教皇ベネディクト十六世の受難の主日のミサ説教

4月17日(日)午前9時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世は受難の主日(枝の主日)のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。ミサには、第26回「世界青年の日」にあたり、また2011年8月16日から21日までスペインのマドリードで開催されるワールドユースデー(WYD)マドリード大会の先がけとして、ローマ教区と他の教区の青年が参加しました。今年の「世界青年の日」のテーマは「イエス・キリストに根を下ろして造り上げられ、信仰をしっかり守りなさい」(コロサイ2・7参照)です。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様
 親愛なる若者の皆様

 毎年、枝の主日にイエスとともに神殿の山に登り、イエスとともにいと高きところに向けた道を歩むわたしたちは、あらためて感動を覚えます。今日、世界中で、あらゆる時代に行われてきたように、若者とあらゆる年代の人々がイエスに向かって歓呼の叫び声を上げます。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られるかたに、祝福があるように」(マタイ21・9)。
 しかし、わたしたちはこの行列の中で、すなわち、イエスとともにエルサレムに登り、イエスはイスラエルの王だと宣言する群衆の中にいて、実際に何を行っているのでしょうか。それは儀式ないし恒例行事以上のものなのでしょうか。それはわたしたちの人生や世界の実際の現実と果たして関係があるのでしょうか。この問いに答えるために、わたしたちはまず、イエスご自身が実際に何をしようとし、また行ったかを明らかにしなければなりません。ペトロが、聖地の北端のフィリポ・カイサリア地方で信仰告白を行った後、イエスは、エルサレムに向かう巡礼を始めました。過越祭を祝うためです。イエスは聖なる都にある神殿に向けて歩みます。神殿は、イスラエルにとって、神がご自分の民の近くにいてくださることを特別なしかたで保証する場所です。イエスは、人々と同じ過越祭に向けて歩みます。過越祭は、エジプトからの解放の記念であり、決定的な解放への希望を表すしるしです。イエスは知っておられました。ご自分を待ち受けているのは新しい過越であることを。十字架上で自らをささげることによって、イエスご自身がいけにえの小羊の代わりとなることを。イエスは知っておられました。パンとぶどう酒をささげる神秘によって、ご自分に属する人々に永遠にご自身をささげ、彼らに新しい自由への道に向かう扉を開くのだということを。新しい自由とは、生ける神との交わりです。イエスは十字架の山に向けて歩みました。ご自身を与える愛の時に向けて歩みました。イエスの巡礼が最後に目指す目的地は、神ご自身のおられるいと高きところです。イエスは人類をこのいと高きところに上げようと望まれたのです。
 それゆえ、今日のわたしたちの行列は、ある深い現実を象徴的に表しています。わたしたちがイエスとともに歩み始めたことを表そうとしています。この歩みは、生ける神へと向かう山道を通ります。重要なのは、この上昇です。イエスがわたしたちを招くのは、このような歩みです。しかし、わたしたちはどのようにしてこの上昇の道を歩むことができるでしょうか。それはわたしたちの力を超えたことではないでしょうか。確かにそれはわたしたちの自分の能力を超えています。人間は昔から(そして、現代においてはますます)「神のようになりたい」という望みを抱いてきました。神の高みに達したいという望みを抱いてきました。人間精神の生み出したあらゆる発明は、つまるところ、翼を得ることを求めています。それは、存在の高みに登り、神と同じように、独立し、完全に自由な者になるためです。人類はきわめて多くのことを実現できました。わたしたちは空を飛ぶことができます。わたしたちは世界の彼方の人を見、そのことばを聞き、その人と語ることができます。しかし、わたしたちを地上に引き下ろす重力は強力です。わたしたちの可能性とともに増大したのは、よいことだけではありません。悪への可能性も強まり、歴史を脅かす嵐のように姿を現しています。わたしたちには相変わらず限界があります。この数か月、人々を襲い、今も苦しめ続けている災害を考えてみれば十分です。
 教父はいいます。人間は二つの重力場の交差するところに立っています。第一の重力は、わたしたちを低いところに引き寄せます。低いところとは、利己主義と偽りと悪です。この重力は、わたしたちをおとしめ、神のいますいと高きところから引き離します。もう一つは、神の愛による重力です。わたしたちは、神から愛され、また自分も愛をもってこたえることによって、高いところに引き寄せられます。人はこの二つの重力の中間に置かれています。すべては、悪の重力場から逃れ、神の重力に完全に自由に引き寄せられるようになるかどうかにかかっています。神の重力はわたしたちを真実な者とし、高め、まことの自由を与えてくれるからです。
 ことばの典礼の後、感謝の祈り(この感謝の祈りの中で、主はわたしたちのただ中に入ってくださいます)の初めに、教会はわたしたちが心を高く上げるよう招いていいます。「心を高く上げよ(Sursum corda)」。聖書の概念と教父の思想によれば、心は人間の中心です。心の中で、知性と意志と感情、肉体と精神は一つになります。心の中で、精神は肉体となり、肉体は精神となります。心の中で、意志と感情と知性は、神を知り、愛することにおいて一つになります。高く上げなければならないのは、この「心」です。しかし、ここでもまた、わたしたちは自分だけではあまりにも無力で、自分の心を神のいます高みにまで上げることができません。わたしたちにはそれは不可能です。まさに自分だけでそのようなことができるという傲慢こそが、わたしたちをおとしめ、神から引き離すのです。神ご自身がわたしたちを引き上げてくださらなければなりません。そして、これこそがキリストが十字架上で始められたことです。キリストは人間存在のもっとも低いところに降りました。それは、わたしたちをご自身へと、生ける神へと高く引き上げるためです。今日の第二朗読が述べるとおり、キリストはへりくだりました(フィリピ2・6-8参照)。このようにして初めて、わたしたちの傲慢は克服されます。神のへりくだりは、神の愛の究極の形です。このへりくだりの愛こそが、わたしたちを高いところへと引き上げるのです。
 教会は今日の典礼のために「都上りの歌」として、詩編24を用います。この行列の詩編は、ある具体的な要素を示します。これらの要素は、わたしたちの上昇の一部をなすとともに、それなしに高いところに登ることができないものです。それは、潔白な手、清い心、偽りを退け、神のみ顔を尋ね求めることです。わたしたちが獲得した偉大な技術が、わたしたちを自由にし、人類の進歩の一部となるには、それがこうした態度と結びつかなければなりません。わたしたちは手を潔白なものとし、心を清め、真理を探求しなければなりません。神ご自身を尋ね求めなければなりません。神の愛に触れていただき、吟味していただかなければなりません。これらの上昇のための手段が力を発揮するために、へりくだって、自分が高いところに引き上げてもらわなければならないことを認めなければなりません。神になることを望む傲慢を捨てなければなりません。わたしたちは神を必要としています。神がわたしたちを高いところに引き上げ、信仰のうちに、み手で支えてくださいます。神がわたしたちに正しい方向づけと内的な力を与えてくださいます。この内的な力がわたしたちを高いところに引き上げるのです。わたしたちはへりくだる信仰を必要としています。この信仰によって、神のみ顔を求め、真実な神の愛に身をゆだねなければなりません。
 人はどうすれば高いところに達し、完全に自分自身となり、真に神に似た者となりうるか――人類は絶えずこの問いに答えようとしてきました。3・4世紀のプラトン主義哲学者も熱心にこの問いについて議論しました。彼らによれば、根本的問題は、浄化の手段をどうすれば見いだせるかということでした。人はこの浄化の手段によって、自分を低いところに引きずり下ろす重荷から解放され、自らの真の存在の高み、すなわち神性の高みへと上昇できるからです。聖アウグスティヌス(Augustinus 354-430年)は、正しい道を探し求めていたとき、しばらくの間、こうした哲学に支えを見いだそうとしました。しかし、彼はついに次のことを認めなければなりませんでした。これらの哲学者たちの答えは不十分です。彼らの方法では真の意味で神に到達することはできません。アウグスティヌスはこれらの哲学の代表者に向けていいます。人間とその浄化の力は、神の高み、すなわち神にふさわしい高みへと人を真に導くには不十分です。そして彼はいいます。自らなしえないことをなし遂げてくださるかたを見いだせなかったなら、自らと人生に絶望せざるをえなかったでしょう。たとえわたしたちがみじめな存在であっても、このかたがわたしたちを神の高みへと引き上げてくださいます。イエス・キリストは、神からわたしたちのところに降って来られました。このかたが、その十字架の愛によって、わたしたちを手に抱き、高いところに導いてくださいます。
 わたしたちは主とともに高いところへと歩んでいきます。わたしたちは心を清め、手を潔白なものにしようと努めます。真理を探求し、神のみ顔を尋ね求めます。自分が正しい者になろうと望んでいることを主に示そうではありませんか。そして主に祈ろうではありませんか。わたしたちを高いところへと引き上げてください。わたしたちを清めてください。行列の詩編の中で唱えたことばが、わたしたちにも当てはまるようにしてください。わたしたちも神を尋ね求める人の一人となることができますように。それは「ヤコブの神よ、み顔を尋ね求める人」(詩編24・6)。アーメン。

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