教皇ベネディクト十六世「神学生への手紙」

教皇ベネディクト十六世は2010年10月18日(月)の聖ルカ福音記者の祝日に、「司祭年」(2009年6月19日~2010年6月11日)閉年にあたり、「神学生への手紙」を発表しました。以下はその全文の翻訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる神学生の皆様。

 1944年にわたしが兵役に召集されたとき、中隊長はわたしたち一人ひとりに将来どういう職業に就きたいかと尋ねました。わたしは、カトリック司祭になるつもりだとこたえました。それに対して中尉はこういいました。「それなら、おまえは別の仕事を探さなければならない。新しいドイツでは司祭はもはや必要ないからだ」。わたしは知っていました。この「新しいドイツ」はすでに終焉を迎えていました。だからこそ、狂気がドイツに大きな荒廃をもたらした後、司祭がこれまでにまして必要だということを。現代、状況はすっかり変わりました。しかし、現代もさまざまな形で多くの人がこう考えています。カトリック司祭職は未来の「職業」ではなく、過去の遺物だと。親愛なる友人である神学生の皆様。皆様は、こうした意見ないし反対に逆らって、神学校に入ることを決断し、カトリック教会の司祭職を果たす準備をしておられます。皆様はよい決断をされました。なぜなら、技術が世界を支配し、グローバル化が進んだ時代にあっても、人々は常に神を必要とするからです。この神はイエス・キリストにおいてご自身を示してくださいます。そして、普遍教会のうちにわたしたちを集め、キリストとともに、キリストを通して、人生の真の意味を学ばせ、真の人間性の基準を考え、実行させます。人々が神を知らなくなると、人生は空虚になります。神のほかは何も人生を満たしてはくれません。やがて人は薬物や暴力へと逃避します。薬物と暴力はますます若者に脅威を与えています。神は生きておられます。神はわたしたち一人ひとりを造られました。それゆえ神はすべての人を知っておられます。神は偉大なかたです。だからこそ神はわたしたちの小さなことがらのために時間を割いてくださいます。「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(マタイ10・30)。神は生きておられます。だから神は、ご自身に仕え、ご自身を他の人にもたらす人を必要とします。そうです。司祭になることには意味があります。世は今日も、明日も、いつも、世の終わりまで、司祭を、すなわち牧者を必要としています。

 神学校は司祭職に向けて歩む共同体です。このことばの中に、わたしはすでにきわめて大事なことを述べています。だれも独りで司祭になるのではありません。司祭になるには「弟子の共同体」が必要です。「弟子の共同体」とは、共通の教会に仕えようと望む人の集まりです。わたしはこの手紙の中で、自分の神学生時代のことも思い起こしながら、皆様が司祭職に向けて歩む期間にとって大切ないくつかの点を指摘したいと思います。

1 司祭になろうと望む人は、何よりもまず「神の人」にならなければなりません。聖パウロが述べているとおりです(一テモテ6・11)。わたしたちにとって、神は遠く離れた仮説でも、「ビッグバン」の後は退場した正体不明の存在でもありません。神はイエス・キリストのうちにご自身を示されます。わたしたちはイエス・キリストのみ顔のうちに神のみ顔を見いだします。わたしたちはイエス・キリストの話すことばのうちに、神ご自身が語りかけてくださるのを聞きます。だから司祭職に向けて準備を行っているときも、司祭生活の全体においても、もっとも大切なのは、イエス・キリストにおいて神と個人的な関係をもつことです。司祭は、会員数の維持と増大に努める、団体の管理者ではありません。司祭は人々に神を知らせる使者です。司祭は人々を神へと導き、そこから、人々の間の真の交わりを深めようと努めます。親愛なる友人である神学生の皆様。だから、絶えず神との関係を生きることを学ぶことがきわめて大切なのです。主はいわれます。「絶えず祈りなさい」。もちろん主はこのことばで、祈りのことばを唱え続けることを求めたのではありません。神との内的な関係を決して絶やさないようにといわれたのです。祈るとは、このような神との内的な関係を学ぶことです。だから、祈りとともに一日を始め、祈りとともに一日を終えることが大切です。聖書が読まれるとき、神のことばを聞くことが大切です。自分の望みと願い、喜びと苦しみ、過ちと、あらゆるすばらしいこと、よいことへの感謝を神に打ち明けることが大切です。そこから、ますます神を自分の人生の基準とみなすことが大切です。こうしてわたしたちは自分の至らなさを自覚し、自分を改善しようと努めるようになります。しかし、同時にわたしたちは、自分が日々当たり前のように考えているすべてのことがどれほどすばらしく、よいものであるかを感じ、ますます感謝するようになります。感謝することによって、神が近づいてくださること、自分が神に仕えることができることを、ますます喜ぶようになります。

2 神はわたしたちにとって単なることばではありません。神は秘跡の中で、物体的なものを通してわたしたちにご自身を自ら与えてくださいます。神との関係とわたしたちの生活の中心は聖体です。心をこめて感謝の祭儀にあずかり、キリストご自身と出会うことが、毎日の生活の中心とならなければなりません。聖キュプリアヌス(200/210-258年)は、「わたしたちに日ごとの糧を今日もお与えください」という福音の願いを解釈していいます。「わたしたちの」パンとは、何よりもわたしたちキリスト信者が教会の中で受けるパン、すなわち聖体の主ご自身です。それゆえわたしたちは、主の祈りの願いの中で祈ります。主が「わたしたちの」パンを毎日与えてくださいますように。そのパンがいつもわたしたちのいのちの糧となりますように。聖体によってわたしたちにご自身を与えてくださる復活したキリストが、神の愛の輝きによってわたしたちの生活全体を形づくってくださいますように。感謝の祭儀をふさわしくささげるには、教会の典礼の具体的な形態を知り、理解し、愛することも必要です。わたしたちは典礼の中ですべての時代の信者とともに祈ります。過去と現在と未来が、偉大な一つの祈りの歌声の中に集まります。わたしは自分の個人的な人生の歩みからいうことができます。典礼全体がどのように発展してきたか、ミサ典礼の構造の中にどれほど多くの信仰体験が反映しているか、どれほど多くの世代の人々の祈りがミサを形づくってきたか――これらのことを学ぶとき、わたしたちは感嘆の念を抱きます。

3 ゆるしの秘跡も大切です。ゆるしの秘跡は、神がご覧になるように自分を見ることをわたしに教えてくれます。そして、わたしを自分自身に正直になるように促します。わたしをへりくだりへと導きます。アルスの主任司祭ジャン・マリー・ヴィアンネ(1786-1859年)は、あるところでこう述べています。「明日同じ罪をまた犯すことを知りながら、今日ゆるしを得ることは意味がないとあなたはお考えです」。ヴィアンネは続けていいます。「しかし、神は今日恵みを与えるために、あなたが明日犯す罪をすぐに忘れます」。たとえ同じ過ちと絶えず戦わなければならなくても、魂の愚かさと無関心にあらがうことが大切です。魂は現実に甘んじようとするからです。神がいつも新たにわたしをゆるしてくださることを、いっさい疑念を抱かずに、感謝をもって認め、歩み続けることも大切です。しかし、無関心であってはなりません。無関心は、聖性と改善に向けて努力することをやめるからです。また、わたしはゆるされることによって、人をゆるすことも学びます。自分のみじめさを認めることによって、わたしは隣人の弱さに対しても寛大となり、理解を示すようになるのです。

4 民間信心に対する感覚を深めてください。民間信心は文化によって異なりますが、常に類似しています。人間の心は究極的には同じだからです。確かに民間信心は非合理的なものになりがちであり、中身のない場合もあります。とはいえ、民間信心をまったく排除するのは間違いです。民間信心を通じて、信仰は人の心の中に浸透し、感情と習慣、共通の感覚と生活の一部となるのです。だから民間信心は教会の偉大な遺産です。それは信仰が血肉となったものです。いうまでもなくわたしたちは常に民間信心を清め、中心に引き戻さなければなりません。しかし、民間信心は愛するに値します。それはわたしたちを完全な「神の民」とするからです。

5 神学校時代は何よりも勉学の時期でもあります。キリスト教信仰は本質的に合理的・知的な側面をもっています。この側面を欠くなら、キリスト教信仰はキリスト教信仰でなくなります。パウロは、洗礼によってわたしたちに「教えの規範」(ローマ6・17)がゆだねられたと述べます。皆様は聖ペトロのことばをご存じと思います。中世神学者はこのことばを合理的・学問的神学を正当化するものと考えました。「あなたがたの抱いている希望について説明(ロゴス)を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(一ペトロ3・15)。こうした弁明を行う力を身に着けることは、神学校時代の主要な課題の一つです。しつこいほどにお願いします。どうか一所懸命勉強してください。勉学の期間を活用してください。そうすれば、決して後悔しません。学んでいる内容がキリスト教的生活や司牧からかけ離れているように見えることもしばしばかもしれません。けれども、すぐに「これが将来自分に何の役に立つのか。これが実践的、司牧的に使えるだろうか」という功利主義的な疑問を発するのは間違いです。大事なのは、明らかに役に立つことを学ぶことだけではありません。むしろ信仰全体の内的構造を知り、理解することが大事です。そうすれば、人々が発する問いにこたえられるようになります。人々の問いかけは、外から見れば時代ごとに移り変わるように思われますが、根本的には同じです。だから、そのときそのときの移り変わる問いかけを超えて、真の問いを把握し、そこから本当のこたえを理解することが大切です。聖書全体を、旧約と新約の統一性を通じて、深く知ることも大切です。聖書本文の形成、文学類型、聖書正典となった過程、動的な内的統一性を知らなければなりません。聖書の内的統一性は、表面的に見ると分かりませんが、実際にはそこから初めて個々の文書に完全な意味が与えられます。教父と偉大な公会議を知ることも大切です。教会は、教父と公会議を通して、聖書の本質的な教えを反省し、信じ、受け入れてきたのです。同様に続けていうことができます。教義神学と呼ばれるのは、信仰の個々の内容を統一的に、また極限まで単純な形で理解しようとしたものです。信仰の個々の要素は、結局のところ、わたしたちにご自身を示し、今も示しておられる唯一の神への信仰を展開したものにすぎません。倫理神学とカトリックの社会教説の根本問題を知ることが大切なのはいうまでもありません。現代においてはエキュメニズムの神学、すなわち、さまざまなキリスト教的共同体を知ることが重要なのは明らかです。偉大な諸宗教について基本的理解をもつことも必要です。最後に哲学を忘れてはなりません。哲学とは、人間の探求と問いを理解することです。信仰はこの問いにこたえようとするのです。さらに、教会法と、その本質的必要性、実際の適用の方法を理解し、(あえていいますが)愛することも学んでください。法のない社会は、権利を欠いた社会となります。法は愛の条件です。これ以上列挙するつもりはありません。しかし、もう一度いいたいと思います。愛をもって、注意深く神学を学んでください。それは、神学を教会の生きた共同体に根ざしたものとするためです。教会の権威は、神学の対極ではなく、むしろその前提です。信じる教会と切り離されるなら、神学は神学であることをやめ、内的統一を欠いた別の学問になってしまいます。

6 神学校時代は人間的に成長するための時期でもあります。司祭は、死の門に至るまで人生の旅路を人々に同伴しなければなりません。それゆえ司祭にとっては、心と頭、理性と感情、肉体と霊魂の釣り合いがとれていること、人間的に欠けるところがないことが大切です。そのためキリスト教の伝統は常に「対神徳」を「枢要徳」と結びつけてきました。「枢要徳」は、人間的経験と哲学、一般的にいえば人類の健全な倫理的伝統に由来します。パウロはフィリピの信徒に対してこのことをはっきりと述べます。「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」(フィリピ4・8)。これには性を人格全体と統合することも含まれます。性は造り主が与えたたまものです。しかし、性は、このたまものを人間の成長と関連づけなければならないという課題でもあります。性が人格と統合されていないとき、それはつまらないものであるだけでなく、破壊的なものとなります。今日わたしたちは、現代社会の中にその多くの例を見いだすことができます。近年わたしたちは、一部の司祭が子どもや若者に対する性的虐待によって自らの奉仕職をゆがめたことを、深い悲しみをもって知らなければなりませんでした。彼らは人々を人間的に成長させ、模範を示す代わりに、虐待行為によって破滅をもたらしました。わたしたちはこのことに深い悲しみと遺憾の念を覚えます。その結果、多くの人に――もしかすると皆様神学生にも――問いが生じるかもしれません。すなわち、司祭となるのはよいことかどうか、独身生活は人間的な生き方として意味をもつかどうかという問いです。しかし、たとえ虐待がどれほど容認できないものであっても、それが司祭の使命そのものへの信頼性を失わせることにはなりません。司祭の使命は偉大で清いものであり続けます。神の恵みによって、わたしたちは皆、信仰を体現した、すばらしい司祭がいるのを知っています。これらの司祭は、人が司祭の身分によって、それもまさに独身生活を通して、清く成熟した真の人間性に到達できることをあかししています。とはいえ、すでに起きた出来事によって、わたしたちはいっそう自覚と注意をもたなければなりません。それは、司祭職を目指すにあたり、神の前で自分自身に正確に問いかけ、自分に対する神のみ心がいかなるものかを知るためです。聴罪司祭と長上の務めは、この識別の過程で皆様に同伴し、助力を与えることです。皆様の歩みの本質的な要素は、キリストのうちにご自身を示してくださる神にしっかりと目を注ぎながら、根本的な人間的徳を実践し、絶えず新たにキリストによって清めていただくことです。

7 現代において、司祭召命のきっかけはかつてよりも多様になっています。今日、司祭になる決断は、世俗的職業を経験する中でしばしば行われます。司祭召命は、しばしば共同体、特に運動団体の中で成長します。こうした運動団体は、キリストとその教会との共同体的な出会い、霊的体験、信仰に奉仕する喜びを促すからです。司祭となる決断は、人間の偉大さと悲惨さとの全人格的な出会いの中でも深まります。このように司祭志願者はしばしばきわめて多様な霊的場で生活しています。そこから、将来の使命や霊的歩みの共通の要素を認識するのが困難になることもありえます。だからこそ神学校は、霊性の多様な形態を乗り超えてともに歩む共同体として重要な意味をもちます。運動団体はすばらしいものです。ご存じのとおり、わたしは、聖霊が教会に与えたたまものである運動団体を深く尊び、愛しています。しかしわたしたちは、運動団体を、それが共通のカトリック的なものに対して、すなわち、キリストの教会の唯一・共通の生活に対してどれだけ開かれているかによって評価しなければなりません。キリストの教会の生活は、たとえどれほど多様でも、唯一だからです。神学校は、互いに、また互いから学び合う時期です。ときには困難なこともある共同生活の中で、皆様は寛大さと寛容な心を、それも、互いに耐え忍ぶだけでなく、互いを豊かにすることを学ばなければなりません。それは、すべての人が同じ教会、同じ主に仕えながら、各人が自分の固有のたまものを全体のために用いることができるためです。寛容を学ぶこと、そればかりか、キリストのからだの一致のうちに互いに受け入れ合い、理解し合うことを学ぶことは、神学校という時期の大切な要素です。

 親愛なる神学生の皆様。この短い手紙で、わたしは、この困難な時代に生きる皆様をわたしがどれほど思っているか、そしてわたしが祈りの中でどれほど皆様の近くにいるかを示したいと望みました。わたしのためにも祈ってください。主が望まれるかぎり、わたしが自分の職務をよく果たすことができますように。皆様が司祭職を準備する歩みを、至聖なるマリアの母としてのご保護にゆだねます。マリアの家は、いつくしみと恵みの学びやでした。父と子と聖霊の全能の神が皆様を祝福してくださいますように。

 バチカンにて、2010年10月18日、聖ルカ福音記者の祝日に

主において
教皇ベネディクト十六世

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