの真のあり方をいいたいのです。このいのちは完全な意味でいのちであり、そのため死から自由です。しかしそれは実際にすでに現世で始まることが可能です。それどころか、それは現世で始まらなければなりません。わたしたちがすでに今、真の意味で生きることを学んだとき、死が取り去ることのできないこのいのちを学んだとき、初めて永遠への約束は意味をもちます。しかしこのことはどのようにすれば実現するのでしょうか。この、死もそれを傷つけることのできない、真の意味で永遠のいのちとは何なのでしょうか。イエスのこたえをわたしたちは聞きました。まことのいのちとは、あなた(神)と、あなたのお遣わしになったかたである、イエス・キリストを知ることです。驚くべきことに、わたしたちに告げられたのは、いのちとは知識だということです。これはまず次のことを意味します。いのちとは関係です。だれもいのちを自分自身から、自分だけのためにもつのではありません。わたしたちは他の人から、他の人との関係の中で、いのちをもちます。もしそれが真理と愛に根ざした関係なら、与えるとともに与えられることであるなら、それはいのちを完全にし、美しくします。しかし、まさにそのために、死がこの関係を破壊することは、特別な苦しみとなりえます。それはいのちそのものを疑わしいものとする可能性があります。いのちそのものであるかたとの関係だけが、わたしのいのちを死の海から守ることができます。わたしを死の海を超えて生き長らえさせることができます。すでにギリシア哲学の中に、次の思想が存在しました。すなわち、人間は、破壊しえないもの、すなわち永遠の真理と一致するなら、永遠のいのちを見いだすことができるというものです。いわば、人間は、永遠の本質を自らのうちに保つために、真理で満たされなければなりません。しかし、この真理が人格であるときに初めて、真理は死の闇を超えたところにわたしを導くことができます。わたしたちは神に、すなわち復活したイエス・キリストにしがみつきます。そこからわたしたちは、いのちそのものであるかたによって導かれます。この関係の中で、わたしたちは死をも超えて生きます。なぜなら、いのちそのものであるかたがわたしたちを見捨てることはないからです。
 しかし、イエスのことばに戻りたいと思います。永遠のいのちとは、あなたと、あなたがお遣わしになったかたを知ることです。神を知ることが、永遠のいのちになります。いうまでもなく、ここで「知る」ということばがいいたいのは、外的な知識以上のことです。外的な知識とは、たとえば、有名人が死んだことや、発明が行われたことを知ることです。聖書がいう意味で知るとは、内的な意味で他者と一つになることです。神を知る、キリストを知るとは、常にこのかたを愛することを意味します。知ること、愛することによって、ある意味でこのかたと一つになることです。それゆえ、わたしたちのいのちは真の、まことのいのちになります。そこから、それは永遠のいのちにまでなります。そのためにわたしたちは、あらゆる存在といのちの源であるかたを知らなければなりません。こうしてイエスのことばはわたしたちにとって招きとなります。イエスの友になろうではありませんか。ますますイエスを知ろうと努めようではありませんか。イエスと対話しながら生きようではありませんか。イエスから正しく生きることを学ぼうではありませんか。イエスをあかししようではありませんか。そうすれば、わたしたちは愛する者となり、そこから、正しく行動するようになります。そうすれば、わたしたちは真の意味で生きるようになります。
 「大祭司の祈り」の中で、イエスは2回、神の名を現すことについて語ります。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしはみ名を現しました」(ヨハネ17・6)。「わたしはみ名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようになるためです」(ヨハネ17・26)。主はここで燃える柴の場面を暗示します。この場面で、神はモーセの求めにこたえてみ名を現されたからです。それゆえイエスはこういいたいのです。わたしは燃える柴によって始まったことを完成させます。モーセにご自身を知らせた神は、わたしのうちで今やご自身を完全に現されます。こうしてイエスは和解のわざを実現します。神は三位一体の神秘のうちに御子を愛されます。この愛が今や人々をこの神の愛の循環へと導き入れます。しかし、燃える柴の啓示が完成され、その目的に完全に達するとは、もっと正確にいえばどういうことなのでしょうか。ホレブの山で起きたことの本質は、謎めいたことばではありませんでした。すなわち、神がいわば自分を認識させるためのしるしとしてモーセに知らせた「名」ではありませんでした。名を知らせるとは、他の人との関係に入ることです。それゆえ、神の名が現されるとは、自らのうちに現存する、限りのない神が、人間との関係に入ることを意味します。神はいわばご自身から出て、わたしたちの一人となられます。わたしたちのただ中に、わたしたちのために存在するかたとなられます。だからイスラエルは神の名を単なる神秘に包まれたことばとは考えませんでした。むしろそれを、神がわたしたちとともにおられることだと考えたのです。聖書によれば、神殿は神の名が住まわれる場所です。神はいかなる地上の場所に閉じ込められることもありません。神は世を超えたところに限りないかたとしてとどまっておられます。にもかかわらず、神は、名を呼ぶことのできるかたとして、すなわち、わたしたちとともにいることを望むかたとして、わたしたちのために神殿におられます。神がご自分の民とともにいることが、御子の受肉によって実現されました。受肉のうちに、燃える柴によって始まったことが本当に完成しました。神は、わたしたちが人間として呼ぶことのできるかたとなり、わたしたちの近くに来られます。神はわたしたちの一人となります。にもかかわらず、神は永遠の限りない神であり続けます。神の愛は、いわばご自身から出て、わたしたちの中に入ります。主がパンとぶどう酒の形態のもとに現存されるという、聖体の神秘は、この神がわたしたちとともにおられるという新しいあり方の最高の表現です。預言者イザヤはこう祈りました。「まことにあなたはご自分を隠される神、イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる」(イザヤ45・15)。このことは真実であり続けます。しかし、同時にこういうこともできます。まことにあなたは近くにおられる神、あなたはわたしたちとともにおられる神。あなたはあなたの神秘をわたしたちに現されました。そして、み顔をわたしたちに示されました。あなたはご自身を現して、ご自身をわたしたちの手にお与えくださいました。・・・・このときにあたり、わたしたちは喜びと感謝で満たされなければなりません。なぜなら、神がご自身を示してくださったからです。限りなく、わたしたちの理性ではとらえられない神が、近くにいてわたしたちを愛してくださるからです。この神をわたしたちは知り、愛することができるからです。
 「大祭司の祈り」のもっとも有名な祈願は、当時の弟子と、未来の弟子を含めた、弟子たちの一致を求める祈りです。「また、彼ら(すなわち、二階の広間に集まっていた弟子の共同体)のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(ヨハネ17・20-21。17・11、13参照)。主は正確な意味で何を願っておられるのでしょうか。まず主は、当時と、将来のすべての時代の弟子のために祈ります。主ははるか未来の歴史に目を向けます。主は歴史の中に幾多の危険を見いだし、この共同体を父のみ心にゆだねます。主は教会とその一致を与えてくださるよう、父に願います。ヨハネによる福音書の中に教会は登場しないといわれてきました。しかし、この箇所で教会はその本質的な特徴をもって現れます。教会は、使徒のことばを通じてイエス・キリストを信じ、そのことによって一つになる共同体です。イエスは教会が唯一で使徒的であることを願います。それゆえ、この祈りは、固有の意味で、教会を設立する行為だといえます。主は教会を与えてくださるよう、父に願います。教会は、イエスの祈りから、使徒の宣教を通じて生まれます。使徒たちは神の名を知らせ、人々を神との愛の交わりへと導き入れるからです。それゆえイエスは願います。弟子の宣教が世々に続けられますように。この宣教が、この宣教によって、神と、神のお遣わしになったかた、御子イエス・キリストを知った人々を一つに集めますように。主は祈ります。人々が信仰へと導かれ、信仰を通じて、愛へと導かれますように。主は父に願います。この信じる人々を「一つにしてください」(ヨハネ17・21)。彼らが生きることができますように。すなわち、神と、イエス・キリストとの内的交わりに入ることができますように。そして、この神との内的交わりに生きることが、目に見える一致を作り出しますように。主は2回、この一致によって、世は、イエスが神から遣わされたことを信じるようになるといわれます。それゆえ、一致は目に見えるものとならなければなりません。一致は、単に人間の間で実現可能な一致を超えなければなりません。それは、この一致が世のためのしるしとなり、イエス・キリストが神から遣わされたことを信じさせるためです。イエスの祈りはわたしたちに保証します。使徒の宣教は歴史の中で絶えることがありません。使徒の宣教は常に信仰を呼び覚まし、人々を集めて一致へと導きます。この一致が、イエス・キリストが神から遣わされたことのあかしとなります。しかし、この祈りは常にわたしたちに良心の糾明を促します。このときにあたり、主はわたしたちに尋ねます。あなたは、信仰により、わたしとの交わりのうちに、また、そこから、神との交わりのうちに生きていますか。それともあなたは、むしろ自分のために生き、そのために信仰から離れてはいないでしょうか。そして、分裂をもたらす罪を犯し、世にわたしが神から遣わされたことを隠してはいないでしょうか。人々が神の愛に近づくのを妨げてはいないでしょうか。イエスの歴史上の受難の一部であり、歴史を通じて続くイエスの受難の一部であり続けることはこれです。イエスは、一致を脅かし、破壊するすべてのものを、かつて見、今も見続けています。主の受難を黙想するこのとき、イエスの苦しみを感じ取ろうではありませんか。わたしたちがイエスの祈りに反しているとき、イエスの愛にあらがうとき、イエスが神から遣わされたことを世にあかしすべき一致に反対するとき、イエスは苦しむのです。
 主は至聖なる聖体のうちにご自身を、ご自身のからだと血を、わたしたちの手に、わたしたちの心に与えてくださいます。このときにあたり、イエスの祈りに触れていただこうではありませんか。わたしたち自身もイエスの祈りに入ろうではありませんか。そこから、イエスに願おうではありませんか。そうです、主よ。あなたを信じる信仰をお与えください。あなたは父と聖霊と一つであられます。あなたの愛に生きることができるようにしてください。こうして、あなたが父と一つであられるように、わたしたちを一つにしてください。そうすれば、世は信じるようになります。アーメン。

PAGE TOP