教皇ベネディクト十六世の「司祭年」閉年式前晩の祈りにおける司祭との対話

6月10日(木)午後8時30分から、サンピエトロ広場で、「司祭年」閉年式前晩の祈りが「世界司祭大会」の行事として行われました。この前晩の祈りの中で、教皇ベネディクト十六世は、5大陸を代表する5名の司祭との対話を行いました。以下は教皇と司祭の対話の全文の翻訳です(原文イタリア語)。前晩の祈りには97か国から約15,000人の司祭が参加しました。終わりに聖体礼拝が行われ、教皇は「司祭年」のための祈りを唱えた後、聖体賛美式を司式しました。


アメリカ

質問 教皇様。ドン・ジョゼ・エドゥアルド・オリヴェイラ・イ・シルヴァと申します。アメリカのブラジルからまいりました。ここにいる大部分の司祭は小教区司牧に従事しています。それも一つの共同体ではなく、場合によって複数の小教区ないし特別に大きな小教区においてです。わたしたちは大きく変化した社会の必要を満たそうと懸命に努めています。社会はもはや完全にキリスト教的ではなくなっています。しかし、わたしたちの「活動」は十分ではないことが分かります。教皇様。わたしたちはどうすればよいでしょうか。どのような方向に進めばよいでしょうか。

教皇 親愛なる友人の皆様。まず、わたしの大きな喜びを表したいと思います。ここに世界中から司祭が集まってくださったからです。それは、わたしたちの召命を喜び、現代において力を尽くして進んで主に仕えるためです。ご質問について申しますと、現代、それもとくに昔からのキリスト教国において、主任司祭であることはきわめてむずかしいことを、わたしはよく承知しています。小教区は司牧地域としてますます大きく広がり、すべての人を知ることは不可能です。主任司祭に期待される活動をすべて行うことは不可能です。ですから、おっしゃったとおり、実際に、わたしたちはどうすればよいかと自らに問いかけます。しかし、まず次のことをいいたいと思います。世界には、福音宣教のため、主とその秘跡を現存させるために、真の意味で努力する多くの主任司祭がいることをわたしは知っています。自分の生涯の力を尽くして、キリストへの愛のうちに働くこうした主任司祭の皆様に、この機会に深く御礼申し上げたいと思います。わたしたちがしたいと望むこと、あるいはすべきことのすべてを行うのは不可能だと申し上げました。わたしたちの力には限りがあり、ますます多様化し、複雑化した社会の中で、状況は困難になっているからです。わたしはこう考えます。まず大切なのは、信者が次のことを見いだせることです。それは、司祭が単に労働時間に「仕事」をして、あとは自由になって、自分だけのために生きるのではなく、むしろ、彼はキリストに心を捕らえられ、心の中にキリストへの愛の炎を携えている者だということです。もし信者が、司祭が主の喜びに満ちているのを見いだし、また、司祭にはすべてのことは行えないことも分かるなら、彼らは主任司祭の限界を受け入れ、助けてくれるでしょう。次のことがもっとも大切ではないかと思われます。主任司祭が本当に自分が主に招かれていると感じ、主と主に属する人々への愛に満たされていること――このことを目の当たりにし、感じられることです。もしそのようであるなら、すべてのことはできないことを知り、認めることが可能になります。それゆえ、自分の存在全体が福音の喜びで満たされていることが第一の前提です。それから、主任司祭は選択を行い、優先課題を選び、何が可能で何が不可能かを見極めなければなりません。こういいたいと思います。わたしたちは三つの根本的な優先課題を知っています。この三つの優先課題は、司祭として生きる上での三つの柱です。第一は聖体と秘跡です。とくに主日に、できるだけ多くの人、すなわちすべての人が感謝の祭儀にあずかるのを可能にすることです。わたしたちに対する主の愛のわざを本当に目に見えるものとするために、感謝の祭儀をささげることです。第二に、個人的な対話から説教に至るまでの、あらゆる次元でみことばを告げ知らせることです。第三の点は「愛のわざ」です。「愛のわざ」とはキリストの愛です。苦しむ人、小さい人、子ども、困難のうちにある人、除け者にされた人のそばにいることです。よい牧者の愛を現実に示すことです。それから、もっとも大切な優先課題は、キリストとの個人的な関係です。11月4日の聖務日課で、わたしたちは聖カルロ・ボロメオ(1538-1584年)のすばらしいことばを読みます。この偉大な司牧者は真の意味で自分のすべてをささげました。この司牧者が、わたしたちすべての司祭にいいます。「自分の霊魂のことをなおざりにしてはなりません。自分の霊魂のことをなおざりにするなら、他人にも与えるべきものを与えられなくなります。それゆえ、自分のため、自分の霊魂のためにも時間をとらなければなりません」。いいかえると、キリストとの関係、キリストとの個人的な対話は、司牧上、根本的な優先課題です。それはわたしたちが他者のために行う活動の前提です。祈りはどうでもよいことがらではありません。祈ることは司祭の「職務」そのものです。司祭は、祈ることのできない人、祈る時間がない人の代わりに祈るのです。個人的な祈り、とくに「時課の祈り」は、わたしたちの霊魂と、活動全体にとっての根本的な糧です。最後に、自分の限界を認めること、心を開いてへりくだることです。マルコ6章の場面を思い起こしたいと思います。この個所で弟子たちは「ストレス」を感じます。彼らはすべてのことをしようと望みます。すると主はいわれます。「さあ、行って、しばらく休むがよい」(マルコ6・31参照)。謙虚さを見いだし、自分のものとすること。休む勇気をもつこと――わたしは、これも司牧的活動だといいたいと思います。ですから、わたしはこう考えます。主への情熱、主への愛が、わたしたちに優先課題と、選ぶべきことを示してくれます。道を見いだせるようにわたしたちを助けてくれます。主がわたしたちを助けてくださいます。皆様、有難うございます。

アフリカ

質問 教皇様。マティアス・アグネロと申します。アフリカのコートジボワールからまいりました。教皇様は「神学者教皇」ですが、わたしたちは養成のためにわずか数冊の神学書を読むので精いっぱいです。ところで、神学と教理の間、さらに神学と霊性の間には、ある種の分裂が生じているように思われます。勉学を、完全な学問としてではなく、むしろ霊性の糧となるように行うのが必要ではないかと感じます。司牧的奉仕職自体の中でこの必要を感じています。時として「神学」は、神を中心とし、イエス・キリストを第一の「神学的典拠」とするのでなく、さまざまな趣味また思潮になっているように思われます。その結果、主観的見解が広まり、教会内にも非カトリック的思想が入り込んでいます。信仰が世を裁くのではなく、世が信仰を裁いている時代に、どうすればわたしたちの生活と奉仕職の中で道を迷わずにいられるでしょうか。わたしたちは「中心からずれて」いるように感じています。

教皇 有難うございます。あなたはたいへんむずかしく、また悲しむべき問題に触れてくださいました。実際、何よりも学問的であること、科学的に見えることを望んで、生きた現実、すなわち神がともにおられること、神がわたしたちの間におられること、神が過去だけでなく現代においても語っておられることを忘れている神学が存在します。すでに聖ボナヴェントゥラ(1217/1221-1274年)は、当時の神学の二つの形を区別して、こういいました。「理性の思い上がりに由来する神学が存在します。この神学はすべてを支配しようと望みます。そして、神を主体から、わたしたちが研究する対象にしてしまいます。神はわたしたちに語りかけ、わたしたちを導く主体でなければならないのにです」。実際、神学の濫用が存在します。それは理性の思い上がりであり、信仰の糧となりません。むしろそれは、世における神の現存を覆い隠してしまいます。次に、愛するかたへの愛のゆえにもっとよく知ることを望む神学が存在します。この神学は、愛に促され、愛によって導かれながら、愛するかたをもっとよく知ろうと望みます。これこそが真の神学です。この神学は神とキリストへの愛に由来し、キリストとの交わりにいっそう深くあずかろうと望みます。実際のところ、現代、さまざまな誘惑がたくさんあります。何よりも、いわゆる「現代の世界観(modernes Weltbild)」(ブルトマン)が力を振るっており、それが、何が可能であり、何が不可能かを判断する基準となっています。すべては繰り返しであり、すべての歴史的出来事は同じようなものだとするこの基準のゆえに、福音の新しさも、神の介入も、わたしたちの信仰の喜びの新しさも、排除されます。では、どうすればよいでしょうか。まず、すべての神学者に対していいたいと思います。「勇気をもってください」。そして、よい仕事をしておられる多くの神学者のかたがたにも、心から御礼申し上げたいと思います。ご存じのように、濫用は存在します。けれども、世界のいたるところに、神のことばを真に生き、黙想を糧とし、教会の信仰を生き、信仰を現代において示す助けとなろうと望む、多くの神学者がいます。これらの神学者のかたがたに、声を大にして御礼申し上げたいと思います。すべての神学者に申し上げます。「このような学問性の亡霊を恐れてはいけません」。わたしは1946年から神学を学び始めました。わたしは1946年1月に神学の勉学を開始しました。それゆえ、わたしは神学者の3つの世代を目にしました。すなわち、1946年当時の仮説、次に1960年代の仮説、そして1980年代の仮説です。これらが、その頃最新で、何よりも学問的で、いわば何よりも教義的とされていました。しかし、それらはやがて古びて、もはや価値のないものとなりました。多くのものはほとんど滑稽にさえ見えます。それゆえ、学問的に見える方法に抵抗する勇気をもってください。あらゆる一時的な仮説に屈服してはなりません。むしろ本当の意味で教会の信仰から出発して考えてください。教会の信仰はあらゆる時代に存在して、わたしたちに真理への道を開いてくれるからです。何よりも、実証主義的な理性が真の理性だと考えてはなりません。それは超越者を排除し、超越者は近づきえないものとするからです。経験可能なものだけを提示する、この弱い理性は、実際には不十分な理性です。わたしたち神学者は、神の偉大さに開かれた、大きな理性を用いなければなりません。わたしたちは実証主義を乗り越えて、存在の根拠への問いへと進む勇気をもたなければなりません。これはきわめて重要な意味をもつことだと思います。それゆえ、大きな、広い理性を用いる勇気をもたなければなりません。一時的な仮説に屈服しないへりくだりをもたなければなりません。あらゆる時代の教会の信仰を生きなければなりません。数の上で聖人に勝てる者はいません。教会における真の多数者は聖人です。わたしたちは聖人に向かわなければなりません。次に、神学生と司祭にも同じことを申し上げたいと思います。聖書が独立した書物だと考えてはなりません。聖書は教会の生きた共同体の中で生きています。教会は、あらゆる時代において同一の存在として、神のことばの現存を保証するからです。主は、教皇との交わりのうちにある司教組織をもつ、生きた主体としての教会をわたしたちに与えてくださいました。教皇との交わりのうちにある世界の司教というこの存在が、永遠の真理に関する証言を保証します。わたしたちはこの教皇と司教の交わりに基づく永遠の教導職を信頼します。この交わりが、わたしたちにみことばの現存を示すからです。さらにわたしたちは、教会の生活を信頼しながら、何よりも批判的でなければなりません。神学生に申し上げたいと思いますが、神学的定式がきわめて大切なのは間違いありません。現代において、わたしたちはセクトの攻撃と戦うために、聖書をよく知らなければなりません。真の意味でみことばに親しまなければなりません。合理的な応答を行うために、現代のさまざまな思潮も知らなければなりません。それは、聖ペトロがいうとおり、「わたしたちの信仰についての説明」(一ペトロ3・16参照)を行うことができるためです。養成はきわめて大切です。しかし、わたしたちは批判的でなければなりません。信仰の基準は、神学者とさまざまな神学を吟味するための基準ともなります。教皇ヨハネ・パウロ二世は『カトリック教会のカテキズム』という、何よりも確かな基準を与えてくださいました。わたしたちはこの書物のうちにわたしたちの信仰の総合を見いだします。『カテキズム』はまことに、ある神学を受け入れてよいかどうかを識別するための基準です。それゆえ、わたしはこの書物を読み、研究することをお勧めします。それはわたしたちが積極的な意味での批判的な神学をもって前に進むことができるためです。積極的な意味で批判的であるとは、流行の思潮に批判的でありながら、神のことばのまことの新しさと汲みつくしえない深さに開かれているということです。神のことばはあらゆる時代に、そして現代においても、新たに自らを示してくれるからです。

ヨーロッパ

質問 教皇様。カロル・ミクロスコと申します。ヨーロッパのスロバキアからまいりました。わたしはロシアで宣教者として働いております。わたしはミサをささげるとき、自分自身を見いだします。そして、ミサのうちに自分のあるべき姿と、自分の奉仕職の源泉と力と出会うことが分かります。十字架のいけにえはわたしによい牧者であるかたを示します。よい牧者であるかたは羊の群れのために、一匹一匹の羊のために、すべてをささげます。そして、わたしが「これは、あなたがたのためにいけにえとして与えられるわたしのからだである。・・・・流されるわたしの血である」と唱えるとき、わたしは、叙階のときに進んで約束した独身制と従順のすばらしさを理解します。本性的には困難であるにもかかわらず、キリストを仰ぎ見るとき、わたしには独身制は当然のことに思われます。けれども、このたまものに対して世が多くの批判を行うのを目にするとき、わたしは茫然としてしまいます。教皇様。つつしんでお願いします。教会の独身制の深い真の意味を解き明かしてください。

教皇 二つの部分をもつ質問をしてくださったことに感謝します。第一の部分は、わたしたちの独身制の生きた永遠の基盤を示してくれます。第二の部分は、現代、わたしたちが見いだす困難を示しています。第一の部分は重要です。すなわち、わたしたちの生活の中心は、実際に、日々、感謝の祭儀をささげることでなければならないということです。感謝の祭儀の中心は、「これはわたしのからだである。これはわたしの血である」という聖別のことばです。つまり、わたしは「キリストの代理者として(in persona Christi)」これを唱えます。キリストは、わたしたちがご自分の「わたし」を用いることをゆるしてくださいます。わたしたちはキリストの「わたし」をもって語ります。キリストは「わたしたちをご自身に引き寄せ」、わたしたちが一つとなることを可能にしてくださいます。わたしたちをご自分の「わたし」と一つにしてくださいます。こうして、このわざを通じて、キリストはわたしたちをご自身へと「引き寄せ」、わたしたちの「わたし」はキリストの「わたし」と一つになります。このことがキリストの祭司職の永遠の独自の意味を実現します。それゆえ、キリストは本当に唯一、永遠の祭司です。にもかかわらず、キリストはまさしく世に現存します。なぜなら、キリストはわたしたちをご自身へと「引き寄せ」、そこから、ご自分の祭司としての使命を現存させるからです。これは次のことを意味します。わたしたちはキリストの神へと「引き寄せられ」ます。このキリストの「わたし」との一致が、聖別のことばの中で実現するのです。「わたしはあなたの罪をゆるします」においても(なぜなら、だれも罪をゆるすことができないからです)、ゆるしを与えることが可能なのは、キリストの「わたし」、神の「わたし」だけです。このキリストの「わたし」とわたしたちの「わたし」の一致は、わたしたちがキリストの復活にも「引き寄せられる」ことを意味します。わたしたちは復活の完全ないのちに向けて歩むのです。このことについてイエスはマタイ22章でサドカイ派の人々に語ります。それは「新しい」いのちであり、そのときわたしたちはもはや結婚しません(マタイ22・23-32参照)。重要なのは、わたしたちがますますこのキリストの「わたし」とわたしたちの「わたし」の一致によって貫かれることです。復活の世に向けて「引き寄せて」いただくことです。その意味で、独身制は一種の先取りです。わたしたちはこの世を超越し、前へ進みます。そこから、わたしたちは自らと現代を復活の世へと、キリストの新しさへと、新たなまことのいのちへと「引き寄せ」ます。それゆえ、独身制は、主の恵みによって可能となった、一種の先取りです。主はわたしたちを、ご自身へと、復活の世へと「引き寄せ」てくださるからです。独身制は、わたしたちを、自分自身と現在をますます超越して、未来のまことの今に向かうようにと招きます。この未来のまことの今が、現代において実現するのです。ここでわたしたちはきわめて重要な点に到達します。現代世界におけるキリスト教の大きな問題は、それがもはや神の未来を考えることができないということです。キリスト教はこの世の今だけで満足しているように思われます。わたしたちはこの世だけを所有することを望みます。この世で生きることだけを望みます。こうしてわたしたちは、自分の存在のまことの偉大さに対して扉を閉ざします。未来の先取りとしての独身制の意味は、まさしくこの扉を開くことです。世を大きく広げることです。未来の現実を示すことです。わたしたちはこの未来の現実を、すでに実現したものとして生きなければなりません。それゆえ独身制とは、信仰のあかしを生きることです。わたしたちは本当に神が存在することを信じます。神がわたしの人生に入って来られたことを信じます。自分の人生の基盤をキリストの上に、来生に置けることを信じます。さて、あなたがお話しくださった世の批判のことを、わたしたちは承知しています。不可知論の世にとって、神が入って来ない世にとって、独身制が大きなつまずきであることは確かです。なぜなら、独身制は、神を現実として考え、生きることを示すからです。独身制の終末論的な生活によって、神の来世が現代の現実の中に入って来ます。このような独身制は消え去るべきだと考えられるのです。ある意味で、こうした独身制への批判は驚くべきものだともいえます。現代、結婚しないことがますます流行となっているからです。けれども、結婚しないことは、独身制とはまったく根本的に異なります。なぜなら、結婚しないことは自分だけのために生きたいという望みに基づいているからです。それは、決定的なきずなを受け入れず、人生のあらゆるときを完全に自律的に過ごし、いつでも何を行い、人生から何を得るかを選びたいという望みです。それはきずなの拒絶、決定的なものの拒絶であり、自分だけのために人生を過ごすことです。しかし、独身制はその反対です。独身制は決定的な「はい」だからです。それは自らを神の手にゆだねることです。主の手に、主の「わたし」に自分をささげることです。だからそれは忠実と信頼を示す行為です。この行為は結婚の忠実も前提とします。それは、先に述べた拒絶、すなわち自律の反対です。この自律は義務を負うことを望みません。きずなを結ぶことを望みません。独身制の決定的な「はい」は、結婚の決定的な「はい」を前提し、堅固なものとします。結婚は聖書が示す生き方であり、男と女の自然な生き方です。結婚は偉大なキリスト教文化と、世界のさまざまな偉大な文化の基盤です。もし結婚が失われれば、わたしたちの文化の根拠も破壊されます。だから独身制は、来生への「はい」をもって、結婚の「はい」を堅固にします。そこでわたしたちは前に進み、この信仰に基づくつまずきを現存させます。信仰は万物の基盤を神の上に置くからです。ご存じのように、世が認めようとしないこの偉大なつまずきのほかに、わたしたちの欠点と罪に基づく第二のつまずきも存在します。このつまずきは真の偉大なつまずきを覆い隠し、人々にこう考えさせます。「だが、彼らは本当には神を基盤として生きていないのだ」。しかし、多くの忠実な人々が存在します。批判する人々が示すとおり、独身制は信仰の偉大なしるしです。神が世に現存することのしるしです。主に祈ろうではありませんか。わたしたちを助けてください。わたしたちを第二のつまずきから解放してください。それは、わたしたちの信仰の偉大なつまずきを、わたしたちの生活の信頼と力を示すためです。わたしたちは神とイエス・キリストを基盤として生きているからです。

アジア

質問 教皇様。山下敦と申します。アジアの日本からまいりました。教皇様が「司祭年」に示してくださった司祭の模範であるアルスの主任司祭は、司祭の生活と奉仕職の中心は、聖体とゆるしの秘跡と個人の悔い改め、品位をもって礼拝をささげることの重視だと考えました。わたしは聖ヨハネ・マリア・ビアンネの厳格な清貧と礼拝への情熱を目の当たりにします。聖職者主義や、現代世界では共感を呼ばない無関心に陥ることなく、このような司祭生活の根本的な次元を生きるにはどうすればよいでしょうか。

教皇 有難うございます。ご質問は、他の人々の日常生活とかけ離れた、単なる礼拝の生活に陥ることなしに、どのようにして聖体を中心として生きるかということです。ご存じのように、聖職者主義は、現代も含めたあらゆる時代の司祭にとって誘惑です。世に対して閉ざされたものとならず、かえって世の必要に開かれた形で、聖体を生きる真の方法を見いだすことはますます重要です。次のことを心にとめなければなりません。聖体のうちに実現されるのは神の偉大な悲劇です。神はご自身から出て、(フィリピの信徒への手紙でいわれるとおり)ご自分の栄光を捨て、へりくだってわたしたちと同じ者となり、十字架の死にまで降りました(フィリピ2章参照)。ご自身を離れ、捨て、わたしたちと同じ者となられた、この神の愛の出来事が、聖体のうちに実現します。この偉大なわざ、神の愛の出来事とは、ご自身をわたしたちにささげた神のへりくだりです。その意味で、聖体とはこのような神の道に入ることだと考えるべきです。聖アウグスティヌスは『神の国』第10巻でいいます。「『多数であっても、キリストにおいて一つの身体となる』、これこそがキリスト教徒の犠牲なのである(Hoc est sacrificium Christianorum: multi unum corpus in Christo)」(『神の国』:De civitate Dei X, 6〔茂泉昭男・野町啓訳、『アウグスティヌス著作集12 神の国(2)』教文館、1982年、309頁〕)。すなわち、キリスト教徒の犠牲とは、キリストの一つのからだと結ばれることにより、キリストの愛に一つに結ばれることです。犠牲とは、自分自身から出て、一つのパン、一つのからだとの交わりに引き寄せられ、そこから、神の愛の偉大な出来事に入ることです。ですからわたしたちは、つねに自分の「わたし」を解放する学びやとして、感謝の祭儀をささげ、生き、黙想しなければなりません。それは一つのパンとなるためです。パンは、わたしたちをキリストの一つのからだにおいて一致させる、すべての人のパンだからです。ですから、聖体はそれ自体として愛のわざです。わたしたちは聖体により、他の人のための愛の現実となるよう仕向けられます。キリストのいけにえは、ご自分のからだにおけるすべての人の交わりだからです。それゆえ、わたしたちはこのようにして聖体を学ばなければなりません。そうすれば、聖体は聖職者主義や、自分に閉じこもることの反対となります。わたしたちはマザー・テレサ(1910-1997年)にも思いを致します。マザー・テレサは本当の意味で現代の偉大な模範です。愛の模範です。この愛は自分を捨て、あらゆる聖職者主義を捨てます。世への無関心を捨てます。そして、もっとも疎外された人、もっとも貧しい人、瀕死の人のもとに赴き、貧しい人、疎外された人への愛のために自分のすべてを与えます。しかし、このような模範を与えてくれたマザー・テレサと彼女の足跡に従う人々の共同体は、聖櫃の存在を自分たちの活動の第一の条件としていました。ご自身を与える神の愛の現存がなければ、使徒職を行うことは不可能でしたし、このように自分を捨てて生きることも不可能でした。自らの自己放棄を、神に、この神のわざに、神のへりくだりに接ぎ木することによって初めて、彼らは現代においてこのように偉大な愛のわざを、すべての人に開かれた活動を行うことができたのです。その意味で、こういいたいと思います。本来の意味で、すなわち真の深い意味で聖体を生きることは、人生の学びやです。それが、あらゆる聖職者主義の誘惑から確実に身を守ってくれます。

オセアニア

質問 教皇様。アンソニー・デントンと申します。オセアニアのオーストラリアからまいりました。今夜、ここには多くの司祭がいます。けれども、わたしたちが知っているように、わたしたちの神学校は神学生でいっぱいではなく、将来、世界のさまざまな地域では、場合によって急激な司祭の減少が起こると予想されます。召命促進のために何をすればよいでしょうか。どうすれば現代の若者に、わたしたちの生活が偉大ですばらしいことを示せるでしょうか。

教皇 有難うございます。召命の不足という、現代の大きな悲しい問題にあらためて触れてくださいました。召命の不足により、地域教会は枯渇する恐れがあります。なぜなら、いのちのことばも、聖体や他の秘跡を授ける人も不足するからです。どうすればよいでしょうか。大きな誘惑があります。それは、問題を自分の手で解決するという誘惑です。キリストの秘跡であり、キリストに選ばれる秘跡である司祭職を、単なる普通の職業に変えるという誘惑です。普通の職業とは、勤務時間に行い、あとは自分のことだけを行うような「仕事」のことです。そうすれば、司祭職は他の職業と同じになり、だれでも簡単になれるものとなります。しかし、この誘惑は問題の解決にはなりません。サウルの物語が思い起こされます。イスラエルの王サウルは、ペリシテ人との戦いを前にして、サムエルが来て、神に必要な献げ物をささげるのを待ちました。サムエルが約束のときまでに来なかったので、祭司でなかったにもかかわらず、サウル自身がいけにえをささげました(サムエル記上13章参照)。サウルはこうすれば問題を解決できると考えましたが、当然のことながら、それは問題を解決しませんでした。なぜなら、彼は自分にできないことをしようとしたからです。彼は自らを神ないし神に近いものとしましたが、物事は神のやり方では進みませんでした。他の職業と同じような仕事だけを行い、秘跡の聖性、新しい要素、他と違う要素を捨てるなら、何も解決できません。秘跡は神だけが与えることのできるものだからです。それはわたしたちの「わざ」によってではなく、神の召命によってのみもたらされるからです。主がわたしたちを招いておられるように、召命が与えられるように、わたしたちはますます神に祈り、神のみ心の門をたたかなければなりません。粘り強く、強い決意と、深い確信をもって祈らなければなりません。なぜなら神は、熱心で、絶え間ない、信頼をこめた祈りに心を閉ざすことがないからです。たとえサウルと同じように、思っていた以上の時間、待たなければならないとしてもです。第一の点はこれだと思います。へりくだりと信頼と勇気をもつよう、信者を励ますことです。召命のために粘り強く祈り、司祭が与えられるよう神の心の門をたたきなさいと。これに加えて、三つの点を述べたいと思います。第一はこれです。わたしたち司祭は皆、できるかぎり人を納得させられる形で司祭職を生きなければなりません。それは、若者がこういえるためです。「これこそ本物の召命だ。人はこのように生きることができるのだ。人はこのようにして世のために本質的なことができるのだ」。だれも、キリストへの愛の炎を心に燃やす、人を納得させられる司祭と出会わなければ、司祭になってはいないでしょう。ですから、これが第一の点です。自分自身が、人を納得させられる司祭となるよう努めようではありませんか。第二の点はこれです。すでに述べたように、人々が召命の祈りを行うよう招かなければなりません。へりくだりと信頼をもって、力強く、揺るぎない心で神に語りかけるように招かなければなりません。第三の点はこれです。神が招いておられるのでないかと、勇気をもって若者に語りかけなければなりません。なぜなら、心を開いて神の呼びかけに耳を傾けるには、人間のことばも必要だからです。若者に語りかけてください。とくに若者が過ごすことのできる生き生きとした環境を見いだせるよう、彼らを助けてください。現代世界は、司祭召命が育つことを拒絶するかのように思われます。若者は、その中で信仰を生き、信仰のすばらしさに触れ、これこそが生きる道だ、生きる道「そのもの」だと感じられるような場を必要としています。ですから、若者が、本当に信仰と神の愛に包まれ、心を開き、神の呼びかけに触れ、助けられるような、運動団体、小教区――小教区の中の共同体――、あるいは他のそのような場を見つけられるように助けてください。さらに、現代のすべての神学生、若い司祭を与えてくださった主に感謝します。そして祈りたいと思います。主がわたしたちを助けてくださいます。皆様、有難うございます。

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