教皇ベネディクト十六世の主の晩餐のミサ説教

4月21日(木)午後5時30分から、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は聖木曜日の主の晩餐のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。
この日のミサの中では、愛のわざとして日本の地震と津波被災者のための献金が行われ、集められた献金は奉納の際に教皇に手渡されました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

  「苦しみを受ける前に、あなたがたとともにこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ22・15)。イエスはこのことばをもって最後の食事と聖体の制定を開始します。イエスは深い望みをもってこの時に近づきます。イエスは心のうちで、パンとぶどう酒の形態のもとにご自身を与える時を待ち望んでおられました。ある意味でまことのメシアの祝宴ともいえるこの時を待ち望んでおられました。そのときイエスは、地上のたまものを造り変え、弟子たちと一つになります。それは、弟子たちを造り変え、そこから、世を変容させるためです。わたしたちはイエスの望みのうちに神ご自身の望みを見いだすことができます。神の人類と被造物に対する愛と期待を見いだすことができます。この愛は一致の時を待ち望みます。この愛は、人々をご自身に引き寄せ、そこから、造られたものの望みをも満たすことを望みます。実際、被造物は、神の子たちの現れるのを待ち望んでいます(ローマ8・19参照)。イエスはわたしたちに望みを抱いています。わたしたちを待ち望んでいます。ところでわたしたちは、本当にイエスに望みを抱いているでしょうか。わたしたちは心からイエスと出会いたいと思っているでしょうか。イエスが近づいてくださり、聖体の中でわたしたちにご自身を与えてくださるイエスと一つになることを願っているでしょうか。それともわたしたちは、無関心で、上の空で、ほかのことで頭を一杯にしていはしないでしょうか。宴会についてのイエスのたとえ話から、次のことが分かります。イエスは、宴会が空席であること、人々が招待を断ること、イエスにもイエスが近くにいることにも関心をもっていないことを知っておられました。わたしたちにとって、理由はともあれ、主の婚宴に空席があることは、すでにたとえではなく現実です。それも、イエスが特別なしかたで近づいてくださった、かの国々においてそうなのです。イエスは、客が婚礼の礼服を着ずにやって来ることもご存じでした。客は、イエスが近づいてくだったことを喜ぶのではなく、単に習慣に従っているにすぎず、生活はまったく別のしかたで送っています。大聖グレゴリウス(Gregorius Magnus 540頃-604年)はある説教の中で問いかけます。婚礼の礼服を着ないでやって来る人はだれか。礼服とは何であり、どうすればそれを着ることができるのか。グレゴリウスの答えはこれです。それは、招かれて、ある種の信仰をもってやって来る人です。信仰がその人に扉を開きます。しかし、その人には愛という婚礼の礼服がありません。愛をもたずに信仰を生きる人は、婚礼の準備ができておらず、外に放り出されます。聖体の交わりは信仰を必要としますが、信仰は愛を必要とします。愛がなければ、信仰も死んでしまいます。
  四つの福音書のすべてから次のことが分かります。イエスが受難の前に行った最後の食事は、告知を行う場でもありました。イエスはあらためてご自分のメッセージの中心となる要素を強調して語りました。ことばと秘跡、メッセージとたまものは切り離しがたく結びついています。しかし、イエスは最後の晩餐の中で何よりも祈りました。マタイ、マルコ、ルカは晩餐の中心部分におけるイエスの祈りを述べるために二つのことばを用います。「エウカリステサス(感謝する)」と「エウロゲサス(祝福する)」です。感謝の上に向かう動きと、祝福の下に降る動きは、ともに歩みます。実体変化のことばも、このイエスの祈りの一部をなしています。それは祈りのことばです。イエスは祈りの中で、ご自分の受難を人々のための御父への奉献に変容させます。この苦しみの愛への変容は、たまものを変化させる力をもちます。今やイエスはこのたまものにおいてご自身をささげるからです。イエスはこのたまものをわたしたちに与えます。それは、わたしたちと世が造り変えられるためです。聖変化の本来の究極目的は、キリストとの交わりの中でわたしたち自身が造り変えられることです。聖体は新しい人を、新しい世を目指します。新しい人、新しい世は、神のしもべのわざを通じて、神から出発して初めて生まれることができるのです。
  ルカと、とくにヨハネから、次のことが分かります。イエスは最後の晩餐の祈りの中で、御父にも祈願をささげました。この祈願は、当時とすべての時代の弟子のための嘆願も含みます。今わたしは、ヨハネによれば、イエスが大祭司の祈りの中で四回繰り返した祈願だけを取り上げたいと思います。イエスはこの祈願をどれほど心にかけていたことでしょうか。イエスはわたしたちのために御父に向かってこの祈りをささげ続けます。すなわち、一致のための祈りです。イエスははっきりといいます。この祈願は、今いる弟子のためだけでなく、わたしを信じるすべての人々のためのものでもあります(ヨハネ17・20参照)。イエスは願います。「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。・・・・そうすれば、世は信じるようになります」(ヨハネ17・21)。キリスト者の一致は、キリスト者が主イエスと深く一つに結ばれるとき、初めて可能となります。イエスに対する信仰と愛、イエスが御父と一つであることへの信仰と、イエスと一致するよう心を開くことが、必要不可欠です。それゆえ、この一致は、単なる内的、神秘的一致ではありません。一致は目に見えるものとならなければなりません。イエスが御父から遣わされたことを世に向かって証明できるほど、目に見えるものとならなければなりません。ですから、イエスの祈願には聖体の意味が隠されています。パウロはそれをコリントの信徒への手紙一ではっきりと示しました。「わたしたちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つのからだです。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(一コリント10・16-17)。教会は聖体とともに生まれます。わたしたちは皆、同じパンを食べ、同じ主のからだを与えられます。これは次のことを意味します。主はわたしたち皆を、自分を超えて、互いに対して開かれた者としてくださいます。主はわたしたち皆を一つにしてくださいます。聖体は、一人ひとりの人が深く主に近づき、主と交わる神秘です。同時に聖体は、すべての人の目に見える一致でもあります。聖体は一致の秘跡です。聖体は三位一体の神秘にまで達し、そこから、目に見える一致も造り出します。こういいかえることもできます。聖体は主とのきわめて個人的な出会いです。にもかかわらず、聖体は単なる個人的な信心業ではありません。わたしたちは感謝の祭儀をともに祝わなければなりません。主はあらゆる共同体の中に完全なしかたで現存されます。しかし、主は全共同体の中で唯一です。そのため、教会の感謝の祈りは必ず、「わたしたちの教父、わたしたちの司教と一つに結ばれて(una cum Papa nostro et cum Episcopo nostro)」ということばを含んでいなければならないのです。このことばは内的なものに対する外からの付加ではなく、むしろ聖体の現実そのものを必然的なしかたで表しています。また、わたしたちは教皇と司教の名前を挙げます。一致はきわめて具体的なものです。一致は名前をもっています。こうして一致は目に見えるものとなります。それは世に対するしるしとなり、わたしたちにとっても具体的な基準を定めてくれるのです。
  聖ルカは、イエスの一致を求める祈りの具体的な要素をわたしたちに残してくれました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22・31-32)。現代のわたしたちは、あらためて悲しみとともに認めます。サタンは弟子たちを全世界の前で目に見えるしかたでふるいにかけることを許されました。こうしてわたしたちは知ります。イエスは、ペトロとその後継者の信仰のために祈ってくださっているのです。わたしたちは知ります。歴史の嵐の海の上を主に向かって歩み、沈みかけたペトロを、主のみ手はいつもあらためて支え、水の上を導いてくださいます。しかしイエスは続けて予言し、命じます。「あなたは・・・・三度わたしを知らないというだろう」。マリア以外の人間は皆、絶えず回心を必要としています。イエスはペトロに、彼が罪に落ち、回心することをあらかじめ告げました。ペトロは何から回心しなければならなかったのでしょうか。ペトロは、召し出された初めから、主の神としての力と、自分のみじめさから、恐れを覚えていいました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5・8)。主の光に照らされて、ペトロは自分の至らなさを認めました。まさにこのように、へりくだって自分が罪人であることを知ることを通して、ペトロは召し出されたのです。ペトロはこのへりくだりをつねにあらためて見いださなければなりませんでした。ペトロはフィリポ・カイサリア地方で、イエスが苦しみを受け、十字架につけられなければならないことを受け入れようとしませんでした。そのようなことは、イエスの神とメシアとしてのイメージと一致しなかったからです。二階の広間で、ペトロはイエスが自分の足を洗うことを受け入れようとしませんでした。そのようなことは、師であるかたの品位ある姿にふさわしくなかったからです。オリーブの園で、ペトロは剣を抜きました。自分の勇気を示したかったからです。しかし、ペトロは女中の前で、自分はイエスを知らないといいました。そのときは、それがイエスの近くにとどまるための、小さなうそのように思えたからです。ペトロの英雄的な行為は、出来事の中心的なところで、みじめな一言をもって崩れ去りました。わたしたちも皆、神とイエス・キリストを、自分たちが望む姿に従ってではなく、そのありのままの姿で受け入れることを学ばなければなりません。わたしたちも、キリストがご自身を、限界のあるご自分の教会とその奉仕者と結びつけたことを受け入れるのを困難だと感じます。わたしたちも、キリストがこの世で無力であることを受け入れることを望みません。わたしたちも、キリストの弟子であることがあまりにも危険で犠牲を必要とするようになると、言い訳をいって身を隠そうとします。わたしたちは皆、神であり、人であるイエスを受け入れるために、回心を必要としています。わたしたちは、師であるかたに従うために、弟子のへりくだりを必要としています。この夜、主に祈りたいと思います。必要なときに、いつくしみのまなざしをもってペトロに目を注がれたように、わたしたちにも目を注いでください。そして、わたしたちを回心させてください。
  ペトロは、立ち直ったら、兄弟を力づけるようにと招かれました。この務めが二階の広間でゆだねられたことには深い意味があります。一致への奉仕は、感謝の祭儀の中で目に見える形で行われます。親愛なる友人の皆様。感謝の祭儀がささげられるとき、すべての人は教皇のために祈ります。そしてわたしたちの祈りはペトロのための主の祈りと結ばれます。このことを知るのは、教皇にとって深い慰めです。主と教会の祈りのおかげで、教皇は初めて兄弟を力づけ、イエスの群れを養い、一致を保証するという務めを果たすことができるのです。この一致こそが、イエスが御父から遣わされたことを目に見える形であかしします。
  「あなたがたとともにこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」。主よ、あなたはわたしたちに望まれます。わたしに望まれます。あなたは聖体の中でわたしたちにご自分を分け与えようと望まれます。わたしたちと一つになろうと望まれます。主よ、わたしたちのうちにもあなたへの望みを燃え立たせてください。わたしたちがあなたと一致し、互いに一致するよう、力づけてください。あなたの教会に一致をお与えください。そうすれば、世は信じるようになります。アーメン。

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