教皇ベネディクト十六世の復活徹夜祭ミサ説教

4月3日(土)午後9時から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は復活徹夜祭のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。
教皇はこのミサの中で、さまざまな教区の6名の洗礼志願者に洗礼を授けました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 外典『アダムとエバの生涯』からとられたユダヤ教の昔話はこう語ります。アダムは病にかかって死のうとするとき、息子のセトをエバとともに楽園のほとりに遣わして、あわれみの油をとるよう命じます。それは、この油を塗っていやされるためです。いのちの木を探しに出かけた二人が力の限りに泣いて祈ると、大天使ミカエルが現れて、二人にいいます。あなたがたがあわれみの木の油を得ることはなく、アダムは死ぬほかありません。その後、キリスト教の読者はこの大天使の知らせに慰めのことばを付け加えました。大天使はいいます。5500年後、愛に満ちた王であるキリスト、すなわち神の子が来られます。そして、このかたを信じるすべての者にご自身のあわれみの油を注がれます。「あわれみの油は、世々にわたって、水と聖霊によって生まれ変わる人々に与えられるでしょう。そのとき、愛に満ちた神の子、キリストは地の底に降(くだ)り、あなたがたの父を楽園のあわれみの木のもとへと導いてくださいます」。この物語は、わたしたちに降りかかる病と苦しみと死を前にした人間の苦悩を余すところなく示します。人間が死にあらがうことは明らかです。人々は繰り返しこう考えてきました。どこかに死をいやしてくれる薬草があるに違いない。遅かれ早かれ、さまざまな病気をいやすだけでなく、真の意味で避けられない運命である、死をいやしてくれる薬を見つけられるに違いない。要するに、不死の妙薬が存在するに違いない。現代においても、人間はそのような治癒をもたらす物質を探し続けています。現代医学は、たとえ死そのものをなくすことはできなくても、できるかぎり多くの死の要因を取り除き、死を先延ばししようと努めています。いのちをますます延ばし、よいものにしようと努めています。しかし、少し考えてみたいと思います。死を完全になくすことはできなくても、限りなく死を先延ばしし、何百歳までも生きることができるようになったとすれば、実際にどうなるでしょうか。それはよいことでしょうか。人類は限りなく高齢化し、若者の居場所はなくなります。革新を起こす力は消え、終わりのないいのちは楽園ではなく、むしろ刑罰となります。死をいやすまことの薬草はそういうものではないはずです。それは、地上のいのちをただ限りなく延ばすことではないはずです。それは地上のいのちを内側から造り変えるものであるはずです。それは、わたしたちのうちに、本当の意味で永遠を受け入れられるような、新しいいのちを造り出すはずです。それは、わたしたちを、死とともに終わるのでなく、死によって初めて完全になり始めるように造り変えるはずです。キリスト教のメッセージ、すなわちイエス・キリストの福音の新しさと魅力は、わたしたちに告げられた次のことでした。そしてそれは、今も同じです。たしかに、死をいやす薬草は存在します。まことの不死の妙薬は存在します。わたしたちはそれを見いだしました。わたしたちはそれを手に入れることができます。洗礼のとき与えられるのが、この薬です。新しいいのちがわたしたちのうちに始まります。この新しいいのちは、信仰のうちに成長します。それは、古いいのちが死ぬことによって消えるのではなく、むしろ、古いいのちが死ぬことによって初めて完全な姿を現します。
 これに対して、ある人は――もしかすると多くの人は、こうこたえるかもしれません。たしかにこの知らせは聞きましたが、わたしは信じられません。そして、信じることを望む人々もこう尋ねるかもしれません。それは本当でしょうか。どのようにすればそれを想像できるでしょうか。どのようにして、古いいのちが造り変えられ、そこから、死を知ることのない新しいいのちが生まれるのでしょうか。ここでも、古代ユダヤ教の文書は、洗礼によってわたしたちのうちで始まるこの不思議な過程について考えるための助けとなります。この文書は、太祖エノクがどのようにして神の玉座に上げられたかを語ります。けれどもエノクは、天使たちの栄光に輝く力を前にして恐れを覚え、人間の弱さによって神のみ顔を仰ぎ見ることができません。『エノク書』は続けていいます。「すると神はミカエルにいわれた。『エノクをとって、地上の衣服をはぎ取りなさい。彼に甘い油を注いで、栄光の衣をまとわせなさい』。そこでミカエルはわたしの衣をはぎ取り、わたしに甘い油を注いだ。この油は光よりも輝いていた。・・・・この油の輝きは太陽の光のようであった。わたしは自分の姿を見た。すると見よ、それは栄光に輝く者のようであった」(Ph. Rech, Inbild des Kosmos, II, 524)。
 神の新しい衣を新たにまとうこと。洗礼によって行われるのは、まさにこのことです。キリスト教信仰はそう語ります。たしかに、この衣の交換は、生涯全体を通して行われることがらです。洗礼で行われることは、わたしたちの生涯全体にわたる過程の始まりにすぎません。こうしてわたしたちは永遠を受け入れられる者となります。そして、イエス・キリストの光の衣をまとって、神のみ前に出、神とともに永遠に生きることができるのです。
 洗礼式には、わたしたちが全生涯で取り組むべきこの出来事を表し、目に見えるものとする2つの要素があります。洗礼とは、何よりもまず、悪霊の拒否と、約束に基づく儀式です。古代教会では、洗礼志願者は西を向きました。西は、闇、日没、死、それゆえ罪の支配の象徴です。洗礼志願者は西を向いて、3回「退けます」と唱えました。すなわち、悪魔と、その力(ポンペー)と、罪を退けるのです。悪魔の「力(ポンペー)」、すなわち「栄華」という特別なことばは、古代の神々の崇拝と古代劇場の壮麗さを表します。劇場では、人々が、生きた人間が猛獣に引き裂かれるのを見て楽しんでいました。それゆえ、この拒否は、人を権力崇拝や、貪欲の世界、いつわり、残酷さへと縛りつける文化様式を拒絶することでした。それは、ある種の生活様式の強制からの解放でした。この生活様式は、娯楽の姿をとりながら、人間の中の最良のものを破壊しました。悪霊の拒否は、当時ほど劇的なものではなくなったとはいえ、今日でも洗礼式の不可欠の部分をなしています。洗礼式で、わたしたちは「古い衣」を脱ぎます。わたしたちは「古い衣」を着て神のみ前に出ることができないからです。もっと適切にいえば、わたしたちは「古い衣」を脱ぎ始めます。実際、この放棄は一つの約束です。この約束によって、わたしたちはキリストに手を差し伸べます。それは、キリストがわたしたちを導いて、わたしたちに新たな衣を着せてくださるためです。わたしたちが脱ぐこの「衣」とは何のことでしょうか。わたしたちが唱えるこの約束とは何のことでしょうか。ガラテヤの信徒への手紙5章でパウロが「肉のわざ」と呼ぶものを読むとき、それが明らかになります。「肉のわざ」ということばは、まさに、脱ぎ捨てるべき「古い衣」を意味します。パウロはそれが次のものだとはっきり述べます。「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(ガラテヤ5・19以下)。これが、脱ぎ捨てるべき衣、すなわち死の衣です。
 その後、古代教会の洗礼志願者は東を向きました。東は、光の象徴です。歴史の新しい太陽、すなわち日の出の象徴です。つまりキリストの象徴です。洗礼志願者は自分の人生の新たな方向づけを決断します。すなわち、三位一体の神への信仰です。この神に洗礼志願者は身をゆだねるからです。こうして神ご自身がわたしたちに光の衣を、すなわちいのちの衣をまとわせてくださいます。パウロはこの新しい「衣」を「霊の結ぶ実」と呼びます。そしてこの「霊の結ぶ実」についてこう述べます。それは「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5・22-23)。
 古代教会では、洗礼志願者はこの後、本当に衣服を脱ぎました。そして、洗礼盤に降り、3回そこに浸されました。これは死の象徴です。この象徴は、まったく完全に衣服を取り去り、新たな衣に変えることを表します。洗礼志願者は、死につながれた現世のいのちを、キリストとともに死にゆだねます。そして、キリストによって新たないのちへと導き入れていただきます。この新たないのちによって、洗礼志願者は永遠に向けて造り変えられるのです。それから、洗礼の水から上がった新受洗者は、白い衣を新たにまといます。白い衣は、神の光の衣です。そして、火をともしたろうそくを受け取ります。このろうそくは、神ご自身が新受洗者のうちにともしてくださった光の中を新しく生きることのしるしです。そのとき新受洗者は知ります。自分が不死の妙薬を与えられたことを。この不死の妙薬は、今や聖体拝領を行うときに完全な形で実現します。わたしたちは聖体拝領において、復活した主のからだを与えられます。そして、わたしたち自身が主のからだへと引き寄せられます。こうしてわたしたちは主のうちに守られます。主は死に打ち勝ち、わたしたちを死を超えたところへと導いてくださるからです。
 幾世紀を経るうちに、これらの象徴は簡略化されましたが、洗礼において行われる本質的な出来事は今も変わりません。洗礼は単なる洗いでもなければ、新たな入会者を受け入れるための複雑な儀式でもありません。洗礼とは、死と復活です。新たないのちに生まれ変わることです。
 まことに、死をいやす薬草は存在します。キリストは、わたしたちがもう一度近づくことができるようになった、いのちの木です。キリストにつながっているなら、わたしたちはいのちを得ます。だから、この復活の夜、心をこめて「アレルヤ」と歌おうではありませんか。喜びの歌を歌おうではありませんか。ことばを必要としない歌を歌おうではありませんか。だからパウロはフィリピの信徒に向けてこういうことができるのです。「主において常に喜びなさい。重ねていいます。喜びなさい」(フィリピ4・4)。命令によって喜ぶことはできません。喜びは与えられることしかできません。復活した主はわたしたちにこの喜びを与えてくださいます。まことのいのちを与えてくださいます。わたしたちは今や主の愛のうちに永遠に守られています。このかたには、天と地の一切の権能が授けられているからです(マタイ28・18参照)。それゆえ、わたしたちの祈りが聞き入れられることを確信しながら、教会が今夜、供えものの上に唱える祈りをもって祈り求めようではありませんか。主よ、あなたの民の祈りを聞き、この供えものを受け入れてください。過越の神秘によって始められた救いのわざをわたしたちのうちに完成させ、永遠の喜びに導いてください。アーメン。

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