教皇ベネディクト十六世の聖ペトロ・聖パウロ使徒の祭日の前晩の祈りの講話

6月28日(月)午後6時から、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は聖ペトロ・聖パウロ使徒の祭日の前晩の祈りを司式しました。以下は前晩の祈りにおける教皇の講話の全文の翻訳です(原文イタリア語) […]


6月28日(月)午後6時から、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は聖ペトロ・聖パウロ使徒の祭日の前晩の祈りを司式しました。以下は前晩の祈りにおける教皇の講話の全文の翻訳です(原文イタリア語)。
この講話の中で、教皇は、すでにキリスト教の宣教が行われた国々での新たな福音宣教を推進するために新たな教皇庁評議会を設置することを発表しました。新しい評議会は教皇庁の12番目の評議会となります。新評議会の設置は、教皇ヨハネ・パウロ二世が現在の保健従事者評議会の前身である教皇庁医療使徒職委員会を1985年に設置して以来のことです。
前晩の祈りには、コンスタンチノープルの世界総主教バルトロマイ一世の使節として、サッシマ首都大主教のゲンナディオス(リムーリス)師、アリアンゾス主教でドイツ補佐首都大主教のバルトロマイオス(ヨアンニス・ケッシディス)師、ファナル総主教座の輔祭テオドロス・メイマリス師が参加しました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 この前晩の祈りをもって、わたしたちは聖ペトロ・聖パウロ使徒の祭日に歩み入ります。わたしたちは、異邦人の使徒にちなんで名づけられた教皇大聖堂で、使徒の墓前で心を合わせて祈りながら、この祭日を始める恵みにあずかりました。それゆえわたしは、教会の宣教使命の展望に関する短い考察を行いたいと思います。わたしたちが唱えた第三の答唱句と聖書朗読もこのテーマに即しています。初めの二つの答唱句は聖ペトロにささげられていますが、第三のものは聖パウロにささげられています。それはこう述べます。「神の使者である聖なる使徒パウロ。あなたは全世界で真理を告げ知らせました」。そして、ローマの信徒への手紙のあいさつからとられた短い朗読箇所の中で、パウロは、自分は「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」(ローマ1・1)者だといいます。パウロという人物――その人と奉仕職、全生涯と神の国のための労苦――は、完全に福音への奉仕のためにささげられました。パウロのこのことばから次のことが感じ取れます。すなわち、主人公は人間ではなく、神です。聖霊の息吹です。この息吹が、すべての人に福音をもたらすために、使徒を世の道へと駆り立てました。福音とは、預言者たちの約束がイエス・キリストによって実現したということです。神の子であるイエス・キリストは、わたしたちの罪のために死に、わたしたちを義とするために復活されたからです。生きているのはもはやサウロではなく、パウロです。そればかりか、キリストが彼のうちに生きているのです(ガラテヤ2・20)。そして、キリストはすべての人を集めようと望みます。ローマの二人の聖なる守護聖人の祭日は、この教会の特徴である二つの性格の緊張関係を思い起こさせます。すなわち、唯一性と普遍性です。今晩、わたしたちが置かれた場は、第二のものを優先するようにわたしたちを招きます。いわば、聖パウロとその特別な召命に「心を奪われる」ようにと。
 神のしもべジョヴァンニ・バッティスタ・モンティニは、第二バチカン公会議が開催されている最中にペトロの後継者に選ばれたとき、この異邦人の使徒の名を名乗ることを選びました。公会議の実施計画の一つとして、パウロ六世は1974年に現代世界における福音宣教をテーマとする世界代表司教会議(シノドス)を招集しました。そして、約1年後に使徒的勧告『福音宣教』を発布しました。『福音宣教』は次のことばで始まります。「現代の人々は希望に支えられてはいますが、同時にしばしば恐怖や苦悶に悩まされています。こうした人々に福音をのべ伝える努力は、ただ単にキリスト者の共同体だけではなく、人類全体に課せられた責務であります」(同1)。このことばがもつ現代的な意味がわたしたちの心を打ちます。このことばの中に、パウロ六世の特別な宣教的感覚が感じ取れます。そして、パウロ六世のことばを通して、現代世界の福音宣教に向けた公会議の深い願いが感じ取れます。この願いは『教会の宣教活動に関する教令』において頂点に達しました。しかしこの願いは第二バチカン公会議の全文書に浸透しており、また、早くから公会議教父の思想と活動を促していました。公会議教父は、かつてないほど目に見える形で、世界中に広まった教会を代表して集まったからです。
 尊者ヨハネ・パウロ二世は、その長期にわたる教皇職の中で、ことばで説明し尽くせないほど、この宣教計画を発展させました。つねに思い起こすべきことがあります。それは、この宣教計画は、教会の本性そのものに対応しているということです。教会は、聖パウロとともに、つねに繰り返して次のようにいうことができますし、また、いわなければなりません。「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)。教皇ヨハネ・パウロ二世は、教会の宣教的性格を「体現」しました。数々の使徒的訪問によって、また、「新しい福音宣教」が急務であることを自らの教導職において主張することによってです。「新しい福音宣教」の「新しさ」とは、内容の新しさではなく、むしろ、内的促しの新しさです。この内的促しは、聖霊の恵みに開かれています。聖霊は、福音の新しい法の力を与え、つねに教会を刷新するからです。この「新しさ」は、聖霊の力にこたえ、時代と状況に適した方法を探究することにおける新しさです。「新しい」とは、すでに福音の告知を受けた国々においてもそれが必要だからです。次のことはだれにでも明らかです。わたしの前任者は教会の宣教に新たな刺激を与えました。それは、繰り返していいますが、彼が歩んだ距離によるだけではありません。むしろ何よりも、彼を促したひたむきな宣教精神によってです。そしてヨハネ・パウロ二世は、第三千年期の初めに、この宣教精神を遺産として残してくださいました。
 この遺産を受け継ぎながら、わたしはペトロの奉仕職を始める際、こういうことができました。教会は若いいのちにあふれ、未来に開かれています。そして今日、聖パウロの墓前で、わたしはこのことばを繰り返していいます。教会は大きな刷新の力をもっています。しかし、この力が自分の力によるのでないのはいうまでもありません。それは福音の力に基づきます。福音の中で、神の聖霊が息吹くからです。神は世の造り主であり、あがない主だからです。現代の諸問題が人間の力に余るものであることは確かです。それは歴史的、社会的問題であるとともに、深い意味で精神的問題です。わたしたち教会の司牧者は、自分が使徒の経験を追体験しているように感じることがあります。おびただしい数の貧しい人がイエスにつき従いました。するとイエスは問いかけました。わたしたちはこれらの人々に何ができるだろうか。使徒たちは自分たちの無力さを思い知りました。しかし、イエスは彼らに示されました。神を信じるなら、何でもできると。そして、わずかのパンと魚を祝福して、分けると、すべての人が満腹しました。けれども、昔も今も、人々は物質的な食べ物に飢えているだけではありません。もっと深い飢えが存在します。この飢えを満たすことのできるのは神おひとりです。第三千年期の人間も、真の意味での完全ないのちを求めています。彼らは真理と、深い自由と、無償の愛を必要としています。世俗化した世界の荒れ野においても、人間の魂は神に飢え渇いています。生ける神に飢え渇いています。だからヨハネ・パウロ二世はこう述べたのです。「教会にゆだねられている救い主の使命は、その成就からほど遠い状態にあります」。続けて教皇はいいます。「人類全体を見渡すと、この使命はまだ始まったばかりであり、わたしたちはこの使命を果たすために、全力でかかわらねばならないことが分かります」(回勅『救い主の使命』1)。今なお世界には最初の福音宣教が行われることを待ち望んでいる地域があります。福音を受け入れはしたものの、さらに徹底した労苦を必要とする地域もあります。また、はるか昔に福音が根を下ろし、まことのキリスト教的伝統を生み出しながら、過去数世紀の間に(複雑な力の影響で)世俗化の過程がキリスト教の信仰の感覚と教会への帰属に深刻な危機をもたらした地域もあります。
 このような展望に基づき、わたしは、教皇庁評議会の形態で新しい機関を創設することを決めました。この機関の特別な任務は、すでに最初の信仰の告知が行われ、古くから創立された教会が存在しながら、社会の世俗化の過程と、ある種の「神の感覚の喪失」が見られる国々において、新たな福音宣教を推進することです。このような「神の感覚の喪失」という問題に対しては、キリストの福音の永遠の真理をあらためて示すための適切な手段を見いださなければならないからです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。普遍教会は、新しい福音宣教という課題を与えられています。この課題は、キリスト者の完全な一致の探求に努めることをわたしたちに求めます。このことを雄弁に語る希望のしるしは、ローマ教会とコンスタンチノープル教会がそれぞれの守護聖人の祭日に互いに訪問し合うという習慣です。そのため、今日、わたしたちは新たな喜びと感謝をもってバルトロマイ一世総主教が派遣された使節団の皆様を歓迎申し上げます。皆様に心からごあいさつ申し上げます。聖ペトロと聖パウロの執り成しによって、全教会に熱心な信仰と使徒的な勇気が与えられますように。それは、世にわたしたち皆が必要としている真理である、神を告げ知らせるためです。神は万物と歴史の根拠また目的、あわれみ深く忠実な父、永遠のいのちの希望です。アーメン。

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