教皇ベネディクト十六世の教皇庁新福音化推進評議会主催第1回国際会議閉会ミサ説教

教皇ベネディクト十六世は年間第29主日の10月16日(日)午前9時30分からサンピエトロ大聖堂で教皇庁新福音化推進評議会主催の第1回国際会議の閉会ミサを司式しました。以下に訳出したのは、ミサの中で教皇が行った説教の全文です(原文イタリア語)。教皇はこの説教の中で2012年10月11日(第二バチカン公会議開幕50周年)から2013年11月24日(王であるキリストの祭日)まで、「信仰年」を開催することを発表しました。


なお、ミサの入祭の行列の際、教皇は初めて可動式の演壇を使用しました。可動式の演壇はかつて教皇ヨハネ・パウロ二世が用いたものです。10月15日(土)に教皇庁広報部のフェデリコ・ロンバルディ報道官が行った説明によれば、可動式演壇使用の目的は、野外やサンピエトロ広場で行われる式での入祭行列の際に「パパモビル」が用いられるのと同じように、ただ教皇の負担を軽減することです。


 敬愛すべき兄弟である司教の皆様
 親愛なる兄弟姉妹の皆様

 今日わたしは、世界の多くの地域で新しい福音宣教の前線で働いておられる皆様のために、喜びをもってミサをささげます。新しい福音宣教の行われる領域を考察し、いくつかの重要なあかしに耳を傾けるために昨日から開催された会議が、この典礼をもって終わります。今日、わたし自身も、皆様のためにみことばと聖体のパンを裂きながら、いくつかの考えを述べたいと思います。わたしは皆様と同じく、こう確信しているからです。いのちのことばとパンであるキリストなしに、わたしたちには何もできません(ヨハネ15・5参照)。この会議が、10月の「世界宣教の日」の1週間前に開かれたことをうれしく思います。「世界宣教の日」は、「諸国民への(ad gentes)」宣教のもつ普遍的な次元との一致のうちに、新しい福音宣教の普遍的な次元を思い起こさせてくれるのです。
 教皇庁新福音化推進評議会の招待を受け入れてくださったすべての皆様に心からごあいさつ申し上げます。特に最近設立された同評議会議長のサルヴァトーレ・フィジケッラ大司教とその協力者の皆様にごあいさつするとともに、感謝申し上げます。
 ここで今日、その中で主がわたしたちに語りかけてくださった聖書朗読に目を向けます。イザヤ書からとられた第一朗読(イザヤ45・1、4-6参照)は語ります。神はただひとり、唯一のかたです。わたしたちには、主のほかに他の神はいません。ペルシア皇帝である強大なキュロスさえも、神のみが知っておられ、実現される、もっと偉大な計画の一部です。この箇所はわたしたちに歴史の神的な意味を示してくれます。時代の変化、強大な権力の継承は、神の最高の支配のもとに服します。いかなる地上の権力も神に代わることはできません。歴史の神学は新しい福音宣教の重要で不可欠な側面です。なぜなら、現代人は、20世紀の全体主義体制の禍々しい時代の後、世界と時代に関する包括的な見方を回復することを必要としているからです。このような真の自由と平和に基づく展望を、第二バチカン公会議はその諸文書を通して伝え、わたしの先任者である神のしもべパウロ六世と福者ヨハネ・パウロ二世もその教導職をもって示しました。
 第二朗読はテサロニケの信徒への手紙一の冒頭です。この箇所も意味深いものです。なぜなら、それは、あらゆる時代を通してもっとも偉大な福音宣教者である使徒パウロからわたしたちにまで届いた、もっとも古い手紙だからです。パウロは何よりもまずわたしたちにいいます。福音はパウロが一人で告げたものではありません。実際、パウロにもシルワノとテモテを初めとした多くの協力者がいました(一テサロニケ1・1参照)。これにもう一つのきわめて重要なことが加わります。宣教には、常に祈りが先立ち、伴い、続かなければなりません。実際、こう述べられています。「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」(2節)。それから使徒パウロは、共同体に属する人々は、自分が選んだのではなく、神に選ばれたことをよく自覚しているといいます。「あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」(4節)。すべての福音の宣教者は、常に次のことを思わなければなりません。主がみことばと霊をもって人々の心の戸をたたき、人々を信仰と教会における交わりへと招くのです。最後にパウロは、自分の経験から引き出した貴重な教えを示します。パウロはいいます。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただことばだけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」(5節)。福音宣教が効果を上げるには、聖霊の力を必要とします。聖霊が魂に福音を告げ、使徒が語っている、聖霊のもたらす「強い確信」で魂を満たすからです。「強い確信」は原語ギリシア語で「プレーロフォリア」です。このことばは、主観的・心理的な意味よりもむしろ、充満、忠実さ、完全さを表します。この場合、この充満、忠実さ、完全さはキリストの告知によってもたらされます。告知が完全で忠実なものとなるには、イエスの宣教と同じように、しるしとわざが伴うことが必要です。それゆえ、ことばと聖霊と(今述べた意味での)確信は、福音のメッセージを力強く広めるために、切り離すことができず、一つにまとまります。
 今、福音の箇所を考察したいと思います。これは、皇帝に税金を納めることは正しいかどうかに関する箇所です。そこではイエスの有名なこたえが示されます。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マタイ22・21)。しかし、この点に至る前に、福音宣教者にかかわる部分があります。実際、イエスに対する質問者(ファリサイ派とヘロデ派の人々)は好意をもってイエスに向かっていいます。「わたしたちは、あなたが真実なかたで、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからないかたであることを知っています」(16節)。たとえ偽善から出たものであっても、このことばはわたしたちの注意を引かずにはいません。ファリサイ派とヘロデ派の人々は、自分たちがいっているとおりに考えているわけではありませんでした。彼らは自分たちの話を聞いてもらうために、気を引こうとして(captatio benevolentiae)こういったにすぎず、彼らの心は真理から遠く離れています。むしろ彼らは、イエスを非難するための罠として、イエスをおびき寄せようとしたのです。しかし、わたしたちにとって、このことばは貴重で真実です。実際、イエスは真実なかたで、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからないかたです。イエスご自身が「神の道」です。わたしたちはこの「神の道」を歩むよう招かれています。わたしたちはここで、ヨハネによる福音書に書かれたイエスご自身のことばを思い起こすことができます。「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ14・6)。このことに関して聖アウグスティヌスの解説が目を開いてくれます。「『わたしは道であり、真理であり、いのちである』と主がいわれる必要があったのは、まさにご自分が行くのは真理へであり、いのちへであるということを(知らせる)以外の何であったであろうか。・・・・それゆえ、主ご自身(のところ)へでなくて、わたしたちはどこへ行くのであろうか。主ご自身を通ってでなければ、わたしたちはどこを通って行くのであろうか」(『ヨハネ福音書講解』:In Johannis Evangelium tractatus 69, 2〔茂泉昭男訳、『アウグスティヌス著作集25 ヨハネによる福音書講解説教(3)』教文館、1993年、94頁〕)。新しい福音宣教を行う者は、このような道を先んじて歩むよう招かれています。道とはキリストです。それは、いのちを与える福音のすばらしさを他の人々に知らせるためです。わたしたちはこの道を一人で歩むのではなく、ともに歩みます。わたしたちは、わたしたちが出会う人々に、交わりと友愛の経験を示します。それは、わたしたちのキリストと教会の経験に彼らをあずからせるためです。このようにして、宣教のための一致したあかしが、真理を探求する人々の心を開き、彼らが自分の人生の意味に達することを可能にします。
 皇帝に対する納税という中心的な問題についても簡単に考察したいと思います。イエスは驚くべき政治的現実主義をもってこたえます。この現実主義は、預言者の伝統である、神を中心に置く思想と結ばれています。皇帝に対して税金は払わなければなりません。なぜなら、銀貨の肖像は皇帝のものだからです。しかし、すべての人間は自らのうちに、神の似姿という別の肖像をもっています。それゆえ、すべての人は自分の存在を神に、それも神にのみ負っています。教父は、イエスが税金として払う銀貨に刻まれた皇帝の肖像に言及したことからヒントを得て、この箇所を、神の像としての人間という根本思想に照らして解釈しました。神の像という思想は、創世記1章に書かれています。ある無名の著者は述べます。「神の像は金の上にではなく、人類の上に刻まれた。皇帝の通貨は金であるが、神の通貨は人類である。・・・・それゆえ、あなたの物質的な富は皇帝に与えなさい。しかし、あなたの良心という唯一無垢なものは神のためにとっておきなさい。この良心においてわたしたちは神を観想するのだから。・・・・実際、皇帝はあらゆる通貨の上に自らの肖像を求めるが、神は人間を選ばれた。神はご自身の栄光を映し出すために人間を創造したのである」(無名の著者『未完のマタイ福音書注解』説教42)。聖アウグスティヌスもこの箇所を何度も説教の中で用います。アウグスティヌスはいいます。「もし皇帝が銀貨に刻まれた自分の肖像を求めるなら、神は人間のうちに刻印された神の像を人間から要求するのではないだろうか」(『詩編注解』:Enarrationes in Psalmos 94, 2)。こうもいっています。「ちょうどあなたがたが皇帝の銀貨を皇帝に返すように、神のみ顔の光で照らされ刻印された魂を神に返しなさい。・・・・キリストは内なる人に住まうからである」(同:ibid. 4, 8〔今義博訳、『アウグスティヌス著作集18/Ⅰ 詩編注解(1)』教文館、1997年、42-43頁〕)。
 このイエスのことばは、豊かな人間論的意味をもっています。これを政治的領域にのみ限定することはできません。それゆえ教会は、皇帝の権威の領域と神の領域、政治的領域と宗教的領域の間の正当な区別を人々に説くだけではありません。教会の使命は、キリストの使命と同じく、基本的に神について語ることです。神の支配を思い起こさせることです。すべての人、特に自分の本来の姿を忘れたキリスト信者に、神に属する者、すなわちわたしたちのいのちに対する神の権利を思い起こさせることです。
 全教会の使命は、人々を、彼らがしばしば置かれている荒れ野から、いのちとキリストとの友愛の地へと導き出すことです。キリストはわたしたちに完全ないのちを与えてくださるからです。このような使命に新たな刺激を与えるために、わたしはこの感謝の祭儀の中で、「信仰年」の開催を決めたことを発表したいと思います。「信仰年」については、そのための使徒的書簡をもって説明します。この「信仰年」は、第二バチカン公会議開幕50周年の2012年10月11日に始まり、2013年11月24日の王であるキリストの祭日に終わります。「信仰年」が、神へとますます完全に回心し、神への信仰を強め、喜びをもって現代の人々に神を告げ知らせるための、恵みと約束の時となることを願います。
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。あなたがたは、困難を伴いながらも、初代キリスト者と同じ熱意をもって教会が開始し、進めている新しい福音宣教の代表者です。終わりに、今朗読された使徒パウロのことばを自分のことばとしたいと思います。わたしは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望をもって忍耐していることを、わたしは絶えず父である神のみ前で心に留めているのです。おとめマリアが常にわたしたちの模範と導きとなってくださいますように。マリアは、主のことばに対して恐れることなく「はい」とこたえ、ご胎内に主のことばを宿された後、喜びと希望に満たされて歩みました。主の母であり、わたしたちの母であるかたから学ぼうではありませんか。謙遜であるとともに、勇気をもつことを。単純かつ賢明であることを。世の力によってではなく、真理の力によって、柔和で力強くあることを。アーメン。

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