教皇ベネディクト十六世の降誕祭ミサ説教

12月24日(金)午後10時から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は主の降誕の夜半のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」。この詩編2篇のことばによって、教会は聖夜の典礼を始めます。教会はこのことばが元はイスラエルの王の戴冠式の一部をなしていたことを知っています。王は、自分自身としては他の人間と変わらない人間です。この王が、王職に招かれ、就任することによって、「神の子」となります。王はいわば神の養子とされます。この決定的なわざにより、神はこの人に新しい存在を与え、ご自身の存在へと引き寄せます。わたしたちがたった今聞いた、預言者イザヤからとられた朗読箇所は、イスラエルの苦難と危険に満ちた状況の中で、同じことをもっとはっきりと示します。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある」(イザヤ9・5)。王職に就くことは、新しい誕生に似ています。神の個人的な決断によって新たに生まれた者、神から生まれた幼子である王は、希望となります。この王の肩に未来がかかっています。彼は平和の約束を担います。ベツレヘムの夜、この預言のことばが現実となりました。しかしそれは、イザヤの時代にはまだ想像できなかったしかたによってです。そうです。今や本当に権威がひとりの幼子の肩にあります。この幼子のうちに、神が世に打ち立てた新しい支配が現れます。この幼子は本当に神から生まれました。この幼子こそが、人性と神性を一つに結びつける、神の永遠のみことばです。この幼子は、イザヤの戴冠式の歌が王に与えた尊称にふさわしいかたです。彼は、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君です(イザヤ9・5)。そうです。この王は、世の知者から成る助言者たちを必要としません。この王は自らのうちに神の知恵と助言を有しています。この王は、まさに幼子の弱さにおいて、力ある神です。このようにして彼は、この世の傲慢な権力とは異なる、神ご自身の力をわたしたちに示すのです。
 まことに、イスラエルの戴冠式のことばは、唯一永遠の希望の祭儀でした。この祭儀は、はるか遠い未来に神が恵みを与えてくださることを予見していました。しかし、この戴冠式で祝福されたいかなる王も、このことばが述べる約束を完全に満たすことができませんでした。そこで述べられた、彼が神の子となり、国々の嗣業を受け継ぎ、地の果てまで自分の領土とするということば(詩編2・8)は皆、未来を指し示すものでしかありませんでした。いわばそれは、今はまだ理解しがたい未来を示す、希望の道標のようなものでした。ですから、ベツレヘムの夜に始まった預言のことばの実現は、きわめて偉大なものであると同時に、この世の見方からすれば、預言者が想像させてくれるよりもつつましいものでした。それはきわめて偉大なものでした。なぜなら、この幼子は、本当に神の子だからです。本当に「神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体」だからです。神と人間の限りないへだたりが乗り越えられたのです。詩編に述べられているとおり、神は低いところに身をかがめられるだけではありません。神はまことに「降って」来られました。世に入って来られました。わたしたちをすべてご自分へと引き寄せるために、わたしたちの一人となられました。この幼子はまことにインマヌエル、すなわち、われらとともにおられる神です。このかたの支配は本当に地の果てにまで及びます。このかたは、聖体を世界中に広めることにより、本当に平和の島を作り出します。どこであれ、聖体が祝われるところでは、平和の島ができます。この平和は、神ご自身の平和です。この幼子は人々の中にいつくしみの光をともします。そして彼らに、権力の横暴に抵抗する力を与えます。幼子は、あらゆる世代の人々の中で、内側から、すなわち心から、ご自分の支配を築きます。しかし同時にこのことも真実です。「虐げる者の鞭」はまだ折られていません。兵士たちの靴は今も地を踏みならし、ますます新たに「軍服は血にまみれて」います(イザヤ9・3-4)。それゆえ、今夜わたしたちはまず、神が近づいてくださったことを喜びます。わたしたちは感謝します。神がご自身を幼子としてわたしたちの手にゆだねてくださったからです。神がいわばわたしたちに愛してもらうことを乞い願うからです。神がわたしたちの心をご自身の平和で満たしてくださるからです。しかし、この喜びは同時に祈りでもあります。主よ。あなたの約束を完全に実現してください。虐げる者の鞭を折ってください。兵士たちの靴を焼き払ってください。軍服が血にまみれる時を終わらせてください。「平和は絶えることがない」(イザヤ9・6)という約束を実現してください。あなたがいつくしみを注いでくださったことを感謝します。しかし、わたしたちはまた祈ります。あなたの力を示してください。世にあなたの真理と愛の支配を打ち立ててください。「正義と愛と平和の支配」を立ててください。
 「マリアは初めての子を産んだ」(ルカ2・7)。聖ルカはこのことばで、イスラエルの歴史の中で預言者たちが予見していた偉大な出来事を、まったく感情を抑えた筆致で語ります。ルカは幼子を「初めての子」と呼びます。旧約聖書の中で発展してきた言葉遣いの中で、「初めての子」は複数の子らの長子を意味するものではありません。「初めての子」ということばは、他の兄弟姉妹がその後生まれたかどうかとかかわりなく、名誉を表す称号です。だから出エジプト記(出エジプト4・22)で、イスラエルは神から「わたしの長子」と呼ばれます。それは、イスラエルが選ばれた者であり、たぐいのない尊厳をもち、父である神から特別に愛されていることを表します。初代教会は、イエスによってこのことばが新たな深い意味を与えられたことを知っていました。イスラエルに対する約束は、イエスのうちに要約されたのです。だからヘブライ人への手紙がイエスを「長子」と呼ぶのはただ、イエスが、旧約による準備の後、神が世に送った子であることを示すためにすぎません(ヘブライ1・5-7参照)。初めての子は特別なしかたで神に属します。だから彼は(多くの宗教の場合と同じように)特別なしかたで神にささげられ、そして、身代わりの犠牲によって買い戻されなければなりません。聖ルカがイエスの神殿への奉献の記事で語るとおりです。初めての子は特別なしかたで神に属します。それゆえ彼は、いわば犠牲としてささげられるよう定められています。イエスの十字架上の犠牲によって、この初めての子の定めは独自のしかたで実現されます。彼はご自分の身をもって人性を神にささげ、人間と神を一つに結びつけました。それは、神がすべてにおいてすべてとなるためです。パウロは、コロサイの信徒への手紙とエフェソの信徒への手紙の中で、イエスが初めての子であるという考えを拡大し、深化しました。この2つの手紙で述べられているとおり、イエスは被造物の中で最初に生まれたかた、すなわち人間のまことの原型です。神はこの原型に従って被造物としての人間を形づくりました。人間が神の像となることができるのは、イエスが神であり人であるからです。イエスがまことの神の像また人間の像だからです。さらに、2つの手紙が述べるように、イエスは死者の中から最初に生まれたかたです。イエスは復活によってわたしたち皆のために死の壁を打ち壊したからです。イエスは人間に、神との交わりのうちに永遠のいのちを生きる可能性を開いてくださいました。最後にこういわれます。イエスは多くの兄弟の中で最初に生まれたかたです。そうです。今やイエスは兄弟たちの最初の者でもあります。最初の者というのは、彼がわたしたちのために神との交わりを始めてくださったからです。イエスはまことの兄弟の交わりを造り出します。この交わりは、カインとアベル、ロムルスとレムスのような、罪によってゆがんだものではありません。むしろそれは、わたしたちを神ご自身の家族とする、新しい兄弟の交わりです。この新しい神の家族は、マリアが「初めての子」を布にくるんで飼い葉桶に寝かせたときに始まりました。祈りたいと思います。主イエスよ。あなたは多くの兄弟姉妹の長子として生まれることをお望みになりました。わたしたちがまことの兄弟となる恵みを与えてください。あなたと同じような者となれますように、わたしたちを助けてください。わたしたちを助けてください。わたしを必要とする人、苦しむ人、捨てられた人、すべての人のうちにあなたのみ顔を見いだすことができますように。そして、わたしたちがあなたとともに兄弟姉妹として生き、一つの家族、すなわちあなたの家族となることができますように。
 主の降誕の福音は、終わりにこう語ります。天使に加わった天の大軍が、神を賛美していった。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、み心にかなう人にあれ」(ルカ2・14)。教会は、天使たちが聖夜の出来事を見て唱えたこの賛美を拡大して、神の栄光をたたえる喜びの賛歌を作りました。「わたしたちは、あなたの大いなる栄光のゆえに、あなたに感謝します」。この夜、わたしたちの目に見えるものとなった、あなたの美と、偉大さと、神のいつくしみのゆえに、あなたに感謝します。美と、美なるものが現れるとき、わたしたちは、それが何の役に立つかを問うことなしに喜びを覚えます。すべての美がそこから生まれる神の栄光は、わたしたちのうちに深い驚きと喜びを湧き上がらせます。神を少しでも見いだした人は喜びを感じます。そして今夜、わたしたちは、神の光をわずかながらも目にしています。けれども、聖夜の天使たちの知らせはまた、人々に次のように語ります。「平和、み心にかなう人にあれ」。わたしたちが典礼で用いるこのことばのラテン語訳――それは聖ヒエロニュムス(347-419/ 420年)にさかのぼるものです――は少し異なり、「善意の人に平和あれ」です。「善意の人」ということばは、この数十年の間に特別重要な教会用語の一つになりました。しかし、どちらの翻訳が正しいのでしょうか。両方のテキストを一緒に読まなければなりません。そのようにして初めて、天使たちのことばを正しい意味で理解できます。これを神からのみなされるわざと考えるなら、その解釈は誤りです。その場合、神は人間に愛をもって自由にこたえることを求めないかのようにみなされるからです。しかし、道徳的な解釈も誤りです。この解釈は、人間が自らの善意によって、いわば自分自身をあがなうことができるかのように考えるからです。恵みと自由、神の愛とわたしたちの応答はともに歩みます。神がまずわたしたちを愛してくださいます。神が愛してくださらなければ、わたしたちは神を愛することができません。また、神はわたしたちがこたえることを期待しておられます。そればかりか、御子の誕生のとき、神はわたしたちがこたえてくれるよう頼むのです。恵みと自由、呼びかけとこたえは組み合わさっています。わたしたちはこの二つをばらばらに切り離すことができません。二つは切り離しえないしかたで互いにより合わされています。ですから、天使のことばは約束であるとともに呼びかけなのです。神は、御子をお与えになることにより、わたしたちよりも先に来られます。神はいつも予期しえないしかたで、わたしたちより先に来られます。神はたえずわたしたちを捜し、必要なときにいつもわたしたちを立ち上がらせてくださいます。神は、見失った羊を、荒れ野で見失われたままに放置しておかれません。神はわたしたちの罪によってとまどいません。神はいつも新たにわたしたちとともに歩み出してくださいます。むしろ神はわたしたちが神とともに愛することを待っておられます。神はわたしたちを愛してくださいます。それは、わたしたちが神とともに愛する者となり、そこから、地上に平和をもたらすことができるためです。
 ルカは、天使たちが歌ったとは述べていません。ルカはきわめて冷静なしかたで記します。天の大軍が神を賛美していった。「いと高きところには栄光、神にあれ、・・・・」(ルカ2・13以下)。しかし人々は昔から知っていました。天使のことばが人間のことばとは異なることを。何よりも喜びの知らせが伝えられたこの夜、天使たちがいと高き神の栄光をたたえて歌ったことを。そのため、この天使たちの歌は、初めから神から生まれた音楽と考えられました。そればかりか、この歌は、喜びに満ちた心でともに歌うことへの招きと考えられました。わたしたちは神に愛されているからです。アウグスティヌスはいいます。「歌うことは、愛する者が行うこと(Cantare amantis est)」。そのため、天使たちの歌は世々にわたって、繰り返し、愛と喜びの歌となりました。愛する者の歌となりました。このときにあたり、感謝に満ちた思いをもって、すべての時代に歌われてきたこの歌をともに歌おうではありませんか。天と地、天使と人間を一つに結ぶ歌を。まことにわたしたちは、あなたの大いなる栄光のゆえに、あなたに感謝します。わたしたちは、あなたの愛のゆえにあなたに感謝します。どうかわたしたちがますますあなたとともに愛する者となり、そこから、平和の人となることができますように。アーメン。

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