教皇ベネディクト十六世の復活徹夜祭ミサ説教

4月23日(土)午後9時から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は復活徹夜祭のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。
教皇はこのミサの中で、さまざまな教区の6名の洗礼志願者に洗礼を授けました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 二つの大きなしるしが復活徹夜祭の典礼を特徴づけています。第一のしるしは、光となる火です。夜の闇に包まれた聖堂を行列が進むとき、復活のろうそくの光は光の波となります。それはわたしたちに、沈むことのないまことの夜明けの星であるキリストについて語ります。復活したかたについて語ります。このかたによって光は闇に打ち勝ったからです。第二のしるしは水です。水はまず、紅海の水を思い起こさせます。降下と死を、十字架の神秘を思い起こさせます。しかし水はやがて泉の水として示されます。水は、渇いたところにいのちを与える要素です。こうして水は洗礼の秘跡の象徴となります。洗礼はわたしたちをイエス・キリストの死と復活にあずからせるのです。
 復活徹夜祭で用いられるのは、光と水という、二つの偉大な被造物のしるしだけではありません。復活徹夜祭のもう一つのきわめて本質的な特徴は、それがわたしたちを聖書のことばに広く触れさせてくれることです。典礼改革以前には、12の旧約朗読と2つの新約朗読がありました。新約朗読は今もそのまま行われます。旧約朗読の数は7つと決められましたが、地域の状況に応じて3つに減らすこともできます。教会は、救いの歴史の長い道を見渡せるようにわたしたちを導きます。救いの歴史は、天地創造から、選びとイスラエルの解放を経て、預言者のあかしに至ります。預言者を通して救いの歴史全体はますますはっきりとイエス・キリストに向かいます。典礼の伝統の中で、旧約朗読全体が預言と呼ばれました。それらは未来の出来事を直接予言するわけではありませんが、預言的な性格を帯びています。それらは歴史の内的基盤と方向性をわたしたちに示してくれます。これらの預言は、創造と歴史を、本質的なものに対して透明にしてくれます。こうしてそれはわたしたちの手をとって、キリストへと導きます。わたしたちにまことの光を示してくれるのです。
 復活徹夜祭の中で、聖書の道を歩む旅は創造物語から始まります。そこから典礼は、創造物語も預言であることをわたしたちに示します。創造物語は、宇宙と人間の生成の外的過程を述べた情報ではありません。教父はこのことをよく自覚していました。教父は創造物語を事物の誕生過程に関する物語として解釈しませんでした。彼らはむしろこれらの物語を、本質的なことがらを指し示すものとして、すなわち、わたしたちの存在のまことの起源と目的を指し示すものとして解釈しました。ここで問いかける人がいるかもしれません。しかし、復活徹夜祭の中で創造についても語ることが本当に重要でしょうか。神が人間を招き、民を形づくり、地上におけるご自身と人間の歴史を造り出した出来事から始めたほうがよいのではないでしょうか。これに対して、こう答えなければなりません。それは違います。創造を省略するなら、神と人間の歴史そのものを誤解し、おとしめ、そのまことの偉大な秩序を見失うことになります。神が築いた歴史の範囲は、起源にまで、すなわち創造にまで及びます。わたしたちの唱える信仰宣言は次のことばから始まります。「天地の創造主、全能の父である神を信じます」。信条の第一条を省くなら、救いの歴史全体がはなはだしく限定され、矮小(わいしょう)化されます。教会は、人間の宗教的要求にこたえるための組織のようなものではありません。そのような組織は目的そのものを限定するからです。むしろ教会は、人間が神に触れることができるように導きます。そして神はあらゆる事物の起源なのです。それゆえわたしたちは創造主に目を向けます。そして、それゆえにこそ、わたしたちは被造物に対して責任をもちます。わたしたちの責任はすべての被造物に及びます。なぜなら、被造物は神に由来するからです。神は万物を創造されたからこそ、わたしたちにいのちを与え、わたしたちの人生を導くことがおできになります。教会の信仰生活は、感覚や感情や、道徳的義務の領域の範囲内だけで行われるものではありません。それは、その起源から目的に至るまでの、人間全体にかかわります。創造が神に属するものだからこそ、わたしたちは神に徹底的に身をゆだねることができます。神は創造主だからこそ、わたしたちに永遠のいのちを与えることがおできになります。被造物に対する喜びと感謝と責任は、ともに歩むのです。
 わたしたちは創造物語のメッセージの中心をさらに正確に言い表すことができます。聖ヨハネは、その福音の初めのことばにおいて、創造物語の本質的な意味を次の一文で要約しました。「初めにことばがあった」。実際、先ほど朗読された創造物語は、規則的に繰り返される次のことばによって特徴づけられます。「神はいわれた。・・・・」。世界は、みことばによって、「ロゴス」によって造られたものです。ヨハネがギリシア語の中心的な用語を用いて述べたとおりです。「ロゴス」は「理性」、「意味」、「ことば」を意味します。「ロゴス」は単なる理性ではなく、創造者としての理性です。この理性は、語り、ご自身を伝えます。それは意味であり、意味そのものを造り出す理性です。それゆえ、創造物語は、世界が創造者としての理性が造り出したものであることをわたしたちに語ります。そこから、創造物語はわたしたちに語ります。万物の初めには、理性も自由も存在しなかったのではありません。むしろ、万物の起源は、創造者である理性であり、愛であり、自由です。ここでわたしたちは、信仰と不信仰の間で問題となる、究極的な選択を迫られます。万物の起源は、非合理と自由の欠如と偶然か。それとも、存在の起源は、理性と自由と愛か。第一のものは、非合理的なものか、合理的なものか。これこそが最終的に問題となる問いです。信仰者であるわたしたちは、創造物語と聖ヨハネとともに答えます。初めにあるのは理性です。初めにあるのは自由です。だから、人間の人格であるのはよいことです。拡大する宇宙の中で、最後に、宇宙のある小さな一角に、理性を働かすことができ、被造物の中に合理性を見いだそうと努め、また被造物のうちに合理性をもたらそうとする生物の種が形づくられたことは、偶然ではありません。もし人間が宇宙の端のあるところで進化によって偶然生まれたものにすぎないなら、人間の生命には意味がなく、それどころか、それは自然をかき乱すものです。しかし、そうではありません。初めにあったのは、理性です。創造者、神である理性です。それは理性であるがゆえに、自由をも創造しました。そして、自由は自由であるがゆえに、濫用することも可能でした。被造物に敵対するものも生まれました。そのため、宇宙の構造と人間の本性を、いわば濃い闇の筋が貫きます。しかし、このような矛盾が存在するにもかかわらず、被造物はよいものであり続けます。生きることはよいことであり続けます。なぜなら、初めにいつくしみ深い理性があったからです。神の創造的な愛が存在したからです。そのため、世は救われることができます。そのためわたしたちは、理性と自由と愛の側に、すなわち神の側につくことができ、またつかなければなりません。神はわたしたちを愛して、わたしたちのために苦しまれたからです。神の死によって、新しい、決定的な、回復されたいのちが生まれるからです。
 朗読された旧約の創造物語は、この現実の秩序をはっきりと示します。しかし、それはわたしたちをさらに先へと導きます。創造物語は創造のわざを、安息日に至る一週間の枠組の中に位置づけます。創造は安息日に完成します。イスラエルにとって、安息日は、すべてのものが神の安息にあずかることのできる日でした。安息日には、人も動物も、主人も奴隷も、大きな者も小さな者も、神の自由のうちに一つに結ばれました。それゆえ安息日は、神と人間と被造物の間で結ばれた契約を表しました。だから、神と人間の交わりは、すでに創造が完成した世界にいわば後から付け加えられたようなものではありません。神と人間の交わりである契約は、創造のわざのもっとも深いところであらかじめ計画されたものです。まことに、創造が契約の外的な前提であるように、契約は創造の内的な理由です。神が世界を造ったのは、神がご自身の愛を伝え、わたしたちが神に愛をもってこたえることのできる場を与えるためです。広大な物質的宇宙は、わたしたちに神の偉大さをかいま見させてくれます。しかし、神のみ前では、神にこたえる人間の心は、この全宇宙よりも偉大で大切なのです。
 しかし、キリスト教の過越祭と過越の経験から、わたしたちはさらなる一歩を踏み出さなければなりません。安息日は週の七日目です。人間がある意味で神の創造の働きにあずかる六日の後の安息日は、休息の日です。しかし、教会が生まれたとき、前代未聞のことが起きました。七日目の安息日に、週の初めの日が取って代わったのです。典礼集会を行う週の初めの日は、イエス・キリストを通して神と出会う日です。イエス・キリストは、週の初めの日の日曜日に、弟子たちが墓が空であることを知った後に、復活した主として彼らと会われたからです。今や週の構造が覆ります。週はもはや、神の安息にあずかるために七日目に向かうものではなくなります。週は、復活した主と出会った日である、週の初めの日から始まります。復活した主との出会いは、感謝の祭儀を祝うたびごとにつねに新たに行われます。感謝の祭儀の中で、主はあらためて弟子たちのただ中に入って来られ、彼らにご自身を与え、いわばご自分に触れさせ、彼らとともに食卓に着かれます。この変化は特別なことです。神との出会いの日である七日目の安息日は、旧約に深く根ざしたものだったからです。労働から安息日に向かう過程が自然な考え方に対応することを考えるなら、この転換が劇的なことがますます明らかになります。この革命的な転換が教会の発展の最初からすぐに見られることは、この週の初めの日に、前代未聞のことが起こったことからしか説明できません。週の初めの日は、イエスが死んでから三日目でした。この日、イエスは弟子たちにご自身が復活したことを示されました。実際、この出会いはそれ自体、驚くべきことでした。世界が変わったのです。死んだかたが、もはや死が滅ぼすことのできないいのちを生きておられるのです。新しい生き方が始まったのです。創造の新たな次元が始まったのです。創世記の記述によれば、第一の日は、創造が始まった日です。今やそれは新たなしかたで創造の日となりました。それは新しい創造の日となりました。わたしたちは週の初めの日を祝います。このことによって、わたしたちは、創造主である神と、その創造を記念します。そうです。わたしたちは天地の創造主である神を信じます。そして、人となられ、苦しみを受け、死に、葬られ、復活した神を記念します。わたしたちは創造主と創造のわざの決定的な勝利を記念します。わたしたちはこの初めの日であり、また人生の目的でもある日を記念します。この日を祝おうではありませんか。なぜなら、復活した主のおかげで、決定的なしかたでこういえるからです。理性は非合理よりも、真理はいつわりよりも、愛は死よりも強いと。この初めの日を祝おうではありませんか。なぜなら、わたしたちは知っているからです。被造物を貫く暗い筋は永遠に残るのでないことを。この日を祝おうではありませんか。なぜなら、創造物語の最後のことばが決定的なしかたで実現したからです。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それはきわめてよかった」(創世記1・31)。アーメン。

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