2012年 第27回「世界青年の日」教皇メッセージ

「主においてつねに喜びなさい」(フィリピ4・4)

2012年 第27回「世界青年の日」教皇メッセージ
「主においてつねに喜びなさい」(フィリピ4・4)

親愛なる若者の皆様。

 第27回「世界青年の日」にあたり、あらためて皆様にごあいさつできることをうれしく思います。昨年8月のマドリードでの大会の思い出はわたしの心の中にしっかりと残っています。それは特別な恵みの時でした。この大会の中で、神は世界中から集まった若者を祝福してくださったからです。昨年の大会が生み出したすべての実りのゆえに神に感謝します。この実りは、これからも若者と彼らが属する共同体のために増し加わることでしょう。今わたしたちは2013年のリオデジャネイロで開催される次の大会を目指しています。この大会のテーマは「行って、すべての民を弟子にしなさい」(マタイ28・19参照)です。

 今年の「世界青年の日」のテーマは聖パウロのフィリピの信徒への手紙の勧めからとられました。「主においてつねに喜びなさい」(フィリピ4・4)。実際、喜びはキリスト信者の経験の中心的な要素です。「世界青年の日」を祝うたびに、わたしたちは深い喜びを経験します。それは交わりの喜び、キリスト信者であることの喜び、信仰の喜びです。喜びは「世界青年の日」の特徴の一つです。わたしたちは喜びが人を引きつける大きな力をもっていることを見いだします。しばしば悲しみと不安によって特徴づけられる世界の中で、喜びは、キリスト教信仰がすばらしく、信頼の置けるものであることの重要なあかしです。

 教会の使命は、世に喜びをもたらすことです。この喜びは、真の永続的な喜びです。イエスが生まれた夜、ベツレヘムの羊飼いたちに天使が告げた喜びです(ルカ2・10参照)。神はことばを語られるだけではありません。人類の歴史の中で不思議なしるしを示されるだけではありません。神は、わたしたちの一人となり、完全に人間と歩みをともにするほどに、近くに来てくださいました。現代の困難な状況の中で、皆様の周りにいる多くの若者たちが、キリスト教のメッセージが喜びと希望のメッセージであることを知りたいと心から望んでいます。皆様とともに、この喜びについて、そしてこの喜びを見いだす方法について考えてみたいと思います。それは、皆様がこの喜びをますます深く味わい、それを周りにいる人々に伝える者となれるためです。

一 わたしたちの心は喜ぶために造られた

 喜びへの望みはすべての人の心の中にしるされています。わたしたちの心は、即席の満足感を超えて、深く完全でいつまでも続く喜びを求めます。この喜びはわたしたちの人生に「味わい」をもたらすことができるからです。このことはとくに皆様にいえます。青年期は、人生と世界と他者と自己自身をたえず発見する時期です。青年期は未来へと開かれています。そして、幸福、友情、分かち合いと真理への深い望みを示します。人は青年期に理想と計画によって導かれます。

 毎日が、主が与えてくださる単純な喜びに満ちています。生きる喜び、自然の美しさを前にした喜び、仕事を成し遂げた喜び、奉仕する喜び、真の純粋な愛の喜びです。注意深く考えてみるなら、喜びにはほかにも多くの理由があることが分かります。幸せな家庭生活、深い友愛、自分の才能の発見、成功の達成、人から受ける評価、自己を表現し、理解してもらえる力、隣人の力になれたという感覚です。さらに、研究を通じて得る新しい認識、旅や出会いによる新たな世界の発見、将来のための計画を実現する可能性もそうです。文学作品を読む、すばらしい芸術作品に見入る、音楽を聴き、また演奏する、映画を見るといった体験も、わたしたちのうちに真に固有の意味での喜びを生み出すことができます。

 しかし、わたしたちは日々、多くの困難にも遭遇します。心の中で未来に対する不安を抱きます。そこからわたしたちは、自分が願う完全で永続的な喜びは、幻想で、現実離れしたものでないかと自問することもあります。多くの若者がこう自問します。現代において、完全な喜びなどが本当に可能だろうか。喜びの追求はさまざまな道をたどります。間違った道、あるいは危険な道であることが分かる場合もあります。しかし、どうすれば一時的で人を欺く快楽と、真の永続的な喜びを区別することができるでしょうか。永続的で、困難のときにも自分を見捨てることのない、人生のまことの喜びをどうすれば見いだすことができるでしょうか。

二 神こそ、真の喜びの源

 実際、日々のささやかな喜びであれ、人生の中の大きな喜びであれ、真の喜びは皆、神から生まれます。たとえそのことが一見すると分からなくてもです。なぜなら、神は永遠の愛の交わりだからです。限りない喜びだからです。この限りない喜びは、自らのうちに隠しておかれず、むしろ、神が愛する者と、神を愛する者へと広がります。神はご自分に似せてわたしたちを造られました。それは、わたしたちを愛し、この愛をわたしたちに注ぎ、ご自身の現存と恵みでわたしたちを満たすためです。神はわたしたちをご自分の神的で永遠の喜びにあずからせることを望まれます。わたしたちの人生の深い意味と価値は、わたしたちが神に受け入れられ、聞き入れられ、愛されていることのうちにあることを見いださせてくださいます。そして神は、人間が人を受け入れるときのようなもろいしかたによってではなく、無条件のしかたでわたしたちを受け入れてくださいます。だからわたしたちは望まれた存在です。わたしには世界と歴史の中で占める場所があります。わたしは神に個人的に愛されています。神はわたしを受け入れ、愛してくださり、わたしはそのことを確信しています。だからわたしは知るのです。わたしが存在するのはよいことであると。そしてそれは明白、確実です。

 わたしたち一人ひとりに対する神の限りない愛は、イエス・キリストのうちに完全なしかたで示されます。わたしたちが探し求める喜びは、イエス・キリストのうちに見いだされます。わたしたちは、福音書の中で、イエスの生涯の始まりを示す出来事は、喜びによって特徴づけられているのを見いだします。大天使ガブリエルがおとめマリアに、彼女が救い主の母となることを告げたときの最初のことばはこれです。「喜びなさい」(ルカ1・28〔フランシスコ会聖書研究所訳〕)。イエスが生まれたとき、主の天使たちは羊飼いたちにいいます。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである」(ルカ2・10-11)。幼子を探しに来た占星術の学者たちは「その星を見て喜びにあふれた」(マタイ2・10)。それゆえ、これらの喜びの理由は、神が近くに来てくださったことです。神がわたしたちの一人になってくださったことです。これこそ、聖パウロがフィリピのキリスト信者に手紙を書き送ったときにいいたかったことです。「主においてつねに喜びなさい。重ねていいます。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」(フィリピ4・4-5)。わたしたちの喜びの第一の理由は、主が近づいてくださったことです。主がわたしを迎え入れ、愛してくださることです。

 イエスとの出会いはつねに心の深い喜びを生み出します。わたしたちはこのことを福音書にしるされた多くの出来事のうちに見いだすことができます。わたしたちは思い起こします。不当な徴税人であり公の罪人であったザアカイを訪ねたとき、イエスはこういわれます。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。すると、聖ルカが述べるとおり、ザアカイは「喜んでイエスを迎えた」(ルカ19・5-6)。これが主と出会う喜びです。神の愛を知った喜びです。神の愛は人生全体を造り変え、救いをもたらすからです。こうしてザアカイは生き方をあらため、財産の半分を貧しい人々に施すことを決断します。

 イエスの受難のとき、神の愛の力は完全に示されます。イエスは地上の生涯が終わろうとするとき、晩餐の中で友にいいます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。・・・・これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(ヨハネ15・9、11)。イエスはご自分の弟子とわたしたち皆を、ご自分が父とともにもっておられる完全な喜びへと導こうと望まれます。それは、ご自身に対する父の愛がわたしたちのうちにあるようにするためです(ヨハネ17・26参照)。キリスト教の喜びは、この神の愛に自分の心を開き、神に属する者となることです。

 福音書が語るとおり、マグダラのマリアと他の婦人たちは、イエスが死んだ後に葬られた墓を見に行きました。すると彼女たちは天使から、イエスが復活したという驚くべき知らせを聞きました。福音書記者はいいます。そのとき、彼女たちは「恐れながらも大いに喜び」、急いで墓を立ち去って、弟子たちにこの喜びの知らせを伝えるために走って行きました。すると、イエスが彼女たちと出会い、「おはよう」といわれました(マタイ28・8-9)。彼女たちに与えられたのは、救いの喜びです。キリストは生きておられます。キリストは、悪と罪と死に打ち勝ったかたです。復活した主であるキリストは、世の終わりまで、わたしたちとともにおられます(マタイ28・20参照)。わたしたちの人生で最後に勝利を収めるのは、悪ではありません。救い主キリストへの信仰はわたしたちに告げます。勝利を収めるのは神の愛だと。

 この深い喜びは、聖霊から生まれます。聖霊はわたしたちを神の子とします。神のいつくしみを体験し、味わわせます。そして、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるようにしてくださるのです(ローマ8・15参照)。喜びは、神がわたしたちのうちにともにいて、働いてくださることのしるしです。

三 心の中でキリスト信者の喜びを保つ

 ここでわたしたちは自問します。どうすればこの深い喜びのたまものを、すなわち霊的な喜びのたまものを受け入れ、保つことができるでしょうか。

 詩編はわたしたちにいいます。「主のゆえに喜べ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩編37・4〔フランシスコ会聖書研究所訳〕)。またイエスはこういわれます。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(マタイ13・44)。霊的な喜びを見いだし、保つことは、主との出会いから生まれます。主はわたしたちにこう求めるからです。わたしに従いなさい。すべてをわたしに賭ける決断を行いなさい。親愛なる若者の皆様。イエス・キリストとその福音に場所を空けるために、自分の人生を賭けることを恐れてはなりません。これこそ、自分の心のうちに平安と真の幸福を見いだすための道だからです。これこそ、神の像と似姿として造られた、神の子としての人生を真に生きるための道だからです。

 主のうちに喜びを探し求めなさい。喜びは信仰から生まれます。喜びとは、日々、主がともにいてくださり、友として愛してくださるのを知ることです。「主はすぐ近くにおられます」(フィリピ4・5)。喜びとは、主に信頼を置くことです。主をますます深く知り、愛することです。間もなく始まる「信仰年」は、わたしたちの助けまた刺激となってくれます。親愛なる友人の皆様。神が皆様の人生の中でどのように働いておられるか見いだせるようになってください。日々の出来事の中心に隠れておられる神を見いだしてください。神が洗礼の日に皆様と結んだ契約をとこしえに忠実に守られることを信じてください。神が決して皆様を見捨てることがないことを知ってください。何度も神に目を注いでください。神は皆様を愛するがゆえに、十字架上でいのちをささげられました。これほど大きな愛を仰ぎ見ることによって、何ものも倒すことのできない希望と喜びがわたしたちの心に生まれます。キリスト信者は決して悲しむことなどあり得ません。それは、自分たちのためにいのちをささげてくださったキリストと出会ったからです。

 主を探し求め、人生の中で主と出会うとは、主のことばを受け入れることでもあります。主のことばは心の喜びだからです。預言者エレミヤは述べます。「あなたのみことばが見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたのみことばは、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました」(エレミヤ15・16)。聖書を読み、黙想することを学んでください。自分の心と思いのうちにある真理に対する深い問いへのこたえを、聖書のうちに見いだしてください。神のことばは、神が人類の歴史の中でなさった驚くべきわざを発見させてくれます。わたしたちを喜びで満たし、わたしたちの心を賛美と礼拝へと開きます。「主に向かって喜び歌おう。・・・・わたしたちを造られたかた、主のみ前にひざまずこう」(詩編95・1、6)。

 さらに典礼は、教会が主から与えられ、世に伝える喜びを表すための特別な場です。主日の感謝の祭儀をささげるたびに、キリスト教共同体は、キリストの死と復活という、救いの中心的な神秘を記念します。それは主のすべての弟子の歩みにとって根本的な時です。そこには主の愛のいけにえが現在化するからです。主日は、わたしたちが復活したキリストと出会い、みことばに耳を傾け、主の御からだと御血によって養われる日です。詩編はいいます。「今日こそ主のみわざの日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう」(詩編118・24)。教会は復活徹夜祭に復活賛歌を歌います。復活賛歌は、イエス・キリストが罪と死に打ち勝ったことへの喜びを表します。「神の使いよ天に集い、声高らかに喜び歌え。・・・・まばゆい光をあびた大地よ、喜びおどれ。・・・・母なる教会よ、救いの光をあびて喜び歌え。この神の家も、人々の賛美をこだませよ」。キリスト信者の喜びは、神から愛されているという自覚から生まれます。神は人となり、ご自分のいのちをわたしたちのためにささげ、悪と死に打ち勝ちました。キリスト信者の喜びは、神への愛を生きることです。若きカルメル会修道女、幼いイエスの聖テレジア(1873-1897年)はこう述べています。「イエスよ わたしのよろこび それは あなたを愛すること!」(『詩45――1897年1月21日――』:Op. Compl., p. 708〔伊従昭子訳、『テレジアの詩』中央出版社、1989年、286頁〕)。

四 愛の喜び

 親愛なる友人の皆様。喜びは愛と深く結ばれています。喜びと愛は、切り離すことのできない、聖霊の結ぶ実です(ガラテヤ5・22参照)。愛は喜びを生みます。喜びも愛の形です。コルカタのマザー・テレサ(1910-1997年)は、「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使徒言行録20・35)というイエスのことばを繰り返しながら、こう述べます。「喜びは霊魂をつかまえるための愛の網です。神は喜んで与える者を愛します。そして、喜んで与える者は、ますます与えるのです」。神のしもべパウロ六世もこう述べます。「神ご自身においてすべては喜びです。すべてが与えることだからです」(使徒的勧告『ガウデーテ・イン・ドミノ――喜びの源に立ち返れ――(1975年5月9日)』)。

 皆様の生活のさまざまな領域を考えてみると、こういわなければなりません。愛するとは、ねばり強さ、誠実、約束への忠実を意味します。これは何よりもまず友愛にいえます。友人は、わたしたちが誠実、正直、忠実であることを期待します。なぜなら、真の愛は、どれほど困難なときにも忍耐強いものだからです。同じことは、皆様が従事する仕事、勉学、奉仕にもいえます。忠実に、忍耐強く善を行うことが、つねにすぐにとはいえないにせよ、喜びを生みます。

 愛の喜びを味わいたいなら、寛大さも求められます。そして、最低限のものを与えるだけで満足してはなりません。むしろ、とくにもっとも貧しい人に関心を払いながら、人生を徹底的に生きなければなりません。世界は、共通善のために奉仕する、専門的な能力を身に付けた、寛大な人間を必要としています。まじめに勉強し、才能を磨き、今から隣人に奉仕してください。自分のいるところで、より公正で人間らしい社会を作るために役立つ方法を探求してください。どうか、権力と物質的な成功と金銭の追求ではなく、奉仕の精神が皆様の人生を導きますように。

 寛大さに関連して、特別な喜びに言及しないわけにはいきません。それは、主に自分の生涯をすべてささげる召命にこたえるときに感じる喜びです。親愛なる友人の皆様。キリストが皆様を修道生活、観想生活、宣教者、司祭職へと招いても、恐れることはありません。このような生活に献身するべく、すべてを捨ててキリストとともにとどまり、他者のため分け隔てのない心で奉仕するようにという招きにこたえる人を、主が喜びで満たしてくださることを確信してください。同様に、結婚によって自分を完全に与え合い、家庭を築いて、教会に対するキリストの愛のあかしとなる男性と女性にも、主は大きな喜びをお与えになります。

 皆様を愛の喜びへと導く第三の要素を思い起こしたいと思います。それは、皆様個人の、また共同体の生活の中で兄弟の交わりを深めることです。交わりと喜びの間には密接なつながりがあります。聖パウロが勧告を複数形で述べているのは偶然ではありません。聖パウロは、個人個人に対してではなく、「(あなたがたは)主においてつねに喜びなさい」(フィリピ4・4)といっています。わたしたちは、ともに兄弟の交わりを生きることによって初めて、この喜びを味わうことができるのです。使徒言行録は初期キリスト教共同体の姿を次のように述べます。「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし」(使徒言行録2・46)ていた。キリスト教共同体が、分かち合いと気遣いと互いへの配慮の特別な場となるためにも、努力してください。

五 回心の喜び

 親愛なる友人の皆様。真の喜びを生きるためには、わたしたちを喜びから遠ざけるさまざまな誘惑を知ることも必要です。現代の文化はしばしば、わたしたちが即席の目標と成果と快楽を追求するよう促します。忍耐強い労苦と約束への忠実よりも、気まぐれが尊ばれます。皆様が受け取るメッセージは、消費主義的なものの考え方へと駆り立て、まがいものの幸福を約束します。経験が教えるとおり、所有することは喜びとはなりません。どれほど多くの人が、物質的な富を豊かに所有しながら、しばしば絶望と悲しみに沈み、生活の空しさを感じていることでしょうか。喜びのうちにとどまるには、真理と愛のうちに生きなければなりません。神のうちに生きなければなりません。

 神のみこころは、わたしたちが幸福であることです。だから神はわたしたちに、おきてという、歩むべき具体的な指示を与えたのです。おきてを守るなら、いのちと幸福への道を見いだします。一見すると、おきては禁止の一覧表であり、自由の妨げであるように思われます。しかし、キリストのメッセージに照らして注意深く考察するなら、これらのおきては、人生の本質的で貴重な規則をまとめたものであることが分かります。この規則は、神の計画に従って実現される幸福な生活へとわたしたちを導くのです。これに対して、神とそのみこころをないがしろにして人生を築くなら、失望と悲しみと敗北感を味わうことになるのをしばしば目にします。神に従うことを拒み、神の友愛を侮辱する、罪の体験は、心の闇をもたらします。

 しかし、キリスト信者の道はしばしば困難です。主の愛への忠実の約束が妨げられることも、堕落することもあります。そのようなときも、あわれみ深い神はわたしたちを見捨てません。むしろ、神に立ち帰り、神と和解し、ご自身の愛の喜びを味わうことをつねに可能にしてくださいます。神の愛はわたしたちをゆるし、再び迎え入れてくださるからです。

 親愛なる若者の皆様。しばしばゆるしの秘跡にあずかろうではありませんか。ゆるしの秘跡は、喜びを回復する秘跡です。自分の罪を認めるための光と、神にゆるしを願う力を聖霊に祈り求めてください。定期的に、落ち着きと信頼をもってゆるしの秘跡を受けてください。主はいつもみ腕を開いて、あなたがたを清め、ご自身の喜びへと導き入れてくださいます。悔い改める一人の罪人については、喜びが天にあるからです(ルカ15・7参照)。

六 試練のときの喜び

 しかし、最後に一つの問いが心の中に残ります。人生の多くの試練、とくに悲惨で不可解な試練の中でも、喜びを体験することが本当に可能でしょうか。主に従い、主に信頼することが、本当につねに幸福をもたらすでしょうか。

 皆様のような若者のある体験の中に答えを見いだすことができます。彼らはキリストのうちに、困難な状況の中にあっても力と希望を与えることのできる光を見いだしたからです。福者ピエル・ジョルジョ・フラサーティ(1901-1925年)は、その短い生涯の中で多くの試練を体験しました。その中には、彼の感情生活にかかわる、彼を深く傷つけた試練も含まれます。このような状況の中で、フラサーティは妹にこう書き送りました。「わたしが元気かと尋ねましたね。どうして元気でないわけがあるでしょう。信仰が力を与えてくれるかぎり、わたしは元気でいられます。カトリック信者は皆、元気でないことがありえないのです。・・・・わたしたちが造られた目的には、多くのいばらの蒔かれた道も含まれます。しかしそれは悲しみの道ではありません。この道は、悲しみを通る、喜びの道なのです」(「妹ルチアーナへの手紙(トリノ、1925年2月14日)」)。福者ヨハネ・パウロ二世は、フラサーティを模範として示しながら、彼についてこう述べます。「フラサーティは魅力的な喜びに満ちた若者でした。この喜びは、彼の生涯の多くの困難を圧倒するものでした」(「若者への講話(トリノ、1980年4月13日)」)。

 もっと最近では、最近列福された若者のキアラ・バダーノ(1971-1990年)がいます。彼女は、苦しみが愛によって造り変えられ、不思議なしかたで喜びを宿すことを体験しました。18歳でがんに侵されていたとき、キアラは聖霊に祈り、自分が属する運動団体の若者のために執り成しの祈りをささげました。キアラは自分のいやしだけでなく、神がご自身の霊によって多くの若者を照らし、彼らに知恵と光を与えてくださるよう願ったのです。「それはまさに神の時でした。わたしは肉体的には苦しんでいたのに、霊魂は歌っていました」(「キアラ・ルービックへの手紙(1989年12月20日)」)。キアラの平安と喜びを解く鍵は、主への完全な信頼と、彼女が自分の病気さえも自分とすべての人のための神のみこころの不思議な表現として受け入れたことです。キアラはよくこういっていました。「イエスよ。あなたがお望みでしたら、わたしもそれを望みます」。

 これは、他の多くのあかしの中の二つの例にすぎません。これらのあかしが示すことは次のようなことです。真のキリスト信者は、たとえどれほど辛い試練に遭っても、決して絶望することも悲しむこともありません。キリスト信者の喜びは、現実からの逃避ではなく、むしろ日々の困難に立ち向かい、それを生き抜くための超自然的な力です。わたしたちは知っています。十字架につけられて復活したキリストが、わたしたちとともにいてくださることを。キリストはつねに忠実な友でいてくださることを。キリストの苦しみにあずかるとき、わたしたちはその栄光にもあずかります。キリストとともに、キリストのうちに、苦しみは愛に造り変えられます。わたしたちはそこに喜びを見いだすのです(コロサイ1・24参照)。

七 喜びの証人

 親愛なる友人の皆様。終わりに皆様に勧めます。喜びの宣教者となってください。他の人々が幸福でないのに、自分だけ幸福でいることはできません。それゆえ、わたしたちは喜びを分かち合わなければなりません。イエスという、貴い宝を見いだした喜びを、行って他の若者に伝えてください。信仰の喜びを自分だけのものとすることはできません。それを自分のうちに保ちたければ、人に伝えなければなりません。聖ヨハネはいいます。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりをもつようになるためです。・・・・わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(一ヨハネ1・3-4)。

 時として、キリスト教のイメージは、自由を抑圧し、幸福と喜びへの望みに逆らう生き方として示されます。しかし、これは真実ではありません。キリスト信者は真の意味で幸福な人間です。なぜならキリスト信者は、自分たちが独りきりではなく、つねに神のみ手に支えられていることを知っているからです。とくにキリストの弟子である若い皆様の使命は、信仰が、真の完全で永続的な幸福と喜びをもたらすことを世に示すことです。もしも、キリスト信者の生き方が時として無気力で退屈に満ちたものに思われたなら、皆様が率先して信仰の喜びと幸福に満ちた姿をあかししてください。神はわたしたちを愛してくださいます。わたしたちは皆、神にとって大切な存在です。福音は、このことを告げる「よい知らせ」です。そのとおりであることを、世に示してください。

 それゆえ、熱意に満ちた、新しい福音宣教の宣教者となってください。苦しむ人、探し求めている人に、イエスが与えようと望む喜びを伝えてください。この喜びを、皆様が過ごしている家庭、学校と大学、職場、友人に伝えてください。皆様は喜びが伝染することを目の当たりにすることでしょう。皆様は百倍を受けることになるでしょう。それは、皆様自身の救いの喜びと、人々の心の中で働く神のあわれみを見いだす喜びです。皆様が終わりの日に主と出会うとき、主はこういうことができるでしょう。「忠実な良いしもべだ。・・・・主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25・21)。

 おとめマリアが皆様とこの歩みをともにしてくださいますように。マリアは主をご自身のうちに受け入れ、賛美と喜びの歌をもってそれを告げ知らせました。それが「マリアの賛歌」です。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1・46-47)。マリアは、謙遜で完全な奉仕のうちに自分の生涯を神にささげることを通して、神の愛に完全にこたえました。マリアは「われらが喜びの源」と呼ばれます。わたしたちにイエスを与えてくださったからです。だれもあなたがたから取り上げることのできないあの喜びへと、マリアが皆様を導いてくださいますように。

バチカンにて、2012年3月15日
教皇ベネディクト十六世

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