教皇ベネディクト十六世自発教令『ポルタ・フィデイ――「信仰年」開催の告示』

以下に訳出したのは、2011年10月17日(月)に発布された教皇ベネディクト十六世自発教令『信仰の門――「信仰年」開催の告示(2011年10月11日付)』の全文(原文ラテン語)です。教皇は10月16日(日)午前、サンピエトロ大聖堂で司式した教皇庁新福音化推進評議会主催の第1回国際会議の閉会ミサの説教の中で、特別年の「信仰年」の開催を発表しました。「信仰年」は、第二バチカン公会議開幕50周年の2012年10月11日に始まり、2013年11月24日の王であるキリストの祭日に終わります。

1 「信仰の門」(使徒言行録14・27)は常にわたしたちに開かれています。それはわたしたちを神との交わりの生活へと促し、神の教会へと導き入れてくれます。神のことばがのべ伝えられ、わたしたちを造り変える恵みによって心が形づくられるとき、わたしたちはこの門を通ることができます。この門に入るとは、生涯にわたって続く旅に出発することです。この旅は洗礼によって始まります(ローマ6・4参照)。わたしたちは洗礼によって神を父と呼ぶことができるようになるからです。そして、旅は死から永遠のいのちに過ぎ越すことによって終わります。永遠のいのちは主イエスの復活がもたらしたものです。イエスのみ心は、聖霊を与えることによって、イエスを信じる者をご自身の栄光へと引き寄せることでした(ヨハネ17・22参照)。父と子と聖霊の三位一体への信仰を告白するとは、愛である唯一の神を信じることです(一ヨハネ4・8参照)。父は、時が満ちるとわたしたちの救いのために御子を遣わしました。イエス・キリストは、ご自分の死と復活の神秘によって世をあがないました。聖霊は、世々を通して、主の栄光ある再臨を待ち望む教会を導きます。

2 ペトロの後継者としての奉仕職を開始して以来、わたしは信仰の道を再発見しなければならないと述べてきました。それは、キリストと出会うことの喜びと新たな熱意をますます明らかに示すためです。教皇職を開始するミサの中でわたしはこう述べました。「全教会とその牧者たちは、キリストのように、民を荒れ野から連れ出し、いのちの地、神の子との友愛、わたしたちにいのちを与える唯一のかた、あふれるいのちへと導くように努めなければなりません」(1)。キリスト信者はしばしば自らの活動の社会的・文化的・政治的結果に関心を向けます。そして、信仰を社会生活の当然の前提と考え続けます。実際には、この前提は当然のものではなく、しばしば公然と否定されています(2)。過去においては、統一的な文化状況を見いだすことが可能でした。信仰の内容と、信仰から霊感を受けた価値観に訴えることも広く受け入れられていました。しかし、現代においては、社会の広い分野において、同じことをいうことはできません。信仰の深刻な危機が多くの人々に影響を及ぼしているからです。

3 わたしたちは塩に塩気がなくなり、光が隠れたままでいるのを受け入れることができません(マタイ5・13-16参照)。現代の人々も、サマリアの女と同じように、井戸に向かい、イエスのことばを聞かなければならないと感じることができます。イエスは、イエスを信じ、イエスからわき出るいのちの泉の水を飲むようわたしたちを招いているからです(ヨハネ4・14参照)。わたしたちは、教会が忠実に伝えてきた神のことばと、弟子たちを生かすために与えられたいのちのパンの味を再発見しなければなりません(ヨハネ6・51参照)。実際、イエスの教えは現代においてなお同じ力をもって響き渡ります。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6・27)。聴衆が述べた問いは、現代のわたしたちが述べる問いと同じです。「神のわざを行うためには、何をしたらよいでしょうか」(ヨハネ6・28)。わたしたちはイエスの答えを知っています。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神のわざである」(ヨハネ6・29)。それゆえ、イエス・キリストを信じることが、決定的なしかたで救いに至るための道です。

4 これらのことに照らして、わたしは「信仰年」の開催を発表することを決めました。「信仰年」は第二バチカン公会議開幕50周年の2012年10月11日に始まり、2013年11月24日の王であるキリストの祭日に終わります。2012年10月11日という「信仰年」開始日は、『カトリック教会のカテキズム』発布20周年を記念する日でもあります。『カトリック教会のカテキズム』は、信仰の力とすばらしさをすべての信者に示すために、わたしの前任者である福者ヨハネ・パウロ二世が発布した文書です(3)。第二バチカン公会議の真正な実りであるこの文書は、1985年の世界代表司教会議(シノドス)特別総会によって信仰教育に役立つ道具として求められ(4)、カトリック教会のすべての司教との協力のうちに作成されました。さらに、わたしが2012年10月に開催するシノドス総会のテーマは「キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教」です。このシノドスも、信仰について特別に考察し、再発見するための時へと全教会を促すよい機会となります。教会が「信仰年」を開催するよう招かれるのは、これが初めてではありません。わたしの先任者である神のしもべパウロ六世は、聖ペトロとパウロの最高のあかし(殉教)の1900周年を記念するために、1967年に「信仰年」を開催しました。パウロ六世は「信仰年」が全教会にとって「誠実かつ荘厳に同じ信仰告白を行う」ための正式な機会となると考えました。さらに教皇は、この信仰告白が「個人また共同で、自由に自覚をもって、内的にも外的にも、謙遜かつ率直に」(5)行われることを望みました。教皇はこうして全教会が「信仰の正確な知識を自分のものとし、そこから信仰を生かし、清め、強め、告白することができるようになる」(6)と考えたのです。1967年の大きな混乱の数々は、このような特別年を開催する必要性をいっそう明らかにしました。「信仰年」は『神の民のクレド』(7)をもって締めくくられました。『神の民のクレド』の目的は、幾世紀にもわたりすべての信者の遺産を形づくってきた根本的な内容を確認し、理解し、さらに探求することの必要性を示すことでした。それは、過去とはまったく異なる歴史状況の中で一貫したあかしを行うためです。

5 ある点において、わたしの敬愛すべき先任者は「信仰年」を「公会議後の結果、またそれが必要とするもの」(8)と考えました。特に真の信仰告白とその正しい解釈に関して、時代が深刻な困難に遭遇していることを意識したからです。「信仰年」が第二バチカン公会議開幕50周年と同時期に開催されることは、公会議教父の伝えた諸文書を人々が理解するのを助けるよい機会を与えるように思われます。福者ヨハネ・パウロ二世がいうとおり、「公会議文書は、自らの価値を失うことも輝きを失うこともありません。これらの文書は、適切に読まれ、教会の聖伝の中で、教導職にとっての重要な規範文書として知られ、消化吸収される必要があります。・・・・わたしは教会が二十世紀を豊かにした最大の恵みとして公会議を指し示す義務を、今までより深く感じています。この中に、わたしたちに新しい世紀の歩みの方向性を与える確実な羅針盤が提供されているのです」(9)。わたしは、教皇選出から数か月後に公会議について述べたことも強調したいと思います。「わたしたちが正しい解釈法に導かれながら、公会議を解釈し、実施するなら、公会議は絶えず必要とされる教会の刷新のために、力となることができますし、またいつまでも力となることができるでしょう」(10)。

6 教会の刷新は、信者の生活のあかしを通しても実現されます。キリスト信者は、世に存在すること自体によって、主イエスが与えてくださった真理のことばを輝かすよう招かれています。公会議も教義憲章『教会憲章』の中でこのことをこう述べます。「キリストは『聖であり、罪なく、汚れなく』(ヘブライ7・26)、罪を知らず(二コリント5・21参照)、ただ人々の罪を償うためにのみ来られたのであるが(ヘブライ2・17参照)、教会は自分のふところに罪人を抱いているので、聖であると同時に常に清められるべきものであり、悔い改めと刷新との努力を絶えず続けるのである。教会は『世の迫害と神の慰めとを知って旅を続け』、主が来られるまで、主の十字架と死を告げながら進む(一コリント11・26参照)。教会は、復活された主の力によって強められ、こうして忍耐と愛をもって、内と外からの自己の苦悩と困難に打ち勝ち、主の秘義を、終わりの日にそれがまったき光のもとに現れるまで、影に包まれてではあるが忠実に世に現すのである」(11)。

 このような観点から、「信仰年」は、世の唯一の救い主である主に対する誠実で新たな回心への招きです。神は、主の死と復活の神秘によって、完全な愛を示されました。この愛は、わたしたちを救い、罪のゆるしにより回心して生きるよう招きます(使徒言行録5・31参照)。聖パウロにとって、この愛はわたしたちを新しいいのちに促すものです。「わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです」(ローマ6・4)。信仰により、この新しいいのちは、復活のまったく新しい姿に従って、人間の全存在を形づくります。人がこれに協力すればするほど、その思考と感情、思いと行いはゆっくりと清められ、造り変えられます。この旅路がこの世で完全に終わることはありません。「愛の実践を伴う信仰」(ガラテヤ5・6)は認識と行動の新たな基準となり、それが人の生活全体を転換します(ローマ12・2、コロサイ3・9-10、エフェソ4・20‐29、二コリント5・17参照)。

7 「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」(二コリント5・14)。キリストの愛はわたしたちの心を満たし、福音をのべ伝えるよう駆り立てます。かつてと同じように今も、キリストは、世の至るところで、地上のすべての民にご自身の福音を告げるよう、わたしたちを遣わします(マタイ28・19参照)。イエス・キリストは、ご自身の愛のゆえに、すべての時代の民をご自身へと引き寄せます。イエス・キリストはいつの時代にも教会を呼び集め、常に新たな命令をもって福音を告げ知らせる使命をゆだねます。現代においても、信じることの喜びと、信仰を伝える熱意を再び見いだすために、教会が新しい福音宣教に強力に取り組む必要があります。信仰者の宣教活動は、キリストの愛を日々再発見することにより、尽きることのない力と活気を与えられます。信仰は、それを愛が与えられる経験として生き、恵みと喜びの経験として伝えられることによって、成長します。信仰はわたしたちを豊かにします。なぜなら、信仰はわたしたちの心を希望のうちに広げ、次の世代を生み出すことのできるあかしを可能にするからです。実際、主は、ご自分のことばを守り、自分の弟子となるように招かれます。この招きを聞き、それにこたえる人の心と思いを信仰は広げます。聖アウグスティヌス(354-430年)はいいます。「信じる者は信じることによって自らを強める」(12)。ヒッポの聖なる司教アウグスティヌスには、このように自らについて説明できる十分な理由がありました。ご存じのとおり、アウグスティヌスは生涯を通じて、彼の心が神のうちに憩うまで(13)、信仰のすばらしさを絶えず探求し続けました。アウグスティヌスがその中で信じることの重要性と信仰の真理を解説した膨大な書物は、今でも比類のない遺産であり続けています。それらの書物は今も、多くの人が神を探求し、「信仰の門」に至る正しい道を見いだすための助けとなっています。

 それゆえ、信仰は信じることによって成長し、強められます。愛のみ手にますます自分をゆだねる以外に、人生に関する確証を得る道はありません。この愛は絶えず増大するように思われます。なぜなら、愛は神から来るものだからです。

8 この幸いな機会に、わたしは世界中の兄弟である司教を招きたいと思います。主が与えてくださったこの霊的恵みの時に、信仰という貴いたまものをわたしとともに思い起こしてください。わたしたちは「信仰年」をふさわしく、実り豊かなしかたで祝いたいと思います。信仰に関する考察を深めなければなりません。それは、特に人類が現在経験している深刻な変化の時代にあって、キリストを信じるすべての者がいっそう自覚をもって力強く福音に従うためです。わたしたちは世界中の司教座聖堂と教会堂で、また家庭の中で、家族とともに、復活した主への信仰を告白する時をもちます。それは、変わることのない信仰をもっとよく知り、将来の世代に伝える必要を、すべての人が強く感じるためです。修道会と小教区共同体、また昔からのものと最近のものを含めたすべての運動団体は、「信仰年」の間に「信仰告白」を公に行う方法を見いださねばなりません。

9 「信仰年」がすべての信者のうちに、完全かつ新たな確信と、信頼と希望をもって信仰を「告白」したいという望みを呼び起こしますように。「信仰年」は、信仰を典礼の中で、特に感謝の祭儀の中で深く「記念」するためのよい機会ともなります。感謝の祭儀は「教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉」(14)だからです。同時にわたしたちは、信者の生活の「あかし」がますます信頼の置けるものとなることを祈ります。わたしたちが告白し、記念し、生き、祈る信仰の内容を再発見し(15)、信じることについて考察することは、特に「信仰年」の間、すべての信者が自分のものとしなければならない務めです。

 古代のキリスト信者が信条を暗記するよう求められたのは理由のないことではありません。信条は日々の祈りとなって、洗礼によって課せられた務めを忘れずにいるために役立ちました。聖アウグスティヌスは、信条の授与(redditio symboli)に関する説教の中で、このことを豊かな意味をもつことばによって述べます。「今日皆さんがともに受け、一つずつ唱えた聖なる神秘に関する信条は、これを通して母である教会の信仰が主キリストという堅固な基盤の上に築かれたことばです。皆さんはこの信条を受けて、唱えました。・・・・しかし、皆さんはそれをいつも心と思いにおいて目の前に保たなければなりません。皆さんはそれを床の中で繰り返して唱え、広場の中で思い起こし、食事のときも忘れてはなりません。からだが眠っているときも、心の中でそれに注意しなければなりません」(16)。

10 ここでわたしは、信仰の内容だけでなく、わたしたちが完全な自由をもって神に身をゆだねることを決断する行為を深く理解するための助けとなる方法を簡単に述べたいと思います。実際、信じる行為と、信じる内容との間には深い一致があります。聖パウロは次のように述べて、このことを理解する助けを与えてくれます。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマ10・10)。心は次のことを示します。人が信仰に入る最初の行為は、神のたまものであり、恵みのわざです。恵みは人間の深いところで働き、人を造り変えるからです。

 リディアの例はこのことを特別雄弁に語ります。聖ルカは述べます。パウロはフィリピにいたとき、安息日に婦人たちに福音をのべ伝えました。リディアはその婦人たちの一人でした。「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた」(使徒言行録16・14)。このことばには重要な意味が含まれています。聖ルカはこう教えます。信じるべき内容を知るだけでは不十分です。人の真の聖なる場である心が、恵みによって開かれなければならないからです。恵みは、目に表から見えないものを見ることを可能にし、神のことばが告げられたことを悟らせます。

 これに対して、口で告白することは、信仰が公のあかしと行動を含むことを示します。キリスト信者は信仰を私的な行為と考えてはなりません。信仰は、主のもとにとどまり、主とともに生きようとする決断です。この「主のもとにとどまる」ということは、信仰の理由を理解させてくれます。信仰は、まさに自由な行為なので、信じることに対する社会的責任を要求します。聖霊降臨の日の教会は、信じ、自分の信仰を恐れることなくすべての人にのべ伝えるということの公的側面を明らかに示します。聖霊の恵みは、わたしたちを宣教にふさわしい者とし、わたしたちのあかしを強め、あかしに率直さと勇気を与えてくれるのです。

 信仰告白は個人また共同の行為です。信仰の第一の主体は教会です。キリスト教共同体の信仰の中で、一人ひとりの人は洗礼を受けます。洗礼は、救いを得るために信者の民に入ることをはっきりと示すしるしです。『カトリック教会のカテキズム』は次のように述べます。「『わたしは信じます』――これは、主として洗礼のとき、信じる者の一人ひとりによって個々に宣言される教会の信仰を表します。『わたしたちは信じます』――これは、公会議に集まった司教たち、あるいはもっと一般的に、典礼祭儀に集まった信者たちが公言する教会の信仰を表します。『わたしは信じます』――これはまた、その信仰によって神に答え、『わたしは信じます』、『わたしたちは信じます』と告白するようわたしたちに教える、わたしたちの母である教会自身の信仰告白でもあります」(17)。

 いうまでもなく、信仰内容を知っていることが、教会が示すことに「同意する」ために、すなわち、それに知性と意志をもって完全に従うために不可欠です。信仰の知識は、神が啓示した救いの神秘へと完全に導き入れてくれます。それゆえ、同意するとは、次のことを意味します。わたしたちは信じるとき、信仰の神秘全体を自由に受け入れます。信仰の真理を保証するのは、神だからです。神はご自身を示し、わたしたちがご自分の愛の神秘を知ることを可能にしてくださいます(18)。

 他方で、次のことを忘れてはなりません。現代の文化状況の中で、多くの人が、信仰のたまものが与えられていないことを認めながらも、自分の人生と世界に関する究極的な意味と決定的な真理を誠実に探求しています。この探求は真正な意味での信仰の「入り口」です。なぜなら、この探求は、人を神の神秘にまで導く道へと連れて行くからです。実際、人間理性は自らのうちに「いつまでも残る価値あるもの」(19)に対する欲求を備えています。このような欲求が、人間の心の中で消し去ることのできない絶えざる呼びかけとなります。この呼びかけに促されて、人間は、あのかたを見いだそうと出発するのです。このかたがすでにわたしたちと会いに来てくださらなければ、わたしたちが尋ね求めることがなかったであろうかたを(20)。信仰は、この出会いに向けてわたしたちを招き、またわたしたちの心を完全に開くのです。

11 信仰内容を体系的に知るために、だれもが『カトリック教会のカテキズム』のうちに正確で不可欠の手段を見いだすことができます。『カトリック教会のカテキズム』は第二バチカン公会議のもっとも重要な成果です。第二バチカン公会議開幕30周年を記念して(それは偶然ではありません)署名された、使徒憲章『ゆだねられた信仰の遺産』の中で、福者ヨハネ・パウロ二世は述べます。「このカテキズムは・・・・教会の生活全体にかかわる刷新事業に、きわめて重要な寄与をもたらすでしょう。・・・・わたしはこのカテキズムを、教会的交わりのために役立つ権威ある道具、また信仰を教えるための確実な規範として認定します」(21)。

 このような意味で「信仰年」は、『カトリック教会のカテキズム』のうちに体系的かつ有機的にまとめられた信仰の根本的内容を再発見し、研究するための真摯な努力を行わなければなりません。実際わたしたちは、この文書のうちに、教会が二千年の歴史の中で受け入れ、守り、示してきた豊かな教えを見いだすことができます。教会は、信者の信仰生活を確かなものとするために、さまざまなしかたで信仰を考察し、教理を発展させてきました。『カテキズム』は、聖書から教父まで、諸世紀における神学の師から聖人までのこのような営みを恒久的な記録として提供します。

 『カトリック教会のカテキズム』は、その構成自体において、日々の生活の重大なテーマに関連する信仰の発展を示します。どの頁を見ても、そこに示されるのは、理論ではなく、教会の中に生きているかたとの出会いです。信仰告白に続くのは、秘跡生活に関する説明です。キリストは秘跡生活の中に現存し、働き、ご自身の教会を築き続けるからです。典礼と秘跡がなければ、信仰告白は力を失います。典礼と秘跡がなければ、キリスト信者のあかしを支える恵みを失うことになるからです。同じ基準に従い、『カテキズム』の道徳生活に関する教えは、信仰と典礼と祈りとに関係づけられることによって完全な意味をもちます。

12 それゆえ、「信仰年」の間、特にキリスト信者の養成にとって、『カトリック教会のカテキズム』は信仰を支えるまことの道具となります。キリスト信者の養成は、現代の文化状況において決定的な意味をもっています。そのため、わたしは教皇庁教理省に対して、聖座の権限ある諸機関と協力しながら、覚え書きを作成するよう命じました。この覚え書きは、信仰と福音宣教に役立つために、「信仰年」を効果的かつ適切に過ごす方法に関するいくつかの指針を教会と一人ひとりの信者に示すものです。

 実際、信仰は過去の時代よりもいっそう、精神構造の変化から生まれる多くの問いかけにさらされています。この変化により、特に現代において、合理的に確実な領域は科学や技術の領域に限定されます。しかし教会は、信仰と真の科学の間にいかなる対立もありえないことを恐れることなく示してきました。信仰と科学は、異なる道を通りながらも、ともに真理を目指すからです(22)。

13 「信仰年」において決定的に重要なことは、信仰の歴史をたどり直すことです。信仰の歴史は、聖性と罪がより合わされた、はかりしれない神秘によって特徴づけられているからです。聖性は、生活のあかしを通じて人々が共同体の成長と発展に大いに寄与したことを示します。これに対して、罪は、すべての人に示される御父のあわれみを味わうために、一人ひとりの人が真の絶えざる回心を行うことを求めます。

 この機会に、「信仰の創始者また完成者」(ヘブライ12・2)であるイエス・キリストに目を注がなければなりません。人の心のあらゆる不安とあこがれは、このかたのうちに満たされます。愛の喜び、悲惨な苦しみと痛みへの答え、人から受けた侮辱をゆるす力、そして、死の空虚に対するいのちの勝利――これらのことがすべて、キリストが受肉し、人となられ、人間と弱さを共有し、復活の力によってこの弱さを造り変えた神秘において実現します。わたしたちの救いのために死んでよみがえられたこのかたのうちに、二千年に及ぶわたしたちの救いの歴史を特徴づける信仰の模範が、完全に明らかにされます。

 信仰によって、マリアは天使のことばを受け入れ、自分が従順に身をささげることによって神の母となるというお告げを信じました(ルカ1・38参照)。エリサベトを訪ねたマリアは、神に信頼した人々のうちにいと高きかたが不思議なわざを行われたことを賛美して歌いました(ルカ1・46-55参照)。マリアは喜びと不安のうちに独り子を産み、おとめであり続けました(ルカ2・6-7参照)。マリアは夫ヨセフを信頼して、ヘロデの迫害から救うために、イエスをエジプトに連れて行きました(マタイ2・13-15参照)。マリアは同じ信仰をもって、宣教する主に従い、主とともにゴルゴタへの道を歩み通しました(ヨハネ19・25-27参照)。マリアは信仰によってイエスの復活の実りを味わい、すべてのことを心に納め(ルカ2・19、51参照)、聖霊を受けるために上の部屋に集まっていた十二人にそれらを伝えました(使徒言行録1・14、2・1-4参照)。

 信仰によって、使徒たちはすべてを捨てて師であるかたに従いました(マルコ10・28参照)。使徒たちは、師であるかたが神の国をのべ伝えたことばを信じました。神の国は、師であるかたご自身のうちに到来し、実現していたからです(ルカ11・20参照)。使徒たちはイエスとの交わりの生活を生きました。イエスは使徒たちをご自分の教えをもって教育し、彼らに新しい生活のおきてを与えました。このおきてによって、使徒たちはイエスの死後、イエスの弟子であることを知られるようになりました(ヨハネ13・34-35参照)。信仰によって、使徒たちは、すべての造られたものに福音をのべ伝えよという命令に従って、全世界に出かけて行き(マルコ16・15参照)、すべての人に復活の喜びを恐れることなく告げ知らせました。彼らは復活の忠実な証人だったからです。

 信仰によって、弟子たちは最初の共同体を作りました。共同体は、使徒の教え、祈ること、感謝の祭儀を行うことを中心にして集まり、持ち物を共有して、困っている兄弟を助けました(使徒言行録2・42-47参照)。

 信仰によって、殉教者は自分のいのちをささげて、福音の真理をあかししました。福音は彼らを造り変え、迫害する者をゆるすという、愛の最大のたまものを得ることを可能にしました。

 信仰によって、人々は自分の生活をキリストに奉献しました。彼らはすべてのものを捨てて、従順、清貧、貞潔という福音に基づく簡素な生活を送りました。これらのものは、すぐに来られる主を待ち望むことを表す具体的なしるしだからです。信仰によって、数知れないキリスト信者は正義のためのわざを行い、主のことばを実践しました。主は、圧迫されている人を自由にし、すべての人に恵みの年を告げるために来られたからです(ルカ4・18-19参照)。

 信仰によって、いのちの書にその名が記されているあらゆる時代の人々が(黙示録7・9、13・8参照)、世々を通じて、自分がキリスト信者であることをあかしするよう招かれたあらゆるところで、主イエスに従うことのすばらしさを告白してきました。すなわち、家庭、職場、公共生活の中で、たまものや自分が招かれた職務の行使を通じて。

 信仰によって、わたしたちも生きています。主イエスが自分の生活と歴史の中にともにおられることを生き生きと認めながら。

14 「信仰年」は愛のあかしを深めるためのよい機会でもあります。聖パウロが思い起こさせてくれるとおりです。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である」(一コリント13・13)。もっと強いことばで(このことばは常にキリスト信者の務めとなってきました)聖ヤコブはいいます。「わたしの兄弟たち、自分は信仰をもっているという者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』というだけで、からだに必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』という人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」(ヤコブ2・14-18)。

 愛の伴わない信仰は実りをもたらすことがありません。また、信仰を伴わない愛は、絶えず疑念にさらされます。信仰と愛は互いを必要とし合い、相手に自分の道を歩むことを可能にします。実際、多くのキリスト信者は愛をもって、孤独な人、除け者にされた人に自分のいのちをささげました。あたかも、これらの人こそが注目され、わたしたちが支えるべきもっとも重要な人であるかのように。なぜなら、これらの人々のうちにキリストご自身のみ顔が映し出されているからです。わたしたちは信仰を通して、わたしたちの愛を必要とする人々のうちに復活した主のみ顔を見いだすことができます。「わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)。このことばは、忘れてならない警告であり、キリストがわたしたちに与えてくださった愛を返し与えるようにという永遠の招きです。信仰は、わたしたちがキリストを見いだすことを可能にします。そして、キリストの愛はわたしたちを駆り立てます。人生の旅路の中で、キリストがわたしたちの隣人となるあらゆるときに、キリストを助けるようにと。信仰に支えられながら、世における自分たちの活動を希望をもって見つめようではありませんか。「義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望みながら」(二ペトロ3・13。黙示録21・1参照)。

15 人生の終わりに達したとき、聖パウロは弟子のテモテに、幼いときと同じ堅忍をもって(二テモテ3・15参照)、「信仰を追い求める」(二テモテ2・22)ようにと願いました。わたしたちはこの招きがわたしたち一人ひとりに向けられているのを感じます。だれも信仰を深めることをおろそかにしてはなりません。信仰は、神がわたしたちのために行われる不思議なわざをいつも新たに見いだすことを可能にしてくれる、生涯の伴侶です。信仰は、今の歴史の中に時のしるしを見いだそうと目を凝らしながら、わたしたち一人ひとりが世における復活した主の現存の生きたしるしとなるよう促します。世が今日、特に必要としているのは、信頼の置ける人のあかしです。主のことばによって思いと心を照らされた人は、多くの人の心と思いを、神と、まことの終わりないいのちを求めるよう開くことができるからです。

 「主のことばが速やかにのべ伝えられ、あがめられるように」(二テサロニケ3・1)。「信仰年」が、わたしたちの主キリストとの関係をますます強めてくれますように。キリスト以外に、未来に向かうための保証、真実で永遠の愛の保証はないからです。聖ペトロのことばは、信仰を究極的な光をもって照らしてくれます。「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、ことばでは言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(一ペトロ1・6-9)。キリスト信者の生活には、喜びの経験もあれば、苦しみの経験もあります。どれほど多くの聖人が孤独を味わったことでしょうか。どれほど多くの信者が、現代においても、神の慰めのことばを聞きたいときに、神の沈黙によって試されていることでしょうか。人生の試練は、わたしたちに十字架の神秘を悟らせ、キリストの苦しみにあずからせてくれるだけでなく(コロサイ1・24参照)、信仰がもたらす喜びと希望の前触れでもあります。「わたしは弱いときにこそ強いからです」(二コリント12・10)。わたしたちは堅固な確信をもって、主イエスが悪と死に打ち勝たれたことを信じます。このような信頼をもって、わたしたちは自分を主にゆだねます。主イエスは、わたしたちのただ中におられて、悪い者の力に打ち勝ちます(ルカ11・20参照)。キリストのあわれみを目に見える形で示す共同体である教会は、御父との決定的な和解のしるしとして、キリストのうちにとどまります。

 「信じたかたは幸い」(ルカ1・45)と呼ばれた神の母に、この恵みの時をゆだねます。

 2011年(教皇在位第7年)10月11日、ローマ、サンピエトロ大聖堂にて

略号
AAS Acta Apostolicae Sedis
DS Denzinger-Schönmetzer, Enchiridion symbolrum definitionum et declarationum de rebus fidei et morum

教皇ベネディクト十六世

PAGE TOP