「カトリック情報ハンドブック2010」巻頭特集

「カトリック情報ハンドブック2010」 に掲載された巻頭特集の全文をお読みいただけます。 ※最新号はこちらから 特集1 裁判員制度と日本の教会 カトリック中央協議会出版部・編  2004年5月21日に「裁判員の参加する刑 […]


「カトリック情報ハンドブック2010」
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特集1 裁判員制度と日本の教会 カトリック中央協議会出版部・編

 2004年5月21日に「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が成立、今年(2009年)5月21日から裁判員制度が開始された。そして8月3日から6日の間には全国に先駆け東京地裁において、初の裁判員裁判が開かれた。実際に制度が開始されてからは、肯定、否定はともかく、自らの問題として国民全体の関心は非常に高くなったといえる。
 日本カトリック司教協議会は、これまで専門家を招き勉強会を開くなどして裁判員制度の理解に努め、教会法に照らしての見解を考察し、具体的対応について検討を重ねてきた。それらを踏まえ、6月の定例司教総会会期中に「『裁判員制度』について―信徒の皆様へ―」というメッセージを発表、18日には記者会見を開いた。
 本特集では、2009年8月21日に司教協議会会長である岡田武夫東京大司教に対して行ったインタビューの内容を交えつつ、現時点における裁判員制度についての司教団の見解や対応を紹介する。
 まずは上述のメッセージ全文を以下に引用する。

 上記メッセージを読むかぎり、司教団は裁判員制度を否定はしていない。この点を大司教に尋ねると、「制度自体の《是非》についての公的な判断はしていない。とりあえず進展を見守るといった状況である。まずは考えられる論点を整理した」とのことであった。しかし、この制度が内包する問題についての認識がないわけではない。「おそらく問題はあるだろうが、明確に反対であるという判断もできない。否定はできないが、問題がないともいえない」と語り、現時点では判断材料が足りないことを説明した。
司教総会においては、「信者全員に当てはまる問題・懸念と、聖職者のみに当てはまる問題という2つの視点」があることが認識され討議がなされたとのことで、メッセージもその両者について触れている。

 まずは信徒についてだが、このメッセージによって司教団は、信徒は「各自がそれぞれの良心に従って対応すべき」であり、「カトリック信者であるからという理由で特定の対応をすべきだとは考え」ないとの見解を明らかにした。
制度が実施されたことによって不安を抱き、何かしらの具体的指針を求めていた信徒にとっては、何か肩透かしを食ったような感があったかもしれない。しかし、司教団は一方的な上意下達をするのではなく、参加、不参加の判断はあくまでも個々の信徒に任せ、なおかついずれの判断をも尊重するとしているのである。
これについて大司教は「教会は社会に対する姿勢について原理、原則、方向性を述べるのであり、それをどう適用するかは個々人が判断すべきことである。たとえば、神の国の到来を告げ知らせるためにはどういった政策がよいのかという判断はするが、かといって、選挙の際にどの候補者に投票しなさいとはいわないし、そんなことをいってもいけない。教会はすべてについて指令を出し、そのとおりにさせるといった団体ではない。判断の材料は提供できるが、一人ひとりの良心を拘束することはできない」と説明した。
判断にあたって参考にすべき文書として挙げられている第二バチカン公会議の『現代世界憲章』43にはこう記されている。「信徒は霊的光と力を司祭から期待すべきであるが、司牧者が何ごとにも精通していて、どのような問題についても、しかも重大なことがらについても、即座に具体的解決を持ち合わせているとか、それが彼らの使命であるというように考えてはならない。むしろ信徒は、キリスト教的英知に照らされ、教導職の教えに深く注意を払いながら、自分の役割を引き受けるようにしなければならない」(南山大学監修訳)。
また、岡田大司教は、この制度に対したときカトリック信者として抱えざるをえない重大なことがらとして、真っ先に死刑の問題を挙げた。そういった姿勢は、上のメッセージで、あえて死刑について言及していることにも反映している。
裁判員になり死刑判決に参与せざるを得なくなった場合についての懸念は、信徒、聖職者を問わない重大な問題である。裁判員には守秘義務が課せられるため、たとえ本人が最後まで死刑判決に否を唱えていたとしても、それは生涯表明することができない。死刑反対の強い意識を持っていれば、当然良心の痛みを感じるであろう。簡単には癒やすことのできない、深い心の傷を生じさせることになるかもしれない。
こういったことも十分に考慮し、メッセージは良心的拒否も尊重するとしている。大司教は、それは良心的兵役拒否(『カトリック教会のカテキズム』2311参照)と同質であると解説した。しかし、逆に積極的に参加し、たとえ通らなかったとしても、自己の使命として反対であればそれを唱えるべきだといった考えも成り立つわけであり、どちらの姿勢を取るべきかといった判断はできないとのことであった。

 一方、一般紙でも宗教界の具体的な対応として報道されたが、聖職者に対しては、裁判員の候補となった場合には辞退を、辞退したにもかかわらず選任されれば過料を支払っての不参加を勧めている。これは、メッセージにあるとおり、教会法をその根拠としている。裁判員を務めることが教会法のいうところの「国家権力の行使への参与」に当たるのかが、専門家に助言を求めつつ司教団によって協議され、最終的にこれに該当するとの結論を得た。
聖職者の立場は信徒とは当然異なる。大司教は「同じ人が、一方では裁判で犯罪人の罪と量刑の決定に参与し、一方では神のゆるしを説くというのは分裂になる。二つの顔を使い分けることはできない」「神のゆるしを説き恵みを分配する任務を受けた司祭は、犯罪人を処罰するよりも犯罪人に神のゆるしを説く使命を優先すべき」なのだと語り、さらに「《罪》は宗教の、《犯罪》は国家の問題。多くは重なるが、すべての犯罪が罪であるというわけではない。聖職者は国家の問題に介入すべきではない。小さなことでも関与すれば、ひいては権力濫用を引き起こす恐れもある。社会の秩序を守るのは、あくまでも国家が担う使命である」と、政教分離の原則を踏まえて説明した。
大司教へのインタビューを行った翌月9月3日に開かれた常任司教委員会において、以下に掲げる聖職者の裁判員辞退に関する岡田会長名の文書が承認された。

 この文書は、上記日付(9月11日)に、岡田大司教自身によって最高裁判所事務局秘書課に提出された。
文書中の1には、ここまで紹介してきた最初のメッセージの内容と同様の理由が述べられている。2に関しては、聖職者が告白の秘密を厳守しなければならないということ自体は信徒ならばだれもが理解できることであるが、それと裁判員との関連性となると、やや分かりにくい。
教会法第984条第1項にはこうある。「聴罪司祭は、漏洩の危険が全くない場合でもゆるしの秘跡を受ける者に不利益を与えるおそれのあるときは、告白によって得た知識の使用を絶対に禁じられる」。続く第2項には「権威ある地位に置かれた者は、いかなる時に行われた告白であっても、それによって得た罪についての知識をいかなる方法であれ外的統治のために使用してはならない」と書かれている。聖職者に関しては、この条項に抵触する可能性は当然排除されなければならない。ゆえに裁判員辞退ということになるのである。
裁判員の職務においては、上記第1項で禁じられている「告白によって得た知識の使用」を求められる可能性がある。もちろん、裁判において話された内容は裁判員に課せられる守秘義務によって守られ、外部に漏れることはないのであろうが、教会法の条文では「漏洩の危険が全くない場合でも」と明確にいわれているのである。
第2項にある「権威ある地位に置かれた者」とはまさしく裁判員にも当てはまる。そして、告白によって得られた知識は「いかなる方法であれ外的統治のために使用してはならない」のである。
国の理解と柔軟な対応が望まれる。

 要望書を当局に提出した際に、聖職者の裁判員辞退の件で訪れたのにもかかわらず、信徒がとくに死刑の求刑が予想される裁判の裁判員に選任された際に受けるであろう精神的苦痛についても岡田大司教は言及した。自分は死刑に反対したにもかかわらず、結果として死刑判決が下された場合、人を死に至らしめる裁きに関与したことから生ずる心の傷は、決して軽視できるものではない。日本のカトリック教会は、市民として裁判員を引き受けた信徒を励ますとともに、信徒が裁判員選任に対して良心的拒否を選んだ場合でも、それを尊重する立場である、そのことが大司教によって当局に伝えられた。さらに大司教は、要望書とは別に、先に引用した信徒向けのメッセージも、参考として併せて提出した。
今回の当局への文書提出とその補足説明により、日本のカトリック教会は、聖職者の裁判員辞退と信徒の良心的拒否の尊重という2点において、現行の裁判員制度にある程度の疑義を表明したことになるであろう。それは、この世におけるカトリック聖職者の独自の使命を守り、また主体性をもった信徒の判断が個人の意志として尊重されるためである。
「裁判員となった裁判でたとえ死刑判決が下されたとしても、信徒は自分を過剰に追い詰めたり責めたりしてはいけない。また、その信徒に負い目を感じさせるような言動が、教会内部で絶対にあってはならない。裁判員制度そのものについて賛成・反対の意見があることは承知しているが、参加・不参加の個々人の決断について、それを尊重こそすれ、決して非難や誹謗中傷などが起きてはならない」。
要望書提出の後に岡田大司教はこう語った。このことばをもって、本稿の結びとしたい。 (奴田原智明)

特集2 キリシタン史跡をめぐる―関西編 カトリック中央協議会出版部・編

 全国のキリシタン史跡を出版部員が実際に訪れ紹介する、連続企画の4回目。「関西編」として、大阪、京都両府内の史跡を紹介する。今回は、教区から提出された教区内巡礼地一覧も参考にしつつ、その他独自に各種資料を参照して訪問先を選定した。

大阪の史跡

■『聖フランシスコ・ザヴィエル像』は神戸市立博物館のサイトで見ることができます。下記の通り順にクリックしてください。

  1. 神戸市立博物館のページ
  2. 画面上部タブで 「名品撰」⇒
  3. 画面中央 「南蛮美術」⇒
  4. 「聖フランシスコ・ザヴィエル像」

こちらに掲げた聖フランシスコ・ザビエルの肖像画、日本人ならだれもが一度は目にしたことがあるであろう、あまりにも有名な絵である。大抵の歴史教科書には掲載されている。ザビエルといえばまずこの絵を思い浮かべる、そんな人も多いことだと思う。
 しかし、現在神戸市立博物館が所蔵しているこの絵が、大阪府茨木市の千提寺という集落の民家で大正時代に発見されたということを知る人は、あまりいないのではないだろうか。かくいうわたしも、そのことを知ったのはつい先日のことである。
 著名な絵画の発見の物語、興味を抱く人は多いことだろう。そこで今回大阪では、関西を訪れるならば当然欠くことはできないキリシタン武将高山右近の事跡を訪ねるとともに、茨木の隠れキリシタンの歴史に深くかかわるこの絵発見の経緯を追ってみることにした。

ザビエル肖像画を訪ねる(7月22日)
 ザビエルの肖像画は神戸市立博物館で常時陳列されているわけではない。後で触れる「都の南蛮寺図」も含む南蛮美術のコレクションは、劣化防止のため期間を区切って陳列されるので、訪れる際には確認の必要がある。
 問い合わせてみたところ、「夏休み親子はくぶつかん」という企画展で7月18日から8月末までザビエル肖像画が展示されているとのことなので、まずは実物をと、最初に神戸を訪れた。
 初めて実物を目にした。発見時は掛軸として表装されていたとのことだが、今は博物館の中で西洋絵画のように額縁に納められている。

 発見の顛末は後述するが、この肖像画は400年近くも前に描かれたものであり、その後民家の屋根裏に長きにわたって隠されてきたものである。それにしては保存状態がよい。多少の傷はあるものの、目立った汚れもなく色は鮮やかである。
 しばらく眺めていると、いくつかの点が気になった。
 まず胸の前で右を上、左を下に重ねられた手に付けられた陰影がやや不自然である。さらに、右手に持たれた燃える心臓、そこから雲の裂けた天へと伸びていく十字架、この遠近法、作図法に無理がある。ザビエルの視線と伸びる十字架、この二つが背景である右上の天に向かっているというのは、当然ながらありえない構図である。したがって、見続けていると、背景であるはずの天がザビエルを乗り越えてこちらに迫ってくるような、奇妙な錯視にとらえられる。天使のいる天を構図上に納め、なおかつザビエルはこちらを向いており、さらにその手から十字架が天へと伸びるということになれば、当然この不自然が生じる。しかし、意図的か否かはともかくとして、この作図の誤りがある種の効果を生じさせてしまっているのは面白い。
 図像学的には、心臓や十字架を持つ姿は、ザビエル図像の基本なのだそうだ(若桑みどり『聖母像の到来』参照)。
 画像下部には欧文と日本文とが書かれていて、欧文は「S. P. FRACISCUS XAVERIVS SOCIETATISV」となっている。和文は「瑳夫羅怒青周呼山別論麿瑳可羅綿都」で「サンフランシスコサベリヨサカラメント」と読めるとのことだ(坂本満・吉村元雄『南蛮美術』による)。
 欧文の頭に「S」つまり「聖」とあり頭部には円光が描かれているので、制作は元和あるいは寛永期、つまり1622(元和8)年のザビエル列聖後の作品であると考えるのが自然だと思うのだが、それ以前、つまり慶長期の作品であると主張する研究者もいる。この論争、なかなかに興味深い。しかし多分に専門的な議論なので、その紹介には紙幅を割かずにおく。ただ、我が国にキリストの教えをもたらした偉大な師父列聖の知らせは、この時期の日本にも確かに伝わり、この一幅の絵が掲げられ、ささやかではあろうがそれが国内でも祝われた、そのことだけは間違いなかろう。
 またもう一つの特徴として、ザビエルの口からことばが流れ出ていることが挙げられる。「SATIS EST DNE SATIS EST」、「十分です、主よ、十分です」という意味のラテン語で、これについては、若桑みどり氏が結城了悟師の見解を紹介している。それによると、このことばは、ゴアの小聖堂においてザビエルが祈っていた際に「心に神への愛が燃え上がるのを覚え、その熱さのあまりに、胸を開き、『主よ、もう充分です』と言ったということ」を、それを目撃したイエズス会士が伝えたことに由来するのだという(若桑みどり・同前)。つまり、燃える心臓はまさにその具象であるわけだ。
 情熱の人、それはザビエルという人物について多くの人が抱く印象だろう。この絵には、端的にそれが表現されている。作者として推定される狩野派画家の西洋画技術の習得は十分ではなかったかもしれないが、伝わってくるものは実にストレートである。ゆえに名作なのだ。
 「都の南蛮寺図」の展示はなく見ることは叶わなかったが、狩野内膳の「南蛮屏風図」の精緻な筆も堪能し、博物館を後にした。

 カトリック高槻教会

カトリック高槻教会


 高槻教会の高山右近像

高槻教会の高山右近像

高槻市(同日)
 ザビエル肖像画発見の地を訪れる前に、もう一つの目的地である高槻に向かった。いうまでもなく、高槻はキリシタン大名高山右近が城を構えた地である。
 阪急の高槻市駅から南へわずか数分、高槻警察署と高槻現代劇場を背にしてカトリック高槻教会がある。玄関のアーチに白壁、そして後方のドームが印象的な美しい建物だ。敷地の一角には白い高山右近像が建っている。昭和40(1965)年に高山右近逝去350年祭にあたって建てられたもので、きりっと引き締まった表情が清々しい、若き日の右近の姿である。台座には「私にとって生きるのはキリストであり、死は利益である」の聖句(フィリピ1・21)が刻まれている。
 右近および父であるダリオ高山飛彈守が高槻に移ったのは元亀元(1570)年、右近18歳の頃で、和田惟政家臣の筆頭としてであった。惟政はキリシタンに深く想いを寄せ受洗も決意していたが、翌元亀2年の白井河原の合戦で戦死してしまう。惟政の死後、長子の惟長が家督を継いだが「父に似ぬ凡庸な小心者」(海老沢有道『高山右近』)であったらしい。一方「大いに卓越した個性の持主であり、その父同様に勇敢な兵士であり、弱輩にもかかわらず、その輝かしい行為、ならびに果敢な精神によって、大いに天下に勇名をとどろかせていた」(フロイス『日本史』松田毅一・川崎桃太訳。以下同書の引用はすべて同じ)というのが右近の評価である。民心から離れていく惟長と人望を集める高山父子とは当然のように不和になっていき、いわゆる「高槻城乗っ取り事件」が起きる。惟長は討たれ、かつての敵であった荒木村重と結ばれた高山氏が高槻城城主となるのである(研究家諸氏が紹介するように、この事件については日本側の史料とフロイスとでは記述が大いに異なる。右近の生涯において微妙に評価が分かれる場面ではある)。まもなく父ダリオは隠居し、右近が城主となる。天正元(1573)年、右近21歳のときである。これ以後、高槻はキリスト教布教にとって重要な拠点となり、信者は爆発的に増えていく。『日本史』には、天正9(1581)年における領内の教会数は「二十をはるかに越えるほど」であったという記述がみられる。

 高山右近天主教会堂址碑

高山右近天主教会堂址碑


 高槻城厩廊 枡形門の石垣石

高槻城厩廊 枡形門の石垣石

 教会へと至った道をそのまま南に進むと、左手角に商工会議所の建物があり、その前に「高山右近天主教会堂址」の碑が建っている。
 高槻に最初の教会が建てられたのは天正2(1574)年のことである。「三百クルザード以上を費やして」建てられた「木造の大教会」の横には、司祭や修道士のための宿舎も建てられ、居間の前には日本風の庭園も設けられた。フロイスはこれを「日本のいかなる君侯でも躊躇することなくそこに迎えることができるほど」とたたえている(『日本史』)。
 商工会議所に沿って道を左に曲がると、植え込みの中に「高槻城厩廓 枡形門の石垣石」が置かれていて解説板が立っている。昭和60(1985)年の発掘調査で出土したものだそうだ。
 さらに進むと、右手に高槻市立しろあと歴史館がある。高槻城と城下の人々の暮らしを紹介する小さな資料館だが、無料で入館できるのでぜひ訪れたほうがよい。
 平成10(1998)年に天主教会堂址付近の発掘調査が行われ、26基の土坑が検出され(隣接地でも1基検出されたので計27基)、人骨が納まった木棺が出土、そのうちの1基の木棺蓋に十字架の墨書が確認されたことにより、「高山右近に直接関わるとみられるキリシタン遺構をはじめて確認するという貴重な成果をおさめた」(高槻市教育委員会社会教育部文化財課『高槻城キリシタン墓地―高槻城三ノ丸跡北郭築発掘調査報告書―』)。
 しろあと歴史館には、この発掘の際に同時に出土した木製のロザリオが展示されている。簡素なものだが、何よりも出所が明確なので貴重な遺物だ。
 歴史館の後方は中学校で、その先が公園として整備されている高槻城址である。碑などが建っているだけで、往時を偲ぶことのできるものは何も残っていない。明治7(1874)年、鉄道建設に必要な石材調達のために城は破却された。

 高槻城址の高山右近像

高槻城址の高山右近像

 公園の一角には高山右近の像が建っている。2008年の特集で紹介した富山県高岡市の高岡城址に建つ像と同型の、勇猛な右近の姿である。
 戦国の世にあって、武士として生きることとキリシタンとして信仰生活をおくることとの矛盾葛藤に悩んだ大名は、何も右近一人ではない。小西行長然り、大友宗麟然りである。しかし、そんな中にあって高山右近が特別な存在として思われるのは、その実直かつ毅然とした生き方に多くの人が強く心惹かれるがゆえであろう。
 天正6(1578)年に国主である荒木村重が織田信長に対し反旗を翻した際の右近の苦悩は、武士道と信仰、その二律背反に引き裂かれる大いなる試練であったはずだ。老獪な信長は右近のもっとも痛いところを突くべくパーデレを利用して開城を迫った。しかし右近は、村重に妹と子を人質にとられていた。信長に対して城を明け渡し領民の平和を守ることは右近の信仰が命じるところであったろうが、それでは人質を見殺しにすることになり武士としての面目が立たなくなる。
 苦悩の末彼が編み出した解決、それは己が武士であることを捨て、教会に奉仕する者として生きるという選択であった。その決意を持ち、城と教会の保証を請うため、右近は信長のもとに向かったのである(しかし信長は右近に対して自分に仕えるよう命じ、右近は高槻城主としてとどまることになる)。
 高槻城址の右近像はやや高い位置に建っているので、下から見上げるような格好になる。黒い雲が増え怪しくなってきた空の下、その前方をじっとみつめる鋭いまなざしに、決して単純ではない何かを感じた。

 千提寺口バス停辺りの風景

千提寺口バス停辺りの風景

茨木市(7月23日)
 朝から強い日差しの照りつける好天となった。
 JR茨木駅前で1時間に1本の忍頂寺行きバスに乗車。30分ほどで窓外が山中の風景に変わる。
 駅から40分ほど、終点少し手前の千提寺口で下車。山の斜面に田と畑の広がるのどかな景色である。茨木の街中では蝉の声がこれでもかとばかりに喧しかったが、ここでは鶯はじめ鳥の声がよく聞こえてくる。道を挟んでバス停の向かいに「キリシタン遺跡」の案内が立っていて略地図が載っている。
 これから向かうのは茨木市立キリシタン遺物史料館である。来た道を少し戻り、左側の坂道を上がっていく。距離にして約500mだが、案内表示が割に細かく立っているので、さして迷う心配はない。曲がりくねった緩やかな勾配を上り、天狗でも現れてきそうな薄暗く鬱蒼とした杉木立の道を抜けていく。バス停から15分ほどで史料館前の短い坂道の下に出る。
 ここに史料館の案内が立っているが、その横には小さな標石があり「北摂キリシタン遺物発見最初の家」と刻まれている。史料館の向かいがその家、つまり東(ひがし)家である。

 茨木市立キリシタン遺物資料館

茨木市立キリシタン遺物資料館

 9時半の開館よりやや早く到着したので建物の外観写真を撮影したりしていると、この向かいの家から女性が出てきて声をかけてくれた。東満理亜さん、史料館の管理をなさっている東家のご夫人である。
 館内に案内され、まずは20分ほどのビデオを見せていただいた。貴重な内容のビデオである。まず、この千提寺地区のキリシタン遺物発見者である藤波大超氏のインタビューがあり、その経緯が晩年の本人によって語られている。さらに満理亜さんの義父である東藤嗣氏の証言や、その母ユタさんが語る、最後の隠れキリシタンであったイマさん(ユタさんの祖母)の思い出など、実に興味深かった。
 藤波大超氏が当時の東家戸主であった藤次郎氏(イマさんの息子)を説得し、最初にキリシタン墓碑を発見したのが大正8(1919)年のことである。翌9年には東家の母屋の屋根裏に吊り下げてあった「あけずの櫃」から、ザビエル像をはじめ、マリア十五玄義図、天使の銅版画、マリア像、キリスト磔刑像、メダイ、苦行用の鞭などが発見された。その頃はイマさんも存命で、藤波氏にあけずの櫃の中身を見せようとした息子に「見せてくれるな、見せたらお縄にかかるから」といったのだそうだ。また、当時まだ子どもであったユタさんは、このとき初めてあけずの櫃のことを知った。あけずの櫃は世継ぎだけに伝えられ、他の子どもたちにはその存在すら知らされなかったのだという。
 またユタさんは、イマさんの踏絵の記憶についても語っている。明治初頭のことで、イマさんは踏むのが「もったいない」ので、絵の手前でわざと転び許してもらったことがあるのだそうだ。
 東家での発見を契機に、昭和5(1930)年までの間に、同じく千提寺の中谷3家、および2㎞程離れた下音羽地区の家からも、さまざまな遺物や墓碑が見つかり、イマさんのほか、中谷イトさん、中谷ミワさんといった80歳を超える老女たちが、オラショを伝えていることも分かった。大正15(1926)年4月には教皇使節一行が中谷家を訪れている。これは写真が残っていて、立派な髭を生やした使節一行の前で、ややうつむき加減にかしこまって座っているイトさんが写っている。
 このとき、老女たちはさまざまな証言をした。たとえば、日曜日に「茶日」などと称して集まりを持っていたことや、教会の暦がなかったため、つばめが飛来したときから断食を始めたりしていたことなどである。しかし取り締まりが徐々に厳しくなってきたため、集まりは途絶え、家族の間ですら信仰の話をすることがなくなってしまった。だから藤次郎氏に信仰が伝えられることはなかった。しかし、藤次郎氏の孫である藤嗣氏は、ごく幼い時期にイマさんがアヴェマリアのオラショを子守唄として歌ってくれたことを覚えていたのだそうだ。
 教皇大使がこの山中の集落を訪れたということからも分かるように、禁教が解かれて半世紀も経ってからのこの発見は、各方面に大きな衝撃を与えるものであった。新村出は京都帝国大学よりいち早く現地を訪れ「摂津高槻在東氏所蔵の吉利支丹遺物」という報告書を作成している(『京都帝国大学文学部考古学研究報告 第7冊』1923年)。
 ビデオを見たあとに、事務室で満理亜さんから話をうかがった。
 史料館ができたのは昭和62(1987)年のことで、今日に至るまで、通算18万2千人、年平均6千から8千の人が訪れている。史料館ができる前には遺物を見たいと希望する人を東家で迎えていたが、それでも年3千は訪問者があったという。また外国人の来館者も多いそうだ。逆に茨木の人が、あの有名なザビエルの絵がここから出たということを知らなかったりすると満理亜さんは笑っておられた。ここ最近は、なぜか新聞等の取材が続くとのことだが、列福式の影響でキリシタン史への関心が高まったゆえかもしれない。
 また満理亜さんは、「最近気づいたのですが」と前置きして、1987年設立というのは秀吉による禁教令発令(1587年)からちょうど400年ということになると語った。この偶然は面白い。
 史料館オープンの際には、神戸市立博物館からザビエル像が里帰りした。
 ザビエル像は、神戸市立博物館の前身である南蛮美術館を昭和15(1940)年に設立した池長孟(はじめ)氏によって、昭和10(1935)年に買い求められた。ちなみに池長孟氏は、池長潤大阪大司教のご尊父である。満理亜さんの話では、藤次郎氏には、自分は信仰を持っていないが、先祖がそれこそ命をかけて伝えてきたものゆえ守り続けなければならないという強い気持ちがあり、売却を持ちかけられても首を縦には振らなかった。しかし熱心な池長氏は、なんと1か月間毎日東家を訪問し口説いたのだそうだ。そこで何とか池長氏をあきらめさせるため、藤次郎氏は、当時としては破格といってよい3万円という売値を提示した。教員の初任給が50円程度だった頃の話である。ところが池長氏は垂水にあった別荘を売り払いその金をこしらえてきた。藤次郎氏はまさか前言を撤回するわけにもいかず、やむなく手放すことになったのである。
 当時の3万円、現在の貨幣価値に沿って換算すれば億に達する額なのかもしれないが、昨今の美術品売買の値段を考えれば、池長氏は安い買い物をしたといえるのかもしれない。山中の農家である東家にとって3万円はそれこそ想像を超えた大金だったろう。しかし、神戸に残る豪壮な旧池長邸を見れば容易に推察できるように、池長氏にとっては工面不可能な額ではなかったというわけだ(現在の旧池長邸の所有者である春日野会病院のwebサイト(http://www.kasuganokai.com/freepage_14_1.html)には、昭和2年築のこの邸の建築費は16万円であったとある)。
 それはさておき、この絵の価値を正確に見抜いた池長氏が偉大な収集家であったことは間違いない。彼は私財を投じて美術館を設立し、その南蛮美術の貴重なコレクションを一般に公開したのである。さらに戦後には、財産税支払いのためにコレクションが売却され散逸することを危惧し、神戸市にすべてを寄贈した。
 事務室での話を終え、再度陳列室に移動して説明をうかがった。
 まず、遺物が隠されていた「あけずの櫃」だが、幅10.5cm×長さ82cmの木製で、全体が煤に覆われている。東家にはもともとこのような櫃が3つあったのだが、明治30年頃に火災にあい、2つは灰とともに捨てられてしまったのだそうである。もし3つともに揃っていたとしたら、他の2つからは、果たしてどのようなものが出てきたのであろうか。そう考えれば大変残念な気がしてくる。しかし逆にいえば、そのときあのザビエル像が失われてしまった可能性もまたあるのだ。
 マリア十五玄義図は、やや痛みが激しい。とくに印象的なのは、画面の中心、幼子イエスを抱く聖母マリアの顔が完全に剥落して確認できないということだ。なお、同様の十五玄義図が下音羽の原田家でも発見されており、それは現在京都大学が所蔵している。通常非公開の品だが、企画展などで同大学の博物館にて一般公開されることもある。
 牛に乗った菅原道真像は、牛の腹にメダイが隠されていたものである。黒光りした木彫りの小さな彫刻だが、細い足先のしなった様が優雅で、それ自体が実に美しい。
 また、祈祷文などを記した書物である「切支丹抄物」というものの複製がある。原本は東京大学の所蔵となっているのだが、これが現在紛失し、所在が分からなくなっているらしい。
 最後にこれから訪れる史跡の道順を教えていただき、この取材の申請時に便宜を図ってくれた茨木市立文化財資料館の黒須靖之さんがいらしていたのであいさつをして、史料館を辞した。次には団体の予約が入っていると満理亜さんがおっしゃっていたが、坂道の下でその一団と出会った。
 喉もとまで出かかっていたのだが、最後まで満理亜さんに対してできなかった質問がある。「なぜマリアという名前なのか」。最後の隠れキリシタンであったイマさんたち以降、東家にも他の千提寺の家にも信徒はいない。今この集落には一人も信者はいない。満理亜さんは大阪の出身でこの千提寺に嫁いで来られたのだが、旧姓は中谷で祖父の代まではミワさんの家の隣だったとのこと。最近の研究で、その家もキリシタンであったことが分かったのだそうだ。満理亜さんは、信仰を持っているわけではないが、キリスト教や聖書に心惹かれるものを感じるとおっしゃっていた。満理亜さんのご両親はどのような想いをもって娘にマリアと名づけられたのだろうか。とても興味があったのだが、さすがにそこまで立ち入った質問をするのは失礼だろう。山中の史料館を「マリアさん」が管理している、それはなんとなくいい、そう思うだけにしておいた。

愛と光の家

愛と光の家


 クルス山のキリシタン墓碑

クルス山のキリシタン墓碑


千提寺天主堂跡

千提寺天主堂跡

 史料館の前の道を左に進み坂道を下っていくと、ほどなく「愛と光の家」がある。黙想の家なのだが、周辺のキリシタン史跡を訪ねてきた人が立ち寄ることも多いようで、ここにはキリシタンの遺物はありません、との貼り紙がしてある。
 玄関前には高山右近の像が建っている。めずらしい鉄製の像だ。右手には十字架を持ち、左手には聖書を抱えている。表情から察するに壮年以降の右近の姿であろう。全体的に力強さが強調されてはいるが、高槻城址の像ほど険しい顔つきではない。
 「愛と光の家」の前は三叉路になっている。左に道をとりクルス山に向かう。キリシタン墓碑が発見された場所である。天満宮の石段の向かいにクルス山と書かれた小さな矢印が立っていて行く手のあぜ道を指し示している。
 山というよりも丘といったほうが適当な高さのこんもりとした林で、盛夏ゆえ雑草も丈高く茂っているが、草刈りされた後だったので、それが道順と判断し前に進んだ。しかし、途中でどの方向へと行けばよいのか、よく分からなくなってしまった。行きつ戻りつ小枝で蜘蛛の巣をかき分けつつ進んで、やっと墓碑を見つけることができた。
 説明の板が付されていて、そこには「光背状」とある。高さは63.5cm、上部に「干」という字のような二支十字が彫られており、花崗岩のため磨耗が激しくそのままでは読み取りにくいが「上野」「マリア」という名が刻まれている。日付は慶長8年正月10日である。小屋のような屋根が設けられていて、雑木に囲まれひっそりと守られているといった感じである。訪れる人も少なくないであろうからもう少し整備されていてもいいような気もしたが、こんなふうにあるのが逆によいのかもしれない。この墓碑を東藤次郎氏が藤波大超氏に見せたことから、千提寺におけるキリシタン遺物の発見は始まったのである。
 来た道を「愛と光の家」まで戻り、左へ坂道を下っていく。左手には棚田が青々とした穂をわずかな風にそよがせている。空にはつばめが飛んでいる。坂道を下り切り自動車道(県道1号)とぶつかるあたりに白いマリア像が建っている。千提寺天主堂跡である。
 昭和3(1928)年、ここに大阪教区によって教会が建てられた。多くのキリシタン遺物が発見されたことを重視してのことである。パリ外国宣教会のヨゼフ・ビロース師が第二次世界大戦までの間司牧にあたったが、残念ながら大きな成果は上げられずに教会は廃止された。
 満理亜さんによると、大正の終わりにこの地に教会が建つことを知ったイマさんは「助かった。自分の伝えることはその教会が伝えてくれる。安心した」としみじみ語ったのだという。禁教はとうに解かれ自由はすでに与えられていた。しかし、ここで初めてイマさんに真の解放が訪れたのである。まさに万感の思いだったであろう。この山間の地で迫害を逃れ、隠れながら先祖からの信仰を絶やすことなく守り続けたイマさん、歴史の波に揉まれ苦しみを受けた人が背負った時間、その重みが強く胸を打つ。
 またビロース師は、藤次郎氏に洗礼を受けるよう熱心に働きかけたのだそうだ。しかし、藤次郎氏は「ちょっと待ってくれ」とその誘いを断り、結局受洗することなく昭和17(1942)年に亡くなった。挙国一致の旗印の下、国粋主義一色に日本全体が染まっていく中で、外国の宗教を受け入れることは藤次郎氏にとって難しい選択であった、それは確かだろう。しかし、はっきりとはいえないが、それだけではない何か、あえていえば先祖が背負ってきたものに対する畏怖のようなもの、そんな混沌とした気持ちが藤次郎氏の中にはあり、最終的な決断には至れなかったのかもしれない、わたしにはそんなふうに思えた。
 このまま自動車道を北に向かって進めば、次の目的地に向けて忍頂寺方面へと出ることができるが、キリシタン自然歩道というハイキングロードが整備されているので、そちらを進むことにした。そのため、来た道を再び「愛と光の家」の先の天満宮まで戻った。今度は上り坂になるので暑さがこたえる。
 天満宮石段下の右側から北へと伸びている道がキリシタン自然歩道である。少し進むと雑木と竹林が日をさえぎるやや薄暗い中を行くようになる。時刻は正午過ぎ、暑さもピークの時間帯である。遠回りになったとしても、日ざしを避けようのない自動車道ではなくこちらの道を選んで正解だった。
 別に何があるというわけではないが、鳥の声だけが響く静かな遊歩道を歩くこと30分ぐらいだろうか、忍頂寺下の三叉路になった自動車道に出る。さらに下音羽方面に向かって県道43号を進むが、すぐに左にそれ、県道に沿った次のキリシタン自然歩道を行く。しばらく行くと右手正面に下音羽の集落が見えてくるので、小さな川を渡ったあと県道に出て右手に進む。交番と郵便局とがあって、その間に少々急な石段が見える。この上が高雲寺である。

 高雲寺のキリシタン墓碑

高雲寺のキリシタン墓碑

 本堂右手に、大小2基の蒲鉾型のキリシタン墓碑が保存されている。説明の板の記述によれば、大きいほうは「手水鉢の台石」に、小さいほうは「くつ脱ぎ石」に使われていたものが、後年キリシタン墓碑であると確認されたのだそうだ。日付は慶長15年10月11日と慶長18年5月24日である。史料館で見たVTRの中では、千提寺の中で東家、中谷3家だけがこの高雲寺を菩提寺としていることが紹介されていた。隠れキリシタンが迫害の手を逃れるために利用した寺、そんな推測も成り立つ。
 県道に戻り、先ほど出てきた自然歩道の出口を過ぎてしばらく行くと、左手の田の中を続く道の先に、見山の郷という野菜を販売したり軽食を提供する施設がある。この前を過ぎてすぐに左折、坂道を上ると右手に素盞嗚尊神社の石段があり、その横の道を入った正面が大神家である。この大神家では、大正12(1923)年に厨子に入った象牙彫りのキリスト磔刑像が、5枚の銅版画とともに発見された。発見の顛末を記す解説板が、花を付けたアジサイに半ば隠されるようにして立っていた。
 この磔刑像、実物を見ることはできなかったが、写真で見るかぎり、精巧かつ写実的で、美術品としてもかなり優れたものであるようだ。十字架は半円形の台に立てられていて、その台の中央には頭蓋骨が据えられておりゴルゴタを表現している。できれば実物が一般に公開されてほしいと思う。
 これで茨木での目的地は一通り見て回った。素盞嗚尊神社の石段に腰掛けて休んでいると、突然目の前を色鮮やかな玉虫が飛んだ。あっ、と思い追いかけたが、一瞬目を離した隙にどこかへ消えてしまった。しばらくあたりを探してみたのだが見つからなかった。日を浴びて七色に輝く、そのまばゆい美しさだけが残像として残った。

京都の史跡

京都市内(7月24~25日)
 今回の旅、後半は京都市内を巡った。京都は、2008年11月に列福された188人のうち、都の大殉教として52人が殉教を遂げた地である。茨木での取材を終えたその日の夕刻に京都に入り、翌日朝から各史跡を訪ねた。
 キリシタン遺物の資料館であるフランシスコの家のホルスティンク・ルカ神父と9時40分頃という約束をしていたので、まずはその方面に向かう。
 京都は日本最大の観光都市、旅のガイドブックは無数に出されている。また詳細な市街地図がホテルのロビーで簡単に手に入るだろう。それらを上手に活用すれば、細い通りにまで名がつけられ整然とした京都の街で、一つ一つの史跡を巡ることはさして難しくはない。もっとも、これから紹介するキリシタンゆかりの場所が、どれも有名で種々のガイドブックで紹介されているというわけではない。しかし、既成の地図にそれら目的地をあらかじめ自分で書き込んでおけば十分事足りる。

 それと、杉野栄さんという牧師が『京のキリシタン史跡を巡る――風は都から』という本を2007年に出版されており、これが史跡訪問のガイドブックとして大変役に立つ。わたしも今回、大いに活用させていただいた。この書籍を利用することもお勧めしたい(三学出版、本体1200円)。
 フランシスコの家は堀川通を北に向かい、四条通に交わる手前で西に一本入ったところにある。約束の時間まで多少間があったので、先に南蛮寺跡を訪れることにした。
 南蛮寺跡は、堀川通をさらに北に進み、蛸薬師通を東に入った先、烏丸通にぶつかる手前である。ビルの荷物搬出入口の手前に「此付近 南蛮寺跡」と刻された小さな標石と説明の板が立っている。

南蛮寺跡

南蛮寺跡

 フランシスコ・ザビエルは鹿児島に上陸したが、彼の内に目的地としてあったのは、当然京の都であった。苦労の末、彼が入洛したのは天文20(1551)年2月のことであったが、当時の京はその期待を裏切るありさまであった。応仁の乱以降続いた戦乱の結果、都は荒廃しきっていたのである。在洛わずか11日でザビエルは京の都を後にし、山口へ向かうことになる。
 1560年代に入ってから、京での布教は本格化してくる。1561年にガスパル・ヴィレラが「下京に一軒の家屋と地所を購入し」「小聖堂のようなものが設けられ、ミサ聖祭が行われていた」と『日本史』にはある。
 1570年代になると、ようやく都の平安が保たれるようになってくる。しかしその頃には上記の建物は「はなはだ古くなり、汚れ腐食していた」(『日本史』)ので、新聖堂建設が強く望まれるようになった。
 しかし布教は思うように成果を収めてはおらず、都の信徒はさして増えてはいなかった。したがって経済的な援助を他に仰ぐ必要があったのであるが、そこで尽力したのが高山親子である。高山飛彈守は高槻から上洛し、「柱とか、その他、特別の良材(を使用せねばならない)多くの部分に要する材木の調達を引き受けた」(同)。この頃、信長による安土城築城の計画が進んでおり、木材の価格は高騰していた。それゆえ、これは都の宣教師にとって願ってもない支援であったろう。天正3(1575)年に建築工事は開始され、翌年の8月15日聖母の被昇天の祭日には「教会はまだ完成してはいなかったが、……オルガンティーノ師が、そこで初ミサを捧げた」(同)のである。聖堂は被昇天の聖母にささげられた。
 しかしこの聖堂、その後の秀吉の迫害により、わずか11年ほどで破壊されてしまうことになる。
 現在このあたりを見回したところで、往時を偲ぶよすがは当然何も見あたらないのであるが、想像の助けとなる物品が2点、今に伝えられている。

■『都の南蛮寺図』は神戸市立博物館のサイトで見ることができます。下記の通り順にクリックしてください。

  1. 神戸市立博物館のページ
  2. 画面上部タブで 「名品撰」⇒
  3. 画面中央 「南蛮美術」⇒
  4. 「都の南蛮寺図」

 1つは神戸市立博物館が所蔵する前章にて紹介した池長コレクションの中の1点、狩野宗秀(元秀)の筆による『都の南蛮寺図』である。三層の天守閣風の建物と、庭にたたずむ数名のパーデレが描かれている。教会前の店では南蛮風の帽子も売られている。都に初めて建てられた聖堂がいかに壮麗なものであったかを、また、それは西洋風ではなく純和風の建物であったことも、この絵が教えてくれる。
 もう1点は、右京区花園妙心寺町にある妙心寺の塔頭春光院が伝える鐘である。これについては後述する。

二十六聖人発祥の地の銘板(京都四条病院)

二十六聖人発祥の地の銘板(京都四条病院)


妙満寺跡

妙満寺跡


 フランシスコの家

フランシスコの家

 フランシスコの家付近の史跡をここで紹介しておくと、堀川通を挟んだ向かい、京都四条病院の急患入り口の壁には、駐日スペイン大使館と京都教区によって「二十六聖人発祥の地」と刻まれた銘板が掲げられている。またフランシスコの家と同じ通りのやや南には「妙満寺跡 二十六聖人発祥之地」との標石が立っている。
 日本26聖人の一人であるフランシスコ会の宣教師ペトロ・バプティスタは、まだキリスト教に対して好意的であった頃の秀吉からこの地を与えられ、聖堂とハンセン病患者のための病院を建てた。
 その後、有名なサン・フェリペ号事件が起こり秀吉の態度は一変する。宣教師およびその追随者を捕らえて処刑するようにとの命が下され、1596年12月31日、この地の家は捕吏に取り囲まれ、フランシスコ会士たちは投獄されてしまう。そして、ここ京都から、長崎西坂へと至る殉教者の旅は始まるのだ。
 つまりフランシスコの家は、26聖人ゆかりの地であり、また日本におけるフランシスコ会の宣開始地でもある土地に建っているのである。
 資料館の中は広いスペースではないが、さまざまな遺物と手作りのキリシタン関連年表などが整然と陳列されている。
 まずは、奥の修道院に通していただき、ルカ師から話をうかがった。
 実はここを訪れる以前、わたしの中には、フランシスコ会がこのような施設を開いているということに対する、何かしら違和感のようなものがあった。確かに、秀吉の怒りが当初はフランシスコ会宣教師に向けられたものであったゆえ、26聖人はフランシスコ会士(6名)およびその教会の関係信徒が中心である。したがって、そのゆかりの地に同会が資料館を設けるのはもっともなことなのである。しかし、このように書いて誤解されると困るのだが、フランシスコ会は、もっと社会に対する実践的な修道会であるというような漠としたイメージを持っていたため、資料館の運営などということと同会とが結びつかないでいたのだ。
 だが、ルカ師が語ることばは、わたしの内の違和感を氷解させてくれた。ゆかりの地なので私設資料館を開いてみました、そんな単純なことではないのである。
 今年(2009年)でちょうど来日50年を迎えるというルカ師だが、実に多忙な日々を過ごされている。
 20数年前、この地の旧家を購入しフランシスコの家を開いた際には、資料館開設などという発想はなかった。祈りの家として巡礼者を受け入れ、また、日本で働くフィリピン人女性を支援するなどの社会活動を行っていた。
 姫路の淳心会から種々の遺物の寄贈を受けたことから、資料館開設の動きが始まり、ガレージであった場所を改造、それらを陳列していた。
 1993年にはフランシスコ会の来日が、1997年には26聖人の殉教がそれぞれ400年を迎えたことなどの影響で、この地を訪れる人が増え、恒常的な資料館として整備する必要が生じたのだが、その実現には地元の人たちの情熱が大いに寄与した。現在フランシスコの家には、ルカ師一人しか在住する会員がいない。そのうえルカ師は、京都における司牧のほかに、大阪での福祉施設の仕事やホームレスの人々への援助などにも多くの時間を割いている。困難のうちにある隣人に手を差し伸べることこそ、フランシスコ会士として何よりも優先しなければならない。さらに、この家の2階にプロテスタントのアメリカ人留学生を受け入れるなどのエキュメニカルな活動も行い、諸宗教と連携した平和運動への協力、参加もある。したがって資料館の運営は、ボランティアの協力なしには成立しない。
 つまり、地元の人々の熱意が支えるキリシタン資料館としての側面と、アシジのフランシスコの霊性に従い社会とつながっていく側面とがあってのフランシスコの家なのである。
 この資料館には公立学校の生徒が教師に引率されてよく訪れるのだそうだ。人権教育の一環でのことらしい。それを聞けば、資料館の運営自体も社会とのつながりという面において重要な役割を担っている、それもいえるのではないだろうか。
 和室の聖堂にも案内していただいた。間の襖を取り払い、2部屋をつなげているのでそれなりの広さがある。さらにもう1部屋をつなげ、100名ほどを収容しての講演会を開くこともあるそうだ。床の間には「愛」という字を崩して墨書された磔刑キリスト像の掛軸が掛かっている。

フランシスコの家中庭(左下がくぼみのある庭石)

フランシスコの家中庭(左下がくぼみのある庭石)

 資料館のほうへと戻る際に、中庭を見せていただいた。マリア像が置かれ、キリシタン燈籠(織部燈籠)が据えられているが、その脇に、中央にくぼみのある庭石がある。くぼみには水が溜まっている。ルカ師はこの石を見たときに、これは、ペトロ(岩)バプティスタ(洗礼)を表していると思い、もう一軒候補があったのだが、この家の購入を決めたのだという。
 資料館では、河原町教会の信徒である写真家の嶋崎賢児さんから、貴重な話を色々とうかがった。
 嶋崎さんは、ペトロ岐部と187殉教者列福調査の際に、京都の大殉教の「殉教者の誉れ」に関する証言をした証人の1人である。また鴨川端の「元和キリシタン殉教の地」碑建立時には教会関係者代表として立ち会っている。さらに、前述した『京のキリシタン史跡を巡る』収録写真の撮影者でもある。
 殉教地碑は8年をかけて京都市と交渉を続けた結果、1994年に建立された。地元住民からの反対があり、困難も多かったのだそうだ。この頃は、列福などはるか先のことと嶋崎さんも他の関係者も考えていた。なので、2008年の列福式には特別の感慨があったという。
 種々の条件が考慮され、建立の際にセレモニーが行われるようなことはなかった。夕刻に当時の教区長である田中健一司教が一人で訪れ祝別したのだそうだ。この碑の前では宗教行事を行わない旨、京都市との間で約束が取り交わされている。
 また碑の下には、52名の名前を記した薔薇の花の付いたリボン、テクラ橋本殉教図(中山正美・画)の絵葉書、結城了悟師の著作『京都の大殉教』、『日本誌』の著者であるエンゲルベルト・ケンペルの地図、碑の建立のために寄付をした人たちの名簿、これらが壺に納められ埋められている。このことを知る人は少ないのでぜひとも紹介してほしい、そう嶋崎さんはいわれた。
 事務所での話を終えてから、展示品の1点1点を嶋崎さんが丁寧に説明してくれたのだが、最後にいわゆる「キリシタン魔鏡」を見せていただいた。光を当て反射させると十字架が映し出されるという不思議な鏡である。見た目は、鏡面裏側に鶴亀の図が施された平凡な鏡だが、部屋の明かりを落とし、嶋崎さんがライトを当てると、前方の白いスクリーンに鮮やかに十字架が浮かび上がった。ぼんやりとではなく、かなりくっきりと見える。実物を見るのは初めてだったので、これも貴重な体験であった。
 フランシスコの家を後にし、次は河原町教会に向かった。小聖堂にある都の聖母像を見るためである。しかし、教会では葬儀が行われていて、受付にはだれもいない。センター内の事務所にも行ってみたが、施錠されている。外から教会の番号に電話を掛けてみてもだれも出ない。
 しかたがないので、後でもう一度訪れることにして、バスに乗り京都大学に向かった。
 敷地内にある京都大学総合博物館には11基のキリシタン墓碑が展示されている。蒲鉾型のものが5基、板碑型のものが6基である。どれも保存状態がよく、十字架はもちろんのこと、年号や名前の文字もくっきりと見て取れる。茨木で見たような野外で保存されているものでは、これほど鮮明に文字を読み取ることはできないので、一見の価値はある。
 博物館の外で再度河原町教会に電話を入れた。すると今度はつながったので、教会に向かう。受付で用件を伝え、大聖堂横のヴィリオン・ホールにある小聖堂へと案内してもらった。
 祭壇の後ろに、黒く光るブロンズの小さな聖母子像がある。膝の上に幼子を抱いた聖母の柔和な表情が美しい。

 都の聖母像

都の聖母像

 この像には次のような由来がある(この記録については、ヴィリオン神父の伝記作者ごと細部に異同がある。以下については、ヴィリオン・ホール入り口に掲げられた解説を参照させていただいた)。
 フランス東部ジュラ県ディーニャ村サン・クロード司教区所属のレオン・ロバンという神父が日本の殉教者の記録を読み感銘を受け、日本人の改宗のための祈祷会を起こした。1864(元治元)年、ロバン師はザビエルが来日時に携えていたと伝えられる聖母画像をモデルに6体のブロンズ聖母像をローマで鋳造させ、ピオ九世教皇から祝別を受けた。1866(慶応2)年、そのうちの1体が横浜のジラール師のもとに届き、それには「京都に一日も早く宣教師が入れる日の来るように、市街を見おろす丘の一つに埋めて下さい」という手紙が添えられていた。その後、1873(明治6)年にヴィグルー師によって、像は将軍塚に埋められた。1879(明治12)年9月28日、フランス語教授の名目で京都に赴任したヴィリオン師は、話に聞いていた将軍塚に登って聖母像を掘り出し、高倉二条の借家に設けた仮聖堂に安置した。
 禁教の末期、1868(明治元)年に来日し、浦上キリシタン流罪の悲劇を目の当たりにしたヴィリオン師は、『切支丹鮮血遺書』の著者としても知られ、殉教者の顕彰に尽力した。京都においては、1890年に献堂された旧・河原町教会建設の基礎を築いた。その聖堂に聖母像は安置されることになるのである。なお、現在の都の聖母小聖堂は2004年に完成している。
 華美ではない落ち着いた小聖堂の中にあって、都の聖母像は柔らかな輝きを放っている。聖母のすらりとした指先が、膝から転げ落ちることのないよう我が子をしっかりと抱える様子に、日本の教会の発展のために力を尽くしたヴィリオン師の生涯と、150年以上も前のフランスの地で日本のためにささげられた多くの人々の祈りとを思った。

 元和キリシタン殉教の地碑

元和キリシタン殉教の地碑

 次に殉教地碑へと向かう。碑は、京阪七条駅を降り鴨川沿いの川端通を北へ、正面通と交差する先の歩道脇にひっそりと建っている。車で走っていればまず見過ごしてしまうであろう小さな碑である。先に紹介した嶋崎さんの話によれば、ドライバーの目に入ると危険なので、街路樹より低いものをという要望が京都市からあったのだそうだ。
 京都の大殉教については列福式前後に関連書籍が多く出ているので、ここで詳細に書くことはしないが、52人が十字架に付けられ、この鴨川べりで火焙りとなった。元和5(1619)年10月6日のことである。その中には、2歳、3歳、4歳などのごく幼い子どもが何人も含まれている。さらに、殉教者の一人テクラ橋本は身重であった。
 河原に下り、遊歩道に立ってしばらく川面を眺めた。水量は豊かだが流れは緩やかだ。のぞき込むと小魚が泳いでいるのが見える。何種類もの水鳥が盛んに餌をついばんでいる。静かな景色だ。ここで年端もいかない子どもを何人も巻き込んだ惨劇を想像するのは難しい。それほどにおだやかな時間が今は流れている。だからこそ、ここにこの碑が建っている、そのことに大きな意味があるのだろう。
 烏丸通まで出て地下鉄に乗り、西陣方面に向かった。今出川駅で下車、落ち着いた外観の西陣教会を眺めた後、堀川通に出て、一条戻橋を訪れた。この付近で26聖人の中の24名が耳をそがれ、その後京都市内を引き回されたのである(この時点では捕らえられたのは24人で、長崎へと向かう道中で2人が加わり26人となる)。フロイスによると、秀吉の命は両耳と鼻を切れというものであったが、下京の奉行であった石田三成は「ただ左耳の一部を切るに止めるように指示した」(『日本二十六聖人殉教記』結城了悟訳)。フロイスはさらに、ヴィクトル野田源助がその切りとられた耳を拾い、形見としてオルガンティーノ師のもとへと持っていったことを記録している(同前参照)。
 ここから堀川通を北に進み、元誓願寺通を東に入ると、中央図書という会社の敷地内に「此付近慶長天主堂跡」と刻まれた標石が立っていて、金網越しに見ることができる。解説板には、慶長9(1604)年頃、この付近に天主堂があったとある。前述のとおり、秀吉の迫害により南蛮寺は破壊されたが、その後徳川の世になり、イエズス会によってこの地に聖堂が再建されたのである。ここでは多くの受洗者が生まれ、教会は再び活気を呈したのであるが、慶長17(1612)年、徳川幕府は禁教令を発し再度迫害が始まる。そしてこの聖堂も焼き払われてしまうのである。南蛮寺同様、短い期間のものであった。宣教師と信徒たちは、まさに治世者に翻弄された。都のキリシタンに与えられた恵まれた時間は、ごくわずかだったのである。

春光院

春光院


 南蛮寺の鐘(春光院蔵)

南蛮寺の鐘(春光院蔵)


 側面に見られる1577の文字

側面に見られる1577の文字


 同じくイエズス会紋章

同じくイエズス会紋章

 翌日、朝から降ったり止んだりの微妙な空模様である。
 京都駅前からバスに乗り、右京区の臨済宗妙心寺の塔頭である春光院へと向かった。南蛮寺の鐘を見せていただくためである。通常は拝観を受け付けてはいないが、あらかじめ取材の申し込みをし、了承をいただいた。
 玄関で案内を乞うと、いきなり金髪の若い白人女性が現れたので驚いた。後で知ったのだが、外国人を対象にして座禅体験を受け付けているのだそうだ。このときも旅行者であろう外国人を相手に、若い僧侶が英語で寺の説明をしていた。
 川上史朗住職(後で名刺をいただいた際に「芸名みたいな名前でしょ」と笑っておっしゃっていた)は、早速鐘の前に案内してくれた。
 障子が閉められやや暗い廊下の一隅に、鐘は釣られている。高さは60cmほどで、側面に太陽の文様の中のIHSの文字と、1577という西暦を見て取ることができる。他の教会の鐘ではないという絶対的な根拠はないであろうが、この1577とイエズス会紋章によって、都の南蛮寺の鐘であるとほぼ間違いなくいえるのであろう。
 この鐘が春光院の所蔵となった経緯であるが、嘉永7(1854)年に仁和寺から、朝鮮伝来の鐘として譲り受けたのだそうだ。当時キリスト教の教会の鐘であるなどとは当然いえなかったからだが、住職は、春光院の側でもキリスト教のものであるとは分かっていたはずとおっしゃった。
 鐘は春光院において長きにわたり大切に所蔵されてきた。戦中に金属の供出が求められた際には、これを地中に埋めて隠し、寺にとって大切な仏具である三具足(香炉・燭台・花立の一組のこと)を代わりに供出したのだそうだ。それも、この鐘は他宗教であるキリスト教のものであるからこそ、大砲の弾にするわけにはいかないという気持ちゆえであったのだという。
 現代においては文化財を維持、管理していくことには経済的な負担が大きい。もともとは僧侶になるつもりはなく、修行に入る前、大学で経営を学んだという住職が語ることばは、具体的で説得力があった。しかし、宗教家として、このような財産を大切にするという気持ちを周囲に育てていくことは必要なのだとも強く主張なさった。
 春光院では現在でもこの鐘を半鐘として使用している。しかしあくまでも西洋式のベルであるため、木槌で外側を叩くのではなく、内側を叩いて鳴らしている。住職が実際に叩いてくださったが、澄んだ高音が高らかに響いた。
 「さざれ石の庭」と称される前庭にも案内してもらったのだが、廊下を歩きつつ住職は「ここにはキリスト教の鐘があって、庭にはお伊勢さんを祀ってある」といわれた。伊勢神宮をかたどり、内宮の森、外宮の社として、庭中には拝石が据えられた神道式の枯山水なのである。もともと春光院は、秀吉の家来であった堀尾吉晴が戦死した長子を弔うために建立した寺である。三代後に堀尾家は嫡子がなく断絶、息女が嫁いでいたことから、石川家が檀越となった。この石川家が伊勢神宮崇拝者であったため、このような庭が作られたのだそうだ。住職によれば、神仏混淆であった当時にいわゆる「伊勢講」にあやかった面もあるのではないかということだが、伊勢を祀る寺というのは他にはないそうだ。
 この図らずも3つの宗教が同居している空間が、今の日本人の宗教観にぴったりだと住職は笑った。初詣に行き、結婚式は教会で、葬式となれば寺にという日本人の宗教意識である。それを批判的には語らない住職のことばが印象的だった。
 さらに、住職の話の中で強く印象に残ったことがある。日本の仏教界も現代では布教における困難を抱えている。家庭というものの形態が大きく変化し、信仰の伝達や教育があまりなされなくなっているため、個人個人にいかに教えを伝えていくかがどの宗教でも課題となっているわけだが、そういった中で住職は「まずぼく自身のファンになってもらう。そうやって掴んでいくしかない」といわれた。はっとすることばだった。それぞれの人にとって「この人だ」と思う人から伝えられる、そのことの大切さは、カトリック教会の中でももっと重要視されてもよいのではないだろうか。
 一時は声が聞こえにくくなるほど激しく雨が降り出したのだが、庭を前にして聞かせていただいた住職の話は、すべてが興味深く、充実した楽しい時間を過ごさせていただいた。
 最後に今年(2009年)の初めから開催されている「妙心寺展」について記しておく。「妙心寺展」は東京と京都ではすでに会期を終えているが、名古屋では2009年10月10日から11月23日に名古屋市博物館にて、福岡では2010年1月1日から2月28日まで九州国立博物館にて開催され、春光院の南蛮寺の鐘も出品される。本『情報ハンドブック』発行時には名古屋での開催はあと数日ということになるが、九州のかたにとっては現物を見る貴重なチャンスになると思う。ただし、春光院に鐘がない状態をあまり長期にしないために、名古屋では会期の後半、福岡では前半にのみ展示されるとのことなので、あらかじめ展示の有無を確認してほしい。

 やや雨が小降りになってきたので、キリシタン墓碑があるという椿寺まで歩き出した。妙心寺の北門を出て東へ北野白梅町まで歩くだけなので、さほどの距離ではない。しかし数分後、傘も役立たないほどの猛烈な降りとなってしまった。服もズボンもずぶ濡れになって、しかたなくバスに乗り込んだ。
多少尻切れトンボのような感じで、今回の取材を終えることになった。しかし、前半の大阪、後半の京都ともに、歴史を刻んだ土地が持つ力と、語り伝えるという意志をもって放たれることばが持つ力、この二つの力に強く心打たれる旅であった。 (奴田原智明)

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