教皇ベネディクト十六世の聖香油のミサ説教

4月1日(木)午前9時30分から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は聖香油のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 教会の典礼の中心は秘跡です。秘跡が意味するのは、まず何かを行うのがわたしたち人間ではないということです。むしろ、神が先にそのわざをもってわたしたちと出会いに来られ、わたしたちをご覧になり、わたしたちをご自身へと導いてくださるということです。もう一つの特徴はこれです。神は物質的なものを通して、すなわち、ご自分に奉仕するために取り上げた被造物のたまものを通して、わたしたちに触れられます。こうして神は被造物をわたしたちと神ご自身との出会いの手段となさるのです。秘跡の世界がその上に築かれるための、被造物の4つの要素があります。水と、小麦から作られたパンと、ぶどう酒と、オリーブ油です。水はあらゆる生命にとっての基本的要素であり、かつ根本的な条件です。この水は、わたしたちが洗礼を通してキリスト信者となり、新たないのちへと生まれるという行為に不可欠なしるしです。水はどこにおいても重要な要素であり、それゆえ、すべての人がキリスト信者として新たに生まれるための共通の道を表します。これに対して、他の3つの要素は地中海地域の文化に属しています。ですから、これらの要素は、キリスト教が発展した具体的な歴史的環境を指し示します。神は地上の特定の場所で働かれました。神は本当の意味で人間とともに歴史を造られました。これらの3つの要素は、被造物のたまものであるとともに、わたしたちと神の歴史をも指し示します。ここで被造物と歴史とが総合されます。神のもろもろのたまものは、世界の特定の場所とわたしたちとを常に結びつけます。この特定の場所で、神は時間と歴史の中でわたしたちとともに働こうと望まれ、わたしたちの一人となられたからです。
 これらの3つの要素には段階もあります。パンは日常生活とかかわります。パンは毎日の生活にとって根本的なたまものです。ぶどう酒は祭り、すなわち被造物の最上のことがらにかかわります。同時に、特にこのぶどう酒によって、あがなわれた者の喜びが表されます。オリーブ油は多くの意味をもっています。それは栄養であり、薬であり、人を美しくし、戦いに備えさせ、力を与えます。王や祭司は油を注がれました。そこから、油は威厳と責任を表すしるし、また、神に由来する力を表すしるしともなります。わたしたちの「キリスト者」という呼び名の中にもオリーブ油の神秘が含まれます。実際、教会が異教徒から生まれた初めの頃からキリストの弟子の呼び名だった「キリスト者」は「キリスト」ということばに由来します(使徒言行録11・20-21参照)。「キリスト」は「メシア」ということばのギリシア語訳です。「メシア」は「油注がれた者」を意味しています。キリスト者であるとは、キリストに由来する者、キリストに属する者、神によって油注がれた者に属する者だということです。神はこの油注がれた者に王職と祭司職とを授けたからです。「キリスト者」であるとは、神ご自身が油注がれたかたに属するということです。神は、物質的な油によってではなく、油によって表されるかた、すなわちご自分の霊によって油を注がれました。こうしてオリーブ油は、きわめて特別な意味で、人間としてのイエスが聖霊に満たされていたことを表す象徴となります。
 聖木曜日の聖香油のミサの中で、聖香油は典礼の中心に置かれています。聖香油は一年全体のために司教座聖堂で祝福されます。そこから聖香油は、司教職によって保証された教会の一致をも表します。そして、わたしたちの魂のまことの「牧者であり、監督者である」キリストを指し示します。聖ペトロがキリストをそのように呼んだとおりです(一ペトロ2・25)。同時に聖香油は、聖木曜日の神秘に錨(いかり)を下ろしている、典礼暦年全体を一つにまとめます。最後に、聖香油はオリーブの園を指し示します。イエスはこのオリーブの園でご自身の受難を内的に受け入れられました。しかし、オリーブの園は、イエスがそこから父のもとに上られた場所でもあります。それゆえそこはあがないの場所です。神はイエスを死のうちに捨て置かれなかったのです。イエスは父とともに永遠に生きておられます。だからこそイエスはどこにでもいることができ、いつもわたしたちとともにおられるのです。このオリーブ山の二つの神秘は、教会の塗油の秘跡の中で常に「現実」となります。4つの秘跡の中で、油は、わたしたちに触れる神のいつくしみを表すしるしです。すなわち、洗礼、聖霊を受ける秘跡としての堅信、そしてさまざまな叙階の秘跡、最後に、病者の塗油です。病者の塗油において、油はいわば神の薬としてわたしたちに与えられます。この薬は今やわたしたちに神のいつくしみを約束します。わたしたちに力と慰めを与えます。しかも同時にそれは、病気の時を超えて、決定的ないやしである復活を指し示します(ヤコブ5・14参照)。こうして油はさまざまな形において、生涯のあらゆるところでわたしたちに同伴します。すなわち、洗礼志願期と洗礼から始まり、裁き主であり救い主である神との出会いを準備する時に至るまでです。最後に、聖香油のミサの中で、秘跡としての油のしるしは、神の創造を語ることばとして示されます。聖香油のミサは特にわたしたち司祭に語りかけます。それはわたしたちにキリストについて語ります。神はこのかたに油を注いで、王また祭司としました。司祭叙階を通して、わたしたちをご自分の祭司職、すなわち「塗油」にあずからせるかたについて語ります。
 そこでわたしは、司祭召命との本質的な関連において、この聖なるしるしの神秘を簡単に説明してみたいと思います。通俗的な語源論では、すでに古代から、ギリシア語の「エライオン(油)」と「エレオス(あわれみ)」ということばが結びつけられていました。実際、さまざまな秘跡の中で、祝福された油は常に神のあわれみを表すしるしです。そのため、司祭のための塗油は、神のあわれみを人々にもたらす任務を意味します。わたしたち司祭の生活のともしびの中で、あわれみの油を決して絶やしてはなりません。いつも適切なときにこの油を主から得させていただこうではありませんか。主のことばと出会うことによって、秘跡を受けることによって、主のみ前で祈り続けることによって。
 洪水の終わり(それゆえ、神と人間世界の新たな平和)を告げるオリーブの枝をくわえた鳩の物語を通じて、鳩だけでなく、オリーブの枝とオリーブそのものも平和の象徴となりました。古代のキリスト教徒はしばしば死者の墓を、勝利の冠と、平和の象徴であるオリーブの枝で飾りました。彼らは知っていたからです。キリストは死に打ち勝ち、死者はキリストの平和のうちに安らっていることを。彼らは知っていました。キリストが自分たちを待ち受けていることを。キリストは世が与えることのできない平和を彼らに約束してくださったことを。彼らは復活した主が弟子たちに最初に述べたことばを思い起こしました。「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20・19)。いわば復活した主ご自身がオリーブの枝をもち、世にご自身の平和をもたらしてくださいます。主は救いをもたらす神のいつくしみを告げます。主こそわたしたちの平和です。それゆえキリスト者は平和の人とならなければなりません。十字架の神秘が和解の神秘であることを知り、実践する人とならなければなりません。キリストは、剣によってではなく、十字架によって勝利を収めます。キリストは、憎しみを乗り越えることによって勝利を収めます。キリストは、より大きな愛の力によって勝利を収めます。キリストの十字架は暴力に対する拒絶を表します。まさに、だからこそ十字架は神の勝利のしるしなのです。この勝利のしるしは、イエスの新しい道を告げ知らせます。苦しむ人は権力をもつ人よりも力があります。キリストは十字架上でご自分をささげることによって、暴力に打ち勝ちました。司祭であるわたしたちは、イエス・キリストとの交わりのうちに、平和の人となるよう招かれています。わたしたち司祭は、暴力に立ち向かい、より大きな愛の力に信頼するよう招かれているのです。
 油という象徴は、それが戦うための力を与えることともかかわります。このことは平和というテーマと対立するものではありません。むしろそれは平和というテーマの一部をなします。キリスト者の戦いは、昔も今も、暴力を使わないことです。むしろ、昔も今も、善のために、すなわち神のために、進んで苦しむことです。キリスト者は、よい市民として、法を重んじ、正しいこと、よいことを行います。現行の法体系に属することを拒むのは権利ではなく不正です。殉教者の戦いは、不正を具体的な形で拒絶することです。彼ら殉教者は、偶像崇拝、すなわち皇帝崇拝への参加を拒否することによって、いつわり、すなわち、人間とその権力の崇拝に従うことを拒んだのです。いつわりと、いつわりがもたらすものを拒絶することによって、彼らは正義と真理の力を高めました。このようにして彼らは真の平和のために貢献したのです。現代においても、キリスト者にとって、法に従うことは重要です。法は平和の基盤だからです。現代においても、キリスト者にとって、法にまで高められた不正を受け入れないことは重要です。このような不正とは、たとえば、生まれる前の罪のない幼子を殺害することです。まさにこのようにしてわたしたちは平和に貢献します。このようにしてわたしたちはイエス・キリストの足跡に従う者となります。聖ペトロはこのかたについてこう述べました。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになるかたにお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」(一ペトロ2・23-24)。
 教父たちは詩編45のことばに引きつけられました。これは伝承によればソロモンの結婚を歌った詩編です。キリスト者はこの詩編を、新しいソロモンであるイエス・キリストと教会の婚姻を歌った詩編として再解釈しました。詩編は王であるキリストに向かっていいます。「神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに、神、あなたの神は油を注がれた、喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で」(詩編45・8)。まことの王であるキリストに注がれた、この喜びの油とは何でしょうか。教父たちはこのことに関して疑いなくこう考えました。喜びの油とは聖霊です。聖霊がイエス・キリストの上に注がれたのです。聖霊は神から来る喜びです。この喜びが、イエスから、福音によって、わたしたちの上に再び注がれます。このよい知らせはわたしたちに告げます。神はわたしたちを知っておられます。神はいつくしみ深いかたです。神のいつくしみはどんな力をも超えた力です。神はわたしたちを求め、愛しておられます。喜びは愛の結ぶ実です。キリストの上に注がれ、キリストを通してわたしたちにももたらされた喜びの油は、聖霊です。この愛のたまものは、わたしたちに生きる喜びを与えます。わたしたちはキリストを知り、そしてキリストのうちに神を知っています。だからわたしたちは、人間であることはよいことであると知っているのです。生きることはよいことです。なぜなら、わたしたちは愛されているからです。真理そのものは善だからです。
  古代教会において、祝福された油は、特別な意味で、聖霊の現存のしるしと考えられました。聖霊は、キリストから発出して、ご自身をわたしたちに伝えてくださるからです。聖霊は喜びの油です。この喜びは、現代社会が求めるような娯楽や外的な楽しみとは異なります。適切な形であれば、娯楽はよいものであり、それを楽しんでよいのはいうまでもありません。笑うことができるのはよいことです。しかし、娯楽がすべてではありません。娯楽はわたしたちの人生の一部分にすぎません。娯楽がすべてになろうとするなら、それは仮面となります。この仮面の裏には、絶望が隠れています。少なくとも疑いが隠れています。それは、生きるとは本当によいことなのか、あるいは、存在しないことは存在することよりよいのではないかという疑いです。キリストによってわたしたちが出会う喜びはこれとは異なります。この喜びはわたしたちを楽しませます。それは本当です。ただし、この喜びが苦しみとも共存できることもたしかです。この喜びはわたしたちに苦しむ力を与えます。しかも、苦しんではいても、にもかかわらず、心は喜び続けられる力を与えます。この喜びは、わたしたちに他の人と苦しみを共有する力を与えます。そこから、互いに自分を与え合うことを通じて、神の光といつくしみを人に感じさせられる力を与えます。わたしはいつも使徒言行録の記事に感銘を受けます。この記事はいいます。使徒たちは最高法院の命令により鞭で打たれた後、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」(使徒言行録5・41)ました。愛する人は、自分が愛する者のために、また自分の愛のゆえに、進んで苦しみます。まさにこのようにしてその人はもっとも深い喜びを味わいます。殉教者の喜びは、彼らが受けた拷問よりも強いのです。この喜びは最終的に勝利を収めます。そして、キリストに向けて歴史の扉を開きます。わたしたち司祭は、聖パウロがいうとおり、「あなたがたの喜びのために協力する者」(二コリント1・24)です。オリーブの実を通して、祝福された油を通して、造り主のいつくしみが、あがない主の愛がわたしたちに触れてくださいます。祈ろうではありませんか。あがない主の喜びがますます深くわたしたちを満たしますように。そして祈ろうではありませんか。世は真理から湧き出る喜びを切望しています。このような世に、この喜びを新たにもたらすことができますように。アーメン。

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