池長潤・日本カトリック司教協議会会長談話「四旬節の過ごし方」

四旬節の過ごし方  今年も四旬節を迎える時節となりました。私たち信仰者にとっては、いつもよりもさらに神様を近くに感じとるように心がけて、自分の信仰生活を深める努力が勧められます。  この努力は、かならず具体的な実践をとお […]

四旬節の過ごし方

 今年も四旬節を迎える時節となりました。私たち信仰者にとっては、いつもよりもさらに神様を近くに感じとるように心がけて、自分の信仰生活を深める努力が勧められます。
 この努力は、かならず具体的な実践をとおして行ってゆきます。毎年、繰り返して言われるように、祈り、節制、苦行、愛徳などがこの実践事項としてあげられます。カトリック教会の伝統として、古くからこれらが霊的向上に有益なものとして認められて参りました。
 私たちの毎日は、何をしていても神様との交わりの時ですが、祈りというのは、とくに、いっさいの仕事や活動を離れて、もっぱら神様やイエス様と向かいあって過ごす事を意味します。もっとも、聖トマス・アクィナスが言うように、「つねに祈ってやむな。人は神に向っているならば、心と弁舌と労働において働くかぎり、祈り続ける。こうして、その全生命を神へと向け続ける人は、絶えず祈る」(Super Epistoram ad Romanos, C.I, V., n.84)という広義の祈りの理解もありますが、ここでは、普通祈りと言われている、まったくすべてを離れて、神様やイエス様と向かいあい、対話をしたり、現存に意識を集中したりすることを述べているのです。聖書のあるみことばの箇所について、聖霊の照らしを願いながら、その時、その場で自分に必要な教えを示して下さるよう求めて過ごす黙想と言われている形も、祈りと考えていいでしょう。
 四旬節で、まず祈りの時間を大切にする必要があるというのは、神様やイエス様に心を集中して祈ってみると、相手がそこに現存して私と向かいあっていて下さることが感じとられ、相手がどういう方かということを霊的に感じさせていただくことにより、そこにいる自分自身が神様の聖そのものである輝きにふれて、逆に自分自身のありのままの姿の醜さが浮き彫りにされ、罪の許しを願い、神様やイエス様の姿に少しでも近づきたい望みにかられ、回心の実りを結ぶことができるようになるからです。祈りの実践によって、もっともっと祈りを大切にしたい心も育てていただけるでしょう。
 節制という行いは、常日頃、ついさまざまな欲望に流されやすい人間の傾向に意識的に歯止めをかけ、バランスのとれた中庸を保つために、とても有益な行為です。欲望はそのものとして悪いものではありません。食欲がなければ、体を保って生きてゆくことができなくなるでしょう。しかし、さまざまな欲望は、行き過ぎた衝動を起こしやすいため、たくさんの弊害の原因ともなります。この節制に関連して、福島の原発事故を思い起こすことも大変大切です。日本の司教たちは、「いますぐ原発の廃止を」というメッセージを出しました。すべての原発は、とくに放射性物質の放出について、どれほど多くの危険性をはらんでいるかを確認した上のメッセージだったのです。巨大津波だけではなく、どの原発も、つねに無数の大きな危険性を持っていることは、チェルノブイリやスリーマイル島の例を見てもわかる通りです。ドイツやイタリアが福島の事故に触発されて、いち早く脱原発を決めたのもそのためです。
 結局、生活の向上や安楽を求める人間が、いざとなれば、どれだけ汚染や破壊を生み出すかわからない原発を、十分に調べないで肯定してきた結果が、今回の事故とそれによる惨事を生み出してきたのです。司教たちのメッセージの中に清貧による生活を促したのも、欲望に支配されず必要なだけのものをもって満たされる心の形成を求めたものにほかなりません。一度私たちは最低限必要なものだけで生活してみて、人間としてもっとも必要な人への愛や心の豊かさによる幸福とはどのようなものかを体験してみればよいのではないかと思います。
 苦業も、つい安楽に生きやすい人間が時には苦しみに耐える努力をしてみて、罪のつぐないを志す実践として勧められるのです。私たちに代わって、償いの苦しみを味わわれたイエス・キリストに少しでも自分たちの心を寄り添わせるために大切な心がけではないでしょうか。
 ところで、キリスト教の歴史の流れをずっと見てみると、つねに一番大切な掟は愛であると言われてきました。四旬節の間、自分が愛に生きているかをみつめなおしてみることも大事でしょう。イエス自身がもっともすぐれた掟は愛であると言われ(マタイ22・37-38;マルコ12・29-31)、パウロも、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければわたしは騒がしいドラ、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(1コリント13・1-3)と言い、「愛は忍耐強い、愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない」(1コリント13・4-8)と述べて、愛はあらゆる徳の源泉であると語っています。
 結局、人の生活を一番豊かにするものは愛なのです。人の集団の中で、皆が愛を持っているならば、この集団の人々は、幸せになります。先程ふれたように、いくら物を手に入れてもそれによって幸せは得られません。そうかといって、物を持たなければ、幸せになれるわけでもないのです。愛のあふれる場にこそ人の幸せもあふれるほど豊かになります。同時に物からの脱却がなければ愛の幸せも手に入れることはできないでしょう。今年の四旬節には、エネルギーも含めた、あらゆる物質の世界への必要以上の依存から離れて、精神的な豊かさを探し求める時にしましょう。

    

 2012年2月22日
日本カトリック司教協議会
会長  池長 潤

PAGE TOP