教皇ベネディクト十六世の復活徹夜祭ミサ説教 2012年

4月7日(土)午後9時から、サンピエトロ大聖堂で、教皇ベネディクト十六世は復活徹夜祭のミサをささげました。以下はミサにおける教皇の説教の全訳です(原文イタリア語)。
教皇はこのミサの中で、イタリア、アルバニア、スロバキア、ドイツ、トルクメニスタン、カメルーン、アメリカ合衆国出身の8名の洗礼志願者に洗礼を授けました。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 復活祭は新しい創造を祝う祭日です。イエスは復活し、もはや死ぬことがありません。イエスは新しいいのちへの門を開いてくださいました。この新しいいのちは、病気とも死とも無縁です。イエスは人類を神ご自身のうちに受け入れてくださいました。パウロはコリントの信徒への手紙一の中でいいます。「肉と血は神の国を受け継ぐことはできません」(一コリント15・50)。3世紀の教会著述家のテルトゥリアヌス(160以前-220年以降)は、キリストの復活とわたしたちの復活について、大胆にこう述べます。「肉と血よ、信頼せよ。お前たちはキリストによって天と神の国に場所を与えられた」(『死者の復活について』:De ressurectione mortuorum, CCL II, 994)。新しい次元が人類に開かれました。被造物はより偉大で広大なものとなりました。復活祭は新しい創造の日です。しかし、だからこそ教会はこの日、かつて行われた創造をもって典礼を始めます。それは、わたしたちが新しい創造をよく悟ることができるようになるためです。そこで、復活徹夜祭のことばの典礼の初めに、世界の創造の物語が朗読されます。この朗読に関して、今日の典礼との関連で、二つのことがとくに重要です。第一に、創造は、時間という現象を含む、その全体が示されます。七日間は、時間の中で展開される完全性を示す象徴です。時間は第七の日に向けて方向づけられます。第七の日は、全被造物が神と他のものに向けて解放される日です。それゆえ創造は、神と被造物の交わりへと方向づけられます。創造は、神の偉大な栄光にこたえる場を開くために、すなわち、愛と自由が出会うために存在します。第二に、教会が復活徹夜祭の創造物語の中で最初に耳にするのは、次のことばです。「光あれ」(創世記1・3)。創造物語は、象徴的なしかたで、光の創造から始まります。太陽と月は第四の日に初めて創造されます。創造物語は太陽と月を、神が天の大空に置いた、光源と呼びます。こうして創造物語は意識的に太陽と月から、諸宗教がそれらのうちに認めていた神的性格を取り去ります。確かに、太陽と月は神々ではありません。それらは唯一の神によって造られた、光る物体です。しかし、これらの光る物体には光が先立ちます。この光を通じて、神の栄光が、造られたものの本性のうちに映し出されるのです。
 創造物語はこのことから何をいおうとしているのでしょうか。光はいのちを可能にします。出会いを可能にします。交わりを可能にします。現実と真理を認識し、それに近づくことを可能にします。認識を可能にすることを通じて、自由と進歩を可能にします。悪は隠れます。それゆえ、光は善の表現でもあります。善は輝きであり、また輝きを造り出すからです。光は、わたしたちがその中で活動できる、日の光です。神が光を創造したとは、神が認識と真理の場として、出会いと自由の場として、善と愛の場として世を創造したということです。世の最初の物質はよいものです。存在することそのものがよいことです。悪は神が造られたものから生まれません。むしろそれは、否定することによって初めて存在します。悪とは「否み」です。
 復活祭の、週の初めの日の朝、神はあらためておおせになりました。「光あれ」。この日の前に、オリーブ山の夜が、イエスの受難の死の日食が、墓に葬られた夜が訪れました。しかし、再び第一の日が来ます。まったく新たな創造が再び始まります。神はいわれました。「光あれ。こうして、光があった」。イエスは墓から復活します。いのちは死よりも強力です。善は悪よりも強力です。愛は憎しみよりも強力です。真理はいつわりよりも強力です。イエスが墓から復活したとき、それまでの日の闇は消え去ります。イエスご自身が純粋な神の光となるからです。しかし、このことはイエスと、イエスが体験した闇にだけいえることではありません。イエスの復活により、光自身が新たに創造されます。イエスはわたしたち皆をご自身に続いて復活の新たないのちへと引き寄せます。そして、すべての闇に打ち勝ちます。イエスこそが、わたしたち皆にとって、神の新たな日です。
 しかし、どうしてこのようなことが起きることが可能でしょうか。どうしてこのようなことがわたしたちに生じうるでしょうか。しかも、それが単なることばにとどまらず、わたしたちにかかわる現実となりうるでしょうか。主は洗礼の秘跡と信仰告白によって、わたしたちへの橋を作ってくださいました。この橋を通って、新しい日がわたしたちに到来します。主は洗礼のとき、受洗者にいわれます。「光あれ(Fiat lux)」。すると、新しい日が、滅びることのないいのちの日がわたしたちにも訪れます。キリストはあなたの手をとってくださいます。今からあなたはキリストに支えられ、光の中を、まことのいのちを歩み始めます。そのため古代の教会は洗礼を「照らし(フォーティスモス)」と呼んだのです。
 なぜでしょうか。人間を本当に脅かす暗闇とは、人間が、手で触れることのできる物質的なものを見て、調べることができながら、世界がどこへ向かい、どこから来るべきかが分からないことです。人生がどこへ向かうべきかが分からないことです。何が善で、何が悪かが分からないことです。神とその価値についての暗闇は、わたしたちの人生と、世界全体にとっての真の脅威です。神ともろもろの価値、善と悪の違いが暗闇のうちにとどまるなら、わたしたちに信じがたい力を与えてくれる他の明るい光は、進歩であるだけでなく、脅威ともなります。この脅威はわたしたちと世界を危険にさらします。現代のわたしたちは、空の星が見えなくなるほどの輝きで町を明るくすることができます。これは、啓蒙されたわたしたちの問題を表すたとえではないでしょうか。わたしたちは物質的なことがらについては驚くほどたくさんのことを知っており、また知ることが可能です。しかし、物質的なことがらを超えたもの、すなわち神と善については、もはや分からなくなっています。だから、わたしたちに神の光を示す信仰こそが、まことの照らしです。この照らしは、神の光をわたしたちの世界にもたらし、わたしたちの目をまことの光に向けて開いてくれるのです。
 親愛なる友人の皆様。終わりに、光と照らしについてもう少し考えてみたいと思います。教会は、復活徹夜祭の新たな創造の夜に、特別でありながらきわめてつつましい象徴をもって光の神秘を示します。すなわち復活のろうそくです。復活のろうそくは、犠牲によってともる光です。ろうそくは自分を燃やすことによって照らします。自分を与えることによって光をもたらします。こうして教会はキリストの過越の神秘を驚くべきしかたで示します。キリストはご自身を与えることによって、偉大な光をもたらすからです。第二に考えてみたいのは、ろうそくの光が火だということです。火は世を形づくる力です。変容の力です。火はまた熱を与えます。ここでもキリストの神秘があらためて目に見えるものとなります。光であるキリストは、火です。この炎は悪を焼き尽くし、そこから、世とわたしたちを造り変えます。オリゲネスによって伝えられたイエスのことばはいいます。「わたしに近づく者は火に近づく」。この火は同時に熱です。それは冷たい光ではなく、わたしたちを神の温かさといつくしみと出会わせてくれる光です。
 助祭が復活徹夜祭の典礼の初めに歌う、偉大な復活賛歌は、もう一つのことをわたしたちに静かに語ります。復活賛歌は、ろうそくが蜂の働きに由来することを思い起こさせます。こうして全被造物が役割を果たします。ろうそくによって、被造物は光をもたらすものとなります。ところで、教父の考えでは、ろうそくは教会も暗示します。教会における信者の生きた共同体の協力は、いわば蜂の働きのようなものです。この働きが光の共同体を築きます。それゆえわたしたちはろうそくのうちに、わたしたちに対する教会共同体の交わりへの招きを見いだすことができます。教会は、キリストの光が世を照らすことができるために存在するからです。
 このときにあたり、主に祈ろうではありませんか。あなたの光の喜びをわたしたちに味わわせてください。主に祈ろうではありませんか。わたしたちもあなたの光をもたらす者としてください。教会を通して、キリストのみ顔の輝きが世を照らしますように(『教会憲章』1参照)。アーメン。

略号
CCL Corpus Christianorum Series Latina

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