教皇ベネディクト十六世の「司祭年」閉年ミサ説教

イエスのみ心の祭日の6月11日(金)午前10時から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世は「司祭年」閉年ミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。
ミサは15,000人の司祭が共同司式しました。


 親愛なる司祭職にある兄弟の皆様
 親愛なる兄弟姉妹の皆様

 現代世界の司祭の奉仕職の模範である、アルスの聖なる主任司祭の没後150周年を記念する「司祭年」が終わろうとしています。わたしたちはアルスの主任司祭の導きにより、司祭の奉仕職の偉大さとすばらしさをあらためて理解しました。司祭は単なる役務者ではありません(あらゆる社会はある種の任務遂行のためにこのような役務者を必要とするのですが)。むしろ司祭は、いかなる人間も自分ではできないことを行います。司祭はキリストの名によってことばを語ります。このことばは、わたしたちの罪をゆるし、そこから、神から出発して、わたしたちの生活状況を造り変えることができます。司祭はパンとぶどう酒のささげものの上にキリストの感謝のことばを唱えます。すなわち、実体変化をもたらすことばを唱えます。このことばはキリストご自身を現存させます。すなわち、復活したキリストを、復活したキリストのからだと血を現存させます。そこから、このことばは世の諸要素を造り変えます。このことばは世を開き、世をキリストへと結びつけます。それゆえ、司祭は単なる「職務」ではなく、むしろ秘跡です。神は貧しい人間を用います。それは、ご自身がこの貧しい人間を通して、人々の前に姿を現し、人々のために働くためです。神は大胆なかたです。なぜなら神はご自身を人間にゆだねるからです。わたしたちの弱さを知りながら、人間がご自分の代わりに働き、存在できると考えるからです。この神の大胆さこそが、「司祭職」ということばに隠された真の偉大さです。神は人間にこのようなことが可能だと考えます。こうして神はご自身に仕えるように人間を招き、ご自身を内側から人間と結びつけます。これこそが、この「司祭年」にわたしたちがあらためて考察し、理解しようと望んだことでした。わたしたちは、神がこれほどまでにわたしたちに近づいてくださることをあらためて喜びたいと望みました。神がご自身をわたしたちの弱さにゆだねてくださることを、日々わたしたちを導き、支えてくださることを、あらためて感謝したいと望みました。そこからわたしたちは、若者たちにこの召命をあらためて示したいと望みました。神のために、神とともに行う、この奉仕の交わりは存在します。そればかりか、神はわたしたちが「はい」とこたえるのを期待しておられます。わたしたちはこの召命を神に願わなければならないことを、教会とともにあらためて確認したいと望みました。神の収穫のための働き手を願おうではありませんか。わたしたちが神に願うと同時に、神も若者の心の戸をたたきます。若者にできると神が思うことを、若者も自分にできると思うようにと。このように司祭職が新たな魅力を放つことは、「敵」にとってはうれしくないことだと思われます。「敵」は司祭職がなくなることを望みます。それは、神を最終的に世の外へと放り出してしまうためです。そこで、まさに司祭職の秘跡を喜ぶための年に、司祭たちの罪が、とくに未成年者の虐待が明らかになりました。そこでは、人間の善のための神のいつくしみの務めであるはずの司祭職が、その逆になりました。わたしたちも、神と、被害に遭われたかたがたに絶えずゆるしを求めます。そして、このような虐待が二度と起きないために可能なあらゆることをするつもりであることを約束したいと思います。司祭の奉仕職への受け入れと養成に際しては、司祭職の準備を行う過程で、召命が本物かどうかの見極めを可能にし、司祭の歩みに同伴するよう努めるためにあらゆることをすると約束します。それは、主が困難な状況や人生の危機の中で司祭を守り、見守ってくださるためです。「司祭年」がわたしたち個人の人間的能力を誇ることだったならば、これらの出来事はこの年を台無しにしてしまったことでしょう。しかし、わたしたちに起こったのはそれとはまったく逆のことでした。わたしたちは神のたまものをますます感謝するようになりました。「土の器」に隠されたこのたまものは、どのような人間の弱さを通してであっても、ますます神の愛をこの世に具体的な形で現します。ですから、すべての出来事を清めの務めとみなそうではありませんか。この務めはこれからもわたしたちから離れることがありません。そしてわたしたちは、この務めによって、神の偉大なたまものをますます認め、愛します。こうしてこのたまものは、わたしたちの勇気とへりくだりによって神の勇気とへりくだりにこたえるという務めとなります。わたしたちが入祭の歌として歌ったキリストのことばは、このときにあたり、司祭となること、司祭であることとはいかなることかをわたしたちに語ってくれます。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11・29)。

 わたしたちはイエスのみ心の祭日を記念しています。わたしたちは典礼によって、いわば、亡くなるときにローマの兵士の槍が開けたイエスの心に目を注ぎます。たしかにイエスの心はわたしたちのために、わたしたちの前に開かれました。そしてそのことによって、神ご自身の心が開かれたのです。典礼はイエスの心について述べられたことばの意味をわたしたちに解き明かします。このことばは何よりもまず、人類の牧者である神について語ります。こうしてこのことばは、イエスの祭司職をわたしたちに示します。イエスの祭司職はイエスの心の中に根ざしています。そこからこのことばは、あらゆる司祭の奉仕職の永遠の源泉と正しい基準を示してくれます。司祭の奉仕職はつねにイエスの心に錨(いかり)を下ろさなければなりません。わたしたちはまた、イエスの心から出発して司祭の奉仕職を果たさなければなりません。今日わたしたちはとくに教会が朗読された神のことばに祈りをもってこたえることばを黙想したいと思います。この歌の中で、ことばと応答は浸透し合います。一方で、歌そのものが、神のことばを引用しています。他方で、歌はすでにみことばに対する人間の応答になっています。この応答の中で、みことばそのものが伝えられ、わたしたちの生活の中に入ってきます。今日の典礼の中でもっとも重要なことばは、詩編23の「主はわたしの羊飼い」です。この詩編でイスラエルは祈りのうちに、わたしは牧者であるという神の自己啓示を受け入れます。そしてイスラエルはこの神の自己啓示をもって自らの生活を方向づけました。「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」。この第1節には、神がわたしたちとともにおられ、わたしたちに心をとめてくださることへの喜びと感謝が言い表されています。エゼキエル書からの朗読も同じテーマで始まります。「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」(エゼキエル34・11)。神は自ら、わたしの、わたしたちの、人類の世話をしてくださいます。わたしはひとりきりにされてもいなければ、宇宙と社会の中で迷子になってもいません。たとえ社会がますます方向づけを失っているとしてもです。神はわたしを心にとめてくださいます。神は遠く離れたかたではありません。わたしの人生は神にとってたいした意味をもたないものではありません。わたしたちが目にしうるかぎりの世界の諸宗教は、つねに次のことを知っていました。すなわち、究極的に、ただひとりの神しかいないということです。けれどもこの神は遠く離れていました。神は世界を他のもろもろの力、勢力、神々に引き渡しているかのように思われました。わたしたちはこの神々と付き合わなければなりませんでした。唯一の神はいつくしみ深いかたですが、遠く離れたところにおられました。神は危険な目には遭わせないけれども、助けを与えてもくれませんでした。だから神を気にする必要もありませんでした。神はわたしたちの心を占めはしませんでした。不思議なことに、このような考え方が啓蒙主義の中に再び現れました。依然として世界は創造主を必要とするとは考えられていました。しかし、この神は、世界を造ると、その後、明らかに世界から退場しました。今や世界は一連の法則をもち、この法則に従って発展します。そして神はこの法則に介入もしなければ、介入することもできないのでした。神は遠く離れた原因にすぎませんでした。おそらく多くの人は、神が自分たちの世話をすることも望みませんでした。人々は神に邪魔されることを望みませんでした。しかし、神の配慮と愛を邪魔なものに感じるなら、そのような人間の心はひねくれています。わたしによいものを与え、わたしの世話をしてくれる人がいると知れば、喜び、慰められます。しかし、わたしを知り、愛し、心にとめてくれる神が存在することは、はるかに決定的に重要です。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(ヨハネ10・14)。教会は福音朗読の前に、主のことばを用いてこういいます。神はわたしを知っておられる。神はわたしを心にかけておられる。こう考えるとき、わたしたちは本当に喜ばずにはいられません。わたしたちの心をこの思いによって深く貫いていただこうではありませんか。神は歴史のわずかなときの中で、わたしたちが司祭となり、ご自分の人間に対する気遣いを共有させようと望んでおられます。今やこのことの意味も悟ろうではありませんか。わたしたち司祭は、神の人類に対するいつくしみと一致し、人々を世話し、人々に神のいつくしみを具体的な形で体験させる者になりたいと望みます。そして司祭は、自分にゆだねられた領域に関して、主とともにこういわなければなりません。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。聖書のいう意味で「知る」とは、(だれかの電話番号を知っているような意味で)単に外的に知るということではありません。「知る」とは内的な意味で他の人のそばにいることです。その人の善を望むことです。わたしたちは、神から出発して、神のために、人々を「知」ろうと努めなければなりません。神との友愛の道を人々とともに歩もうと努めなければなりません。

 詩編23に戻りたいと思います。こういわれています。「主はみ名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしとともにいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(詩編23・3-4)。羊飼いは自分にゆだねられた人に正しい道を示します。彼は人々に先立って進み、彼らを導きます。別のいいかたをすればこうです。主は人間の正しいあり方を示してくださいます。主は人格のあり方を示してくださいます。破滅しないために、人生を無意味に浪費しないために、わたしは何をすべきか。これこそがすべての人が自らに問いかけるべき問いです。この問いは、人生のいかなる時期にも当てはまります。現代において、この問いの周りにどれほど深い闇が存在することでしょうか。わたしたちはイエスのことばを絶えず思い起こさなければなりません。イエスは、飼い主のいない羊の群れのような人々を見てあわれまれました。主よ、わたしたちをもあわれんでください。わたしたちに道を示してください。わたしたちは福音から、主ご自身が道であることを知っています。主とともに生きること、主に従うこと――これが正しい道を見いだすということです。そうすれば、わたしたちの人生は意味をもち、いつかこういえるようになります。「本当に、生きることはすばらしいことだ」。イスラエルの民は昔も今も神に感謝しました。神がおきてによって、生きる道を示してくださったからです。偉大な詩編119はこの喜びを比類のないしかたで言い表します。わたしは闇の中を手探りで歩むのではありません。神はわたしたちに道を示してくださいました。正しく歩むすべを示してくださいました。おきてが述べることはイエスの生涯のうちに要約され、生きた模範となりました。こうしてわたしたちは知ります。神の示された規範は、わたしたちを縛る鎖ではなく、神が示してくださった道だということを。わたしたちはおきてを喜ぶことができます。おきてがキリストのうちに生きた現実となったことを喜ぶことができるのです。キリストご自身がわたしたちを喜ばせてくださいます。わたしたちはキリストとともに歩むことにより、啓示を受けた喜びを体験できるからです。わたしたち司祭は、いのちの道が示された喜びを人々に伝えなければなりません。

 次いで、「死の陰の谷」を通って主が人間を導くといわれます。わたしたちの歩む道は皆、いつか死の陰の谷に至ります。そこではだれもわたしたちのそばにいることはできません。しかし、主はそこにいてくださいます。キリストも死の暗夜に降りました。死の陰の谷においても、キリストはわたしたちを見捨てません。死の陰の谷でも、キリストはわたしたちを導いてくださいます。詩編139はいいます。「陰府(よみ)に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」。まことに、最後の苦しみの中でも、あなたはそこにおられます。だから答唱詩編(詩編23)はいうことができるのです。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。ところでわたしたちは、死の陰の谷というとき、人がだれしも通らなければならない、誘惑、失望、試練の暗い谷のことも考えることができます。これらの人生の谷の中でも、キリストはそこにおられます。そうです、主よ。誘惑の闇の中で、あらゆる光が消えたかのように思われる暗闇のときにも、あなたがそこにおられることを示してください。わたしたち司祭を助けてください。これらの暗夜の中で、わたしたちにゆだねられた人々のそばにいることができますように。彼らにあなたの光を示すことができますように。

 「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」。羊飼いは、羊の群れを襲おうとする野獣や、分捕り品を狙う盗賊と戦うための鞭を必要としています。鞭と並んで羊飼いがもっている杖は、難路を歩くための支えまた助けとなります。鞭と杖はともに、教会の奉仕職、すなわち司祭の奉仕職においても見いだされます。教会も牧者の鞭を用いなければなりません。教会はこの鞭で、偽り者や、人々を実際に迷わせるさまざまな思潮から信仰を守ります。鞭の使用は、愛の奉仕となりえます。現代、わたしたちは、司祭生活にふさわしくない行動を容認するのは、愛ではないことを知っています。異端が広まること、信仰の歪曲や解体を放置することも、愛とはいえません。たとえば、あたかも自分が他の力を借りずに信仰を発明したかのように主張することです。あるいは、信仰は神のたまものであり、わたしたちから取り去ることのできない高価な真珠であるのを否定することです。しかし同時に、鞭はつねに牧者の杖とならなければなりません。この杖は、険しい道を歩み、主に従うことができるように、人々を助けるのです。

 詩編の終わりに、食卓が整えられ、頭に香油が注がれ、杯があふれ、主の家に住むことが述べられます。詩編のこれらのことばは何よりもまず、神が神殿に臨在し、神ご自身のもてなしと奉仕を受け、神とともに住むという、将来の祝祭の喜びを表します。キリストと、キリストのからだである教会とともにこの詩編を祈るわたしたちにとって、この未来の希望はさらに広がり、深まります。わたしたちはこのことばの中に、いわば聖体の神秘の預言的な先取りを見いだします。聖体においては、神ご自身が、自らを食物として与えてくださることによって、わたしたちをもてなします。神が与えてくださる、このパンとよいぶどう酒だけが、人間の深い飢えと渇きを満たすことができるのです。いつの日か神ご自身の食卓に着き、神の家に住むことを喜ばずにいられるでしょうか。神がわたしたちにこう命じてくださったことを喜ばずにいられるでしょうか。「わたしの記念としてこのように行いなさい」。人々のために主の食卓を整え、主のからだと血を人々に与え、主ご自身の現存の尊いたまものを人々に授ける恵みを主が与えてくださったことを喜ばずにいられるでしょうか。まことにわたしたちは心から詩編のことばをともに唱えることができます。「いのちのある限り、恵みといつくしみはいつもわたしを追う」(詩編23・6)。

 最後に、今日の典礼の中で教会が示す、二つの拝領唱に簡単に目を向けたいと思います。一つは、聖ヨハネがイエスが十字架につけられたことを述べる記述の終わりのことばです。「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」(ヨハネ19・34)。イエスの心は槍で刺し貫かれました。開かれたイエスの心は、泉となります。流れ出た水と血は、洗礼と聖体という、教会を生かす二つの根本的な秘跡を思い起こさせます。主の刺し貫かれたわき腹から、主の開かれたみ心から、生きた泉の水が流れ出ます。この生きた泉の水は、世々を通して流れ出て、教会を築きます。開かれたみ心は新しいいのちの川の泉です。ここでヨハネがエゼキエルの預言のことも考えていることはいうまでもありません。エゼキエルは新しい神殿から川が流れ出し、実りといのちをもたらすのを見ます(エゼキエル47章)。イエスご自身が新しい神殿です。イエスの開かれたみ心は、そこから新しいいのちの水の川が流れ出る泉です。この新しいいのちは洗礼と聖体によってわたしたちに伝えられます。

 ところで、イエスのみ心の祭日の典礼では、ヨハネによる福音書からとられた、これとよく似たもう一つのことばを拝領唱として用いることができます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来なさい。信じる者はわたしから飲みなさい」。聖書はいいます。「その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7・37-38参照)。わたしたちは信仰のうちに、いわば神のことばの生きた水を飲みます。そこから、信じる者自身が泉となり、歴史の渇いた土地にいのちの水を与えます。わたしたちはこのことを聖人たちのうちに見いだします。わたしたちはこのことをマリアのうちに見いだします。この偉大な信仰と愛の女性は、世々にわたって信仰と愛といのちの泉となりました。すべてのキリスト信者と司祭は、キリストから出発して、他の人々にいのちをもたらす泉とならなければなりません。わたしたちはいのちの水を渇いた世に与えなければなりません。主よ。あなたに感謝します。あなたはわたしたちのためにご自分のみ心を開いてくださいました。あなたはご自分の死と復活によっていのちの泉となってくださいました。わたしたちを生かしてください。あなたの泉によって生かしてください。わたしたちも泉となれるようにしてください。現代にいのちの水を与えることができますように。司祭職の恵みを与えてくださったことをあなたに感謝します。主よ。わたしたちを祝福してください。渇き求めるすべての現代人を祝福してください。アーメン。

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